ー元山城・大将陣山城跡・塚穴についてー
徳佐郷に古戦場として、元山城および大将陣がありこの義長・晴賢と正頼の役に使用された戦場と思える。それは、風土注進案、の古戦場古城跡のところに載っている。
元山城
徳佐市の下、坪の内村にあり、古老の伝えるところによれば、陶晴賢(にゅうどうぜんきょう入道)全薑(しょうが・剛直)、吉見三河守正頼を攻めんとして、この所に城を築き12年間居候していた。
嶺上に平坦な所3反表くらい台地があった。近年までは、(やじり)鏃茶碗の欠けらなど出ている。
また堀の跡と伝えられている切岸めいた所もあった。すべてこの山は嶺続きで東北は大久保村まで、西は蔵多村の上まで続いている。
左右56町くらい、広さ34尺位の道形が残っている。また茶臼山という所もこの元山の中にある。坪の内村の下、蔵多村境の小名を切り防と言われているがこれは坪の内村と台村との間に流れる大川(朝早川)を切り塞ぎ堀としてこの城を構えて防備を強化していたもので「切防」の名が残っている。坪の内の名はその切防より内を「坪の内」と云うことになったらしい。
お代官所考えて曰く、吉見氏・陶氏合戦の(みぎり)砌(時期)山口より石州へ便利な地であるから要所を守る必要があったという事実からして間違いないといえる。今この坪の内村にこの砦の跡が歴然として残っており、軍卒陣営の地と見る。
大将陣山城跡
一般に、普光寺(徳佐村上亀山)にあり、(すえぜんきょう)陶全薑一夜城跡と言い伝えがある。山は切り段数個所ありて、また23町隔たりて、宝亀山(三原)八幡宮の山にも同様なる所がある。そして敵隠れという山もある。
塚穴
畠田、下山、水戸、上開作などの山に大なる穴ありて里人の談に、塚穴といい、太古八つの日照りの時、穴に入っていた。また昔、火の雨、火の風が吹いたとき穴に入り避難していとものという。
御代官所考えて曰く、火の雨、火の風、八つの日照りなどというもの元より論ずるに足らず。
案ずるにかの吉見氏・陶氏との戦争のみぎり軍卒の狼藉をすることを恐れて穴を掘っていわゆる家財などを隠し置いたものである。
また老人幼少の男女杯の隠れいたところでもある。戦ありと聞いて、農民などが山林に隠れたる例、世々の軍談書等に多く見られる。また敵隠し、といって、陶軍勢、野坂峠に飼い兵をだして、吉見勢を思うところにおびき誘き入れ引き込んで討たんと伏兵を構えし所とも云われている。
さて塚穴は束穴の意にて束を立て梁をなして中を広く構えたる穴であった。今では埋まってしまったが、広い穴は、奥行き2間余り横幅1間余りもあって入り口は狭かったと聞いている。
引用・参考文献「徳佐村史」「防長風土注進案」
徳佐郷に古戦場として、元山城および大将陣がありこの義長・晴賢と正頼の役に使用された戦場と思える。それは、風土注進案、の古戦場古城跡のところに載っている。
元山城
徳佐市の下、坪の内村にあり、古老の伝えるところによれば、陶晴賢(にゅうどうぜんきょう入道)全薑(しょうが・剛直)、吉見三河守正頼を攻めんとして、この所に城を築き12年間居候していた。
嶺上に平坦な所3反表くらい台地があった。近年までは、(やじり)鏃茶碗の欠けらなど出ている。
また堀の跡と伝えられている切岸めいた所もあった。すべてこの山は嶺続きで東北は大久保村まで、西は蔵多村の上まで続いている。
左右56町くらい、広さ34尺位の道形が残っている。また茶臼山という所もこの元山の中にある。坪の内村の下、蔵多村境の小名を切り防と言われているがこれは坪の内村と台村との間に流れる大川(朝早川)を切り塞ぎ堀としてこの城を構えて防備を強化していたもので「切防」の名が残っている。坪の内の名はその切防より内を「坪の内」と云うことになったらしい。
お代官所考えて曰く、吉見氏・陶氏合戦の(みぎり)砌(時期)山口より石州へ便利な地であるから要所を守る必要があったという事実からして間違いないといえる。今この坪の内村にこの砦の跡が歴然として残っており、軍卒陣営の地と見る。
大将陣山城跡
一般に、普光寺(徳佐村上亀山)にあり、(すえぜんきょう)陶全薑一夜城跡と言い伝えがある。山は切り段数個所ありて、また23町隔たりて、宝亀山(三原)八幡宮の山にも同様なる所がある。そして敵隠れという山もある。
塚穴
畠田、下山、水戸、上開作などの山に大なる穴ありて里人の談に、塚穴といい、太古八つの日照りの時、穴に入っていた。また昔、火の雨、火の風が吹いたとき穴に入り避難していとものという。
御代官所考えて曰く、火の雨、火の風、八つの日照りなどというもの元より論ずるに足らず。
案ずるにかの吉見氏・陶氏との戦争のみぎり軍卒の狼藉をすることを恐れて穴を掘っていわゆる家財などを隠し置いたものである。
また老人幼少の男女杯の隠れいたところでもある。戦ありと聞いて、農民などが山林に隠れたる例、世々の軍談書等に多く見られる。また敵隠し、といって、陶軍勢、野坂峠に飼い兵をだして、吉見勢を思うところにおびき誘き入れ引き込んで討たんと伏兵を構えし所とも云われている。
さて塚穴は束穴の意にて束を立て梁をなして中を広く構えたる穴であった。今では埋まってしまったが、広い穴は、奥行き2間余り横幅1間余りもあって入り口は狭かったと聞いている。
引用・参考文献「徳佐村史」「防長風土注進案」