霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

宝清山徳佐八幡宮記⑨

2005-02-28 21:16:59 | 郷土史
 ー元山城・大将陣山城跡・塚穴についてー

 徳佐郷に古戦場として、元山城および大将陣がありこの義長・晴賢と正頼の役に使用された戦場と思える。それは、風土注進案、の古戦場古城跡のところに載っている。

元山城
 徳佐市の下、坪の内村にあり、古老の伝えるところによれば、陶晴賢(にゅうどうぜんきょう入道)全薑(しょうが・剛直)、吉見三河守正頼を攻めんとして、この所に城を築き12年間居候していた。

 嶺上に平坦な所3反表くらい台地があった。近年までは、(やじり)鏃茶碗の欠けらなど出ている。

 また堀の跡と伝えられている切岸めいた所もあった。すべてこの山は嶺続きで東北は大久保村まで、西は蔵多村の上まで続いている。

 左右56町くらい、広さ34尺位の道形が残っている。また茶臼山という所もこの元山の中にある。坪の内村の下、蔵多村境の小名を切り防と言われているがこれは坪の内村と台村との間に流れる大川(朝早川)を切り塞ぎ堀としてこの城を構えて防備を強化していたもので「切防」の名が残っている。坪の内の名はその切防より内を「坪の内」と云うことになったらしい。

 お代官所考えて曰く、吉見氏・陶氏合戦の(みぎり)砌(時期)山口より石州へ便利な地であるから要所を守る必要があったという事実からして間違いないといえる。今この坪の内村にこの砦の跡が歴然として残っており、軍卒陣営の地と見る。

大将陣山城跡
一般に、普光寺(徳佐村上亀山)にあり、(すえぜんきょう)陶全薑一夜城跡と言い伝えがある。山は切り段数個所ありて、また23町隔たりて、宝亀山(三原)八幡宮の山にも同様なる所がある。そして敵隠れという山もある。


塚穴

 畠田、下山、水戸、上開作などの山に大なる穴ありて里人の談に、塚穴といい、太古八つの日照りの時、穴に入っていた。また昔、火の雨、火の風が吹いたとき穴に入り避難していとものという。

 御代官所考えて曰く、火の雨、火の風、八つの日照りなどというもの元より論ずるに足らず。

 案ずるにかの吉見氏・陶氏との戦争のみぎり軍卒の狼藉をすることを恐れて穴を掘っていわゆる家財などを隠し置いたものである。

 また老人幼少の男女杯の隠れいたところでもある。戦ありと聞いて、農民などが山林に隠れたる例、世々の軍談書等に多く見られる。また敵隠し、といって、陶軍勢、野坂峠に飼い兵をだして、吉見勢を思うところにおびき誘き入れ引き込んで討たんと伏兵を構えし所とも云われている。
 
 さて塚穴は束穴の意にて束を立て梁をなして中を広く構えたる穴であった。今では埋まってしまったが、広い穴は、奥行き2間余り横幅1間余りもあって入り口は狭かったと聞いている。
 

引用・参考文献「徳佐村史」「防長風土注進案」

宝清山徳佐八幡宮記⑧

2005-02-27 10:57:47 | 郷土史
ー軍功をあげ毛利元就からの感状等ー

風土注進案 宝清山八幡宮記録に
 この度の矢地(夜(や)市(じ))若山要害加勢忠節の事に候、なかんずく佐波郡河内八幡宮御旗印に宝殊同権現御旗印日の丸の由(よし)その意得(こころうる)候、柚木惣領太三郎も加勢の由(よし)、 紋等の儀迄申し来られ候
両人共に相談、明日辰の刻下口戸(へ)田(た)川楯取の一所に出張防ぎもっともに候、軍夫の儀は太三郎より宿禰方へ申しつけ入り次第召供申すべく候、右の通り太三郎方へ申し遣い候、軍粮(ぐんりょう)の儀は先様に於いて勘渡申し付け候、恐々謹言。
       申  3月7日(弘冶3年・1557年)
                          義 任   花押
                          興 之   花押
                          元 訖(包) 花押
   宝清山社司
          久守右衛門太夫 殿
 これは、天文、弘冶、永録の年間陶氏の居城である富田若山城のお取り合いについて毛利家より下附された御書であるが3人の連署今だ誰かわからない。

 

この書簡において考えるに弘冶元年厳島の戦い。弘冶元年(1555)毛利元就厳島に(すえはるかた)陶晴賢を誅す。弘冶2年2月陶長房若山城を杉重輔に襲撃され、龍文寺に遁れ、力尽きて自殺している、のち長房等の遺臣が若山城に立てこもったけれども、弘冶3年3月(1557)須々万の沼城が陥落したので自ら潰れている。弘治3年3月8日元就父子若山城に移陣しており、そのときの軍夫、兵糧について久守右衛門太夫が元就父子のための奔走し警備したことと、若山要害取り合いのとき粉骨の働きをしたことへの感状であると思える。

