凌雲寺惣門は永正4年(1507)ごろに造られた遺構で、台地を横切る石垣は、巨大な自然石を用いて築かれている。
前側の遺構は、長さ60メートル、高さ3メートル、幅2メートルあまりと壮大なものである。後ろ側の遺構では中央に比較的小さい石を詰めた門の後が見られる。
参考文献 説明板と大内文化探訪会編「大内文化探訪」
181009
前側の遺構は、長さ60メートル、高さ3メートル、幅2メートルあまりと壮大なものである。後ろ側の遺構では中央に比較的小さい石を詰めた門の後が見られる。
参考文献 説明板と大内文化探訪会編「大内文化探訪」
181009
昨日は、ミョウガが、また10個ぐらい採れました、また早稲ミカンが色づいてきたものを二人で6個も採って食べました。甘酸っぱくてとても美味しく戴きました。
畑は空いているところを消石灰を撒き二畝耕しました。
畑は空いているところを消石灰を撒き二畝耕しました。
凌雲寺は、大内義興が生前自らを開基に了庵桂悟を開山として、永正4年(1507)ごろ創建した義興の菩提寺である。
山号、宗派は不明であるが東方便山ふもとから舌状に南に伸びる台地の上に造られており巨大な石組や寺の位置から見ると有事の際の城砦にも使えるものと推測される。
永禄12年(1569)毛利隆元の7回忌をこの寺で行ったといわれているがいつ廃寺となったかは定かでない。
この寺の毘沙門堂は現在吉敷の玄斉寺に現存している。義興当時が偲ばれる唯一の建築物である。
参考文献 説明板と大内文化探訪会編「大内文化探訪」
181009
山号、宗派は不明であるが東方便山ふもとから舌状に南に伸びる台地の上に造られており巨大な石組や寺の位置から見ると有事の際の城砦にも使えるものと推測される。
永禄12年(1569)毛利隆元の7回忌をこの寺で行ったといわれているがいつ廃寺となったかは定かでない。
この寺の毘沙門堂は現在吉敷の玄斉寺に現存している。義興当時が偲ばれる唯一の建築物である。
参考文献 説明板と大内文化探訪会編「大内文化探訪」
181009
赤田神社の拝殿の天井には八方ににらみを利かせた龍の絵が描かれている。これは吉敷出身の画家・内藤風岳が描いたものです。北隅に「風岳」の署名と朱印がおされている。
こういった龍の絵は京都など仏閣の多いところにはよく見られますが、実物はすごい迫力がありこの地方では珍しいです。
181009
こういった龍の絵は京都など仏閣の多いところにはよく見られますが、実物はすごい迫力がありこの地方では珍しいです。
181009
これは赤田神社のソバにある吉敷川の淵の岩の一部である。以前赤田神社は少し離れたところ(古4の宮)にありましたが、
養老年間に神様が「私は岩屋の絶壁が気に入っているから、こちらへ遷りたい」とおっしやって、現在の場所に落ち着かれたといわれている。
高い絶壁である。見た目では約30mの高さはあるであろう。
181009
養老年間に神様が「私は岩屋の絶壁が気に入っているから、こちらへ遷りたい」とおっしやって、現在の場所に落ち着かれたといわれている。
高い絶壁である。見た目では約30mの高さはあるであろう。
181009
今日は体育に日でありサイクリングを楽しんだ。近郷の吉敷中尾に大内氏の遺跡があるのでそこへ行く途中にここへ立ち寄った。
この神社は古く西暦139年に吉敷中村に出雲大社から御分霊を祭ったのが始まりといわれている。養老元年(717)この赤田の地に移されている大内義興の時代、戦勝祈願として5の宮詣でをしていた時この神社は4の宮といわれていた。今でも4の宮といっている。
社の拝殿の屋根はトタンブキであるが鉄板の耐用年数は25年とすでに耐用年数を経過し雨漏りもしているという。修復の寄付を募っていた。
181009
きょうはプールに行き6時50分から7時50分の一時間をプールで過ごしました。1000m遠泳と1000メ-トルの水中をウオーキングのセットして帰りました。
この神社は古く西暦139年に吉敷中村に出雲大社から御分霊を祭ったのが始まりといわれている。養老元年(717)この赤田の地に移されている大内義興の時代、戦勝祈願として5の宮詣でをしていた時この神社は4の宮といわれていた。今でも4の宮といっている。