また沼城襲撃において芸候三家誌の載する所に
 
都濃郡須々万の沼城は三方沼沢に囲まれた平地の城であるが城主山崎伊豆守父子は毛利軍の来功に先だって急を大内氏に告げ、江良弾正忠、宮川伊豆守、伊香賀左衛門太夫以下数千の援兵を得ていたのでその勢力は、侮りがたいものであった。

 弘冶2年11月19日(1556)毛利隆元、宍戸安芸守、熊谷兵庫助ならびに福原左近将監、桂能登守、志道上野守以下5千余騎にて、一時城を攻め落とさんとするに、城兵よく防戦し毛利勢引き退く危うくなりそうであった。

 21日熊谷兵庫助、永井右衛門太夫、渡邊左衛門太夫、の3人を(しんがり)殿として隆元、陣を引き払うことになる。敵大勢にて追走あらば、熊谷、永井、渡邊、数度引き返し、(ちょう)稠しく(濃く)相戦い、敵の大将伊香賀左衛門太夫を渡邊左衛門太夫が討ち取りければ、それより敵引き返すによって、隆元(つつがなく)恙無く(軽く)21日、岩国に打ち入りられる。
 
この渡邊左衛門太夫の功名は、宝清山八幡宮の社司渡邊左衛門太夫か明らかならざれども、周囲の事情より考える時かかるもあるものと考えるのである。
 即ち宝清山八幡宮所蔵に古馬具が持ち伝えられている。元就様から拝領つかまつり候と申し伝えあり。その節、御書をも頂戴したが紛失している。
 
 その文言を天保15年の宮司渡邊紀伊の覚えでは、その大意は、このたび修理、若山の要害云々、柚木村還場左衛門太夫が勢田長橋に出迎え要害を粉骨動きで数多くの首を云々、それによりお召し下し遣わし候事と御座候よし申し伝え候、年号月日等覚え申さず候。奥に元就様の御尊名御判等も御座候て、外に7人のお名前御判等も之あり、右は七雄の御名も居り居候由に彼の家に申し伝え候、7雄と申す事いかなるお方様にて御座候や、その申し伝えは御座なく候。

 (ここに柚木村鑑場左衛門太夫とは久守太三郎か久守右衛門太夫のことではないか軍功で名を賜り左衛門太夫に替え大宮司職を賜ったと思える。)
 

 当時、宝清山八幡宮は、周防佐波郡鯖河内八幡・権現両社の外に往古は熊毛郡小松原八幡宮・えとろ八幡宮(野土呂八幡宮のこと,徳地町船路村)・地福村八幡宮をも兼勤していたと山城守(右田毛利元倶(もととも))様の御書の中に相見えるのである。
 
これらから擦るところ、弘冶2年11月19日都濃郡須々万の沼城を攻撃し退去のとき、しんがりを勤め、敵陣の大将の首を討ち取った軍功と弘冶3年3月7日矢地(夜市)若山要害取り合いに久守右衛門太夫が柚木八幡に仕えていた惣領の太三郎を引き連れて加勢に参加し粉骨の働きをして、毛利元就の感状に預かり金蒔絵の馬具を拝領したものであろう。芸候三家誌に記せる沼城の渡邊左衛門太夫功名のことは久守右衛門太夫と同一人で、右と左の書き誤りといえると、徳佐村史の筆者渡邊斧一氏の見解もある。

 私見としては久守右衛門太夫の子息、柚木の惣領大三郎が、天保15年宮司渡邊紀伊が述べている「このたび修理、若山の要害云々、柚木村還場左衛門太夫が勢田長橋に出迎え要害側の数多くの首を取る等粉骨の働きをしたことで下附賜ったと申し伝えあり云々」と言い伝えありと申し述べているところから惣領大三郎が左衛門太夫であるとの見解を持つのである。
毛利元就から拝領の馬具
〔貼 紙〕
1、鞍黒塗前輪後輪共に桜折枝金蒔絵
1、切付肌付共に金地と相見へ申し候
1、鞍褥 同断
1、逆靼 同断
1、鐙象眼銀牡丹沓入朱塗
1、障泥青地革金立波
1、総裨萌黄組絲
右色相模様古び候て慥に相分不申候得共、凡前書之通に相見へ申し候、
此外之具は紛失仕候哉無御座候事

 徳佐と陶氏については以上大体結末を告げたが、最期に陶氏所領のことであるが陶氏領地は佐波郡徳地であり柚木村は陶領であったものである陶氏の居城は都濃郡富田若山城にあり夜市、福川も陶領であった。応永11年(1404)より陶氏は、若山城を居城としているがその昔は吉城郡陶村を領して右田氏より分かれて始めて陶氏と称したのである。
 
 なぜ久守氏は、陶氏の領地にありながら毛利氏に味方したのかは、陶氏が大内義隆を討った後であり、吉見氏、嘉年勝山城復活以後(弘冶2年3月・1556年)のことであると考えられるのである。
 
 かくして弘冶3年(1557)4月3日大内義長自殺により阿武郡の地および厚東・佐波2郡の地にて若干地を拝領す。と徳佐は再び吉見氏に復した。
  
 慶長5年(1600)9月関が原戦後毛利氏の領土減少して防長2国となるにおよび輝元は吉見広長に対して厚東・佐波2郡の内にて一万石にすると命じ慶長5年冬、津和野を去らせ萩の大井に移す。元和4年(1618)8月吉見氏、削封に不満を持ち、輝元に殺され、正統絶える。

引用・参考文献 「徳佐村史」「防長風土注進案」

宝清山徳佐八幡宮記⑦

2005-02-24 22:19:51 | 郷土史
ー宮中覚書等(1240・1244年)後の徳佐郷近辺での主な動きと大内義長と同家老中からの感悦状ー

709年 6代大内正恒 高鹿垣に上宮(北辰妙見社(鷲頭寺)を建てた。)下松市に鷲頭山があり山頂に降松神社が祀られておりその箇所のことと思える
827年 11代大内茂村 北辰妙見社を清上山(山口市大内村氷上山)に移そうと試みたが受け入れなかった。琳聖太子の創建、興隆寺は大内氏の氏社とした。
仁平1年(1151) このころから大内氏は大内村を中心に勢力を伸ばし始めた
建永7年(1206) 山口市白石に大内満盛が瑞雲寺を建立した
建長6年(1254) 山口市円政寺の鰐口に初めて山口の文字がみえる
弘安4年(1281) 大内弘貞20代、弘安の役に出陣した
弘安5年(1282) 吉見頼行 石州木辺郷に移住す。
文保2年(1318) 大内重弘22代、が東大寺の国務と対立
元弘3年(1333) 吉見頼行 長門探題、北条時直を追い阿武郡を領す。
 
 このころ石州津和野城主吉見式部四郎頼行が三原八幡宮の再建をしている。この神社はのちに吉見家・大内家のお取り合いの節大内家より焼失されている。

建武1年(1334) 建武の中興に大内弘幸23代は北条方に味方した
1352年 24代大内弘世鷲頭氏を攻略して周防国を制圧
正平12年(1357) 大内弘世を長門国、守護職に補す。
正平13年(1358) 大内弘世が厚東氏を降ろし防長両国を統一した
正平15年(1360) このころ弘世は大内村から山口の居館を移し、京都の模して市街を経営した
天授5年(1379) 25代大内義弘が初めて朝鮮に使者を遣わした。これから大内氏の対鮮貿易が始まった
天中9年(1392) 大内義弘の周旋で南北朝の和議が成立した
応永6年(1399) 大内義弘が幕軍と戦い、泉州堺で戦死した
永享2年(1431) 26代大内盛見が九州深江で豊後の少弐・大友氏と戦い、戦死した
嘉吉1年(1441) 27代大内持世が嘉吉の乱で遭難し重傷を負い、京都で死す
嘉吉2年(1442) 大内義弘の菩提を弔う為に香積寺五重塔が建立される
寛正2年(1461) 28代大内教弘に招かれて、画聖雪舟山口に来る。築山館を建てる
(1465) 大内教弘、伊予興居島で病死
(1467) 大内政弘、応仁の乱で西軍に味方し、11年間京都で戦った
文明2年(1470) 吉見信頼、大内道頓を庇い陶弘護と戦う。
文明3年(1471) 大内の武将、末武氏久、吉見信頼と地福に戦い敗死す。同年道頓も敗死。
文明7年(1475) 吉見信頼、徳佐元山城を攻める、陶弘護、徳佐に来陣しこれを奪い取る。信頼、戦って利あらず、吉賀(今の鹿足郡の東部、六日市、蔵木、朝倉、柿木の5村の総称)、長野(津和野の西部)の地次第に大内勢の攻略するところとなり和を乞うて許される。