社の拝殿の屋根はトタンブキであるが鉄板の耐用年数は25年とすでに耐用年数を経過し雨漏りもしているという。修復の寄付を募っていた。
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きょうはプールに行き6時50分から7時50分の一時間をプールで過ごしました。1000m遠泳と1000メ-トルの水中をウオーキングのセットして帰りました。
★徳佐八幡宮古文書より
延宝7年(1679)10月に社の炎上に伴い翌年再建しているがその再建時の棟札の写し。
●長門阿武郡徳佐宝清山八幡宮
往昔寿永元年豊の前州よりここに奉請す、歳年漸々祭祀不断、近歳延宝己未煨燼に屬す、この時神像尤瞻仰を堪え脱を得る、ここに於いて執政太夫邦君の敬意をうけたまう、以って邑宰をせしむ、乃神相の為改め攸、茲以って壝宮其風肆好煥乎舊、高山顕敞而勝地、是宜実海内の宗廟而在々所歸也、邦君の永年子孫繁栄を幸願す、国家の佳祥を得る、境内の富饒これあり、丹悃を以って祈る、銘曰、
乾清坤寧 大明無私 洋々在上 供祈候禕 止戈神武 長服其威
執政 毛利外記大江就直
延宝(1680)8年庚申9月吉日
防長ニ州牧毛利正胄大膳太夫従四位下兼行待従大江綱広朝臣
匠 材間又左衛門
郡尉 福原長右衛門就員
匠 村上伊右衛門
社司 渡邊刑部少輔藤原定
鼓頭 渡邊隼人佑藤原元
毛利外記大江就直は右田毛利一門の毛利六郎左衛門就信(元倶の孫・右田毛利家3代目)ぬしの次男で毛利丹波守元包(吉敷毛利氏2代目)ぬしの養子となった人である。
毛利綱広(1639・12・1~1689・6・4)は長州藩初代藩主秀就君の嫡男で長州藩2代目の藩主である。
このたびの再建に当たりこの社の崇高さと藩主の子々孫々の繁栄と国家およびこの神社の繁栄と平和を詠っている。毛利綱広(当時41歳)がこの神社を再建したのである。
邑宰にせしめて、古宮山からこの荒神山に遷宮をなしたのである。
参考文献 防長風土注進案
延宝7年(1679)10月に社の炎上に伴い翌年再建しているがその再建時の棟札の写し。
●長門阿武郡徳佐宝清山八幡宮
往昔寿永元年豊の前州よりここに奉請す、歳年漸々祭祀不断、近歳延宝己未煨燼に屬す、この時神像尤瞻仰を堪え脱を得る、ここに於いて執政太夫邦君の敬意をうけたまう、以って邑宰をせしむ、乃神相の為改め攸、茲以って壝宮其風肆好煥乎舊、高山顕敞而勝地、是宜実海内の宗廟而在々所歸也、邦君の永年子孫繁栄を幸願す、国家の佳祥を得る、境内の富饒これあり、丹悃を以って祈る、銘曰、
乾清坤寧 大明無私 洋々在上 供祈候禕 止戈神武 長服其威
執政 毛利外記大江就直
延宝(1680)8年庚申9月吉日
防長ニ州牧毛利正胄大膳太夫従四位下兼行待従大江綱広朝臣
匠 材間又左衛門
郡尉 福原長右衛門就員
匠 村上伊右衛門
社司 渡邊刑部少輔藤原定
鼓頭 渡邊隼人佑藤原元
毛利外記大江就直は右田毛利一門の毛利六郎左衛門就信(元倶の孫・右田毛利家3代目)ぬしの次男で毛利丹波守元包(吉敷毛利氏2代目)ぬしの養子となった人である。
毛利綱広(1639・12・1~1689・6・4)は長州藩初代藩主秀就君の嫡男で長州藩2代目の藩主である。
このたびの再建に当たりこの社の崇高さと藩主の子々孫々の繁栄と国家およびこの神社の繁栄と平和を詠っている。毛利綱広(当時41歳)がこの神社を再建したのである。
邑宰にせしめて、古宮山からこの荒神山に遷宮をなしたのである。
参考文献 防長風土注進案
秋にもミョウガが取れるのである。今日はよく花の咲いたミョウガをこんなにたくさん採ってしまった。
これを美味しく食べる方法は、ベーコンを油でいため、ミョウガを刻んでいためる。それを熱いご飯の入れて混ぜるとおいしいミョウガご飯ができます。一度試してみてください。
これを美味しく食べる方法は、ベーコンを油でいため、ミョウガを刻んでいためる。それを熱いご飯の入れて混ぜるとおいしいミョウガご飯ができます。一度試してみてください。