※元山城・・・宝清山徳佐八幡宮記⑨参照

文明12年(1480) 連歌師宗祇が29代大内政弘に招かれて山口に来る

文明12~13年頃(1480~81) 久守志津摩 掾 諏訪社を勧請する。三原諏訪社と思える。

文明14年(1482)5月28日 吉見信頼、大内氏に降り、5月23日山口館にて大内政弘に掲す。28日政弘は山口築山館において宴を設け諸将を饗す、席上陶弘護が吉見信頼を刺すことになる、信頼屈せず弘護を捉えて相刺し散る。

天文23年(1554) 陶隆房(弘護の子)徳佐に出陣し、津和野三本松城を攻める、同年吉見氏の支城嘉年勝山城が陥る。

※嘉年勝山合戦記・・・宝清山徳佐八幡宮記⑫参照

 文明・天文時代はいずれも大内氏の家臣である吉見氏と陶氏の取り合いで戦が多く、久守氏は大内氏に属し、陶氏は右田氏の支流であり、右田氏は大内氏の支流である。大内満盛宝清山八幡宮を丸山の地に勧請以来その以南の地は元より大内氏に属する所で大内氏防長の覇を握るにおよび大内氏の一族右田氏の所領としたのである。しかし次第に陶氏が力を付け吉見氏と争うことになったのである。

 徳佐郷はその当時市場川と沖田川を境に東は市場、亀山、三原、下半久、等は吉見氏の支配地とし丸山、小南、宇津根、水戸以西は大内氏の支配地とに別れ対立していたものと思われる。
 
 吉見・陶氏との合戦は、粗く云えば1470~1555年と約84年となるがその間和を持っており合戦の時は、短期であったと思われる。久守氏は当然大内家の陶氏のもとで加勢をしていたのである。その証が、天文24年(1555)3月3日大内義長様からと大内氏家老4名連署ものとあわせて2通が渡邊紀伊(天保15年)が(祖久守氏)が先祖といわれている永安式部少輔に宛たる感状が徳佐八幡宮に残っている。永安式部少輔の祖は渡辺氏(祖は久守氏)であり久守氏の一族でもある。

去月11日高木城固屋口(こやぐち)防戦の時、太刀にて討殊し狩倉新左衛門尉の頸一つ討取られの由、隆信注進を遂げ之披露す、神妙によし,お書きなられおわんぬ、いよいよ忠義の旨抽ぜられるべく、仰せより執達件の如し。
 天文24年3月3日
                          備中守(花押)
                          右衛門太夫(花押)
                          越後守(花押)
                          石見守(花押)
        永安式部少輔殿
 
 去月11日於いて石州三隅の内高木要害動の時、狩倉新左衛門尉の頸討ち捕り由、粉骨の次第のところ感悦せしめの状件の如し。
天文24年3月3日
            (大内義長)(花押)
           永安式部少輔殿

大内義長と同家の老中からの書状である。永安式部少輔は後に家名を渡邊に替えている。

※固屋=小屋ではなく、しっかりした立派な建物
※討殊=とうしゅ。刀で打ち殺す

参考文献 「徳佐村史」「防長風土注進案」


宝清山徳佐八幡宮記⑥

2005-02-21 20:39:46 | 郷土史
ー久守隼人の介徳佐郷への定着についてー
 
 今まで述べてきたように宝清山八幡宮は、大内満盛が勧請し当地の守護・久守隼人の介源光盛が大内満盛と2人互格で奉幣したのであるが、久守隼人の介は1180年から1185年の間源平争乱があったが、その間大内氏とともに源氏方に味方し、当郷守護に任じられたのではないかと思える。それまでは橘姓であったといわれている。というのは宝清山八幡宮草創の記に橘 貞直、橘 貞清、とか社宝にも橘姓が見られる。橘氏は和銅元年(708)元明天皇即位のとき、県犬養三千代が酒盃に浮かぶ橘にちなんでこの氏を賜ったのに始まる。県犬養氏は奈良時代から平安初期にかけての有力な一族で、この氏から出た三千代が命婦として天武天皇の時宮廷に使えて功績があったためである。三千代は敏達天皇の子難波皇子より出た美努王の妻として葛城王や牟婁女王を生み、のち藤原鎌足の子、不比等に嫁して安宿媛(光明子)すなわち光明皇后を生んだ。

 次いで光明子が聖武天皇の妃となり、光明子はさらに天平元年臣下として、初めてて皇后にあげられた。一方皇族身であってもすでに5世を過ぎた葛城王は、異父妹が皇后となるとういう栄誉を得た上、葛城王の妹が不比等の妻となったことが幸いして、天平8年は母性にちなんで、橘宿禰を賜ることを願い出て臣籍に列し、一家を創立した。そして名を諸兄と改めた。

 この頃藤原氏は、不比等の子武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟が次々に死んだ後、にわかに勢力を失った。この情勢を利用して、橘諸兄は廟堂に実権を掌握した。藤原宇合の子広嗣は、天平12年、兵を挙げたが失敗し斬首された。しかし藤原氏の巻き返しは徐々に進み,やがて藤原武智麻呂の子仲麻呂が進出し諸兄の死後橘氏は衰え長男橘奈良麻呂が挙兵(757奈良麻呂の乱)を図ったが、事前に漏れついに獄死した.久守氏(橘氏)はこのとき信濃の国司(城主)であったがその後仔細ありて(橘奈良麻呂の乱で757)当国の氏神である諏訪大明神(現在の長野県の諏訪神社)の神官に左遷された。
 
 平安初期、嘉智子が嵯峨天皇の皇后(壇林皇后)となって橘氏のために学館院を創設、一族は本姓を避け、橘朝臣以外の橘はみな椿姓に改姓、その外も立花、立橘等と2文字になり元の姓を使わなくなった。皇后の弟、氏公は右大臣となったが、平安時代初期(842)承和の変で橘逸勢(3筆の一人)が流罪となって後急速に衰えた。この事変で仔細ありて国法に違い(クーデター)、あって久守氏(橘氏)諏訪から土久佐郷に遠流されたのであるといわれている。
 
 遠流後久守氏(橘氏)は平安初期(843)から徳佐郷の定着して徐々に暫著し、当郷の諏訪大明神を勧請奉り代々その職分を謹仕していたのである。徳佐郷のほぼ中心より西にある台諏訪社は、往昔勧請年月大変古い社寺で不分明であるのであるが、文化元年再建棟札にも『台村諏訪大明神当社は由来年久しゅうして更に知る人なし』と記されている.この諏訪社も久守氏の勧請と思える。満寿3年丙寅〔1026〕三原八幡宮の勧請も久守氏と関係無きにしも非ずである。また文明12年(1480)三原諏訪社を勧請したのも久守氏といえる。

 徳佐郷に遠流された後、その地方の土豪として勢力を張り1182年には大内氏と手を結び宝清山八幡宮を勧請している。ついには1180年から1185年の間の源平争乱の時、源氏方に味方しついには当地守護を仰せつかり、久守隼人の介源光盛という源氏姓を賜っている。久守氏はこの時当郷の大小の権力を掌握しこの地方の開発の当たったものといえよう.

 土久佐郷の守護職をする族長的有勢者にちなみ、久守氏にと命名したのではないかと思われるのである。

 17代大内弘盛、元暦年中(1184~1185)平家追討の時功あり、賞として長門国を賜る。その子18代満盛寿永・元暦年中(1182~1185)兵を革し(せまる)源氏方に属し勲功を抽す(引き出す)。
 寿永2年(1183)大内氏は源平合戦の頃源氏に味方し、功があった。

引用・参考文献  渡辺斧一著 「徳佐村史」

低山は里山

2005-02-20 20:52:32 | 講演
 山口山岳会40周年記念講演会に行く、講師は医学博士で、日本山岳会員京都支部所属、山口県由宇町で開業医をしておられる中島篤巳先生の話である。
 
 山登りは最初は息を切らして登るがそれを過ぎると血圧は下がり息も楽になる。平家谷に登ると平坦なところが続きクールダウンができる。体力の限界は体が教えてくれる。歳を取ると良く転ぶこれも体が教えてくれる岩の上に登ってもも覗けなくなるのはバランスを取る能力が落ちていることで体が教えてくれる。過去を忘れることがストレスを作らない、60を過ぎて社会的役割を終えたと思ったらスーとしてストレスの原因が減った。欲がなくなればストレスもなくなる。 

 山登りはマイペースで登ることが極意である。グループで行ってもマイペースでばらばらに登って良いといわれる。それほど健康にはマイペースでの運動が重要とのことである。

 忍者は甲賀三郎伝説があるが、甲賀、伊賀は発祥のところで、望月家などはその頭級で薬を造りそれを売っていたりもした。その末裔が近江製薬として残っている。忍者の生き方は非常に合理的である。伊賀に黒田の庄といわれる所がある黒田悪党と呼ばれるがこれは権力に反抗する勢力を悪党といっているのである。東大寺領が多くそこへ収めたものを略奪したりするのでそういわれているのであろうと。それと忍者は関係しないが忍者は何でも流してしまう、強いと思えば逃げてしまう、実と虚を使い分けている相手が隙を作ったとき一気に迫るなど虚虚実実な態度である

会社は価値観を共有するからストレスが生じるのである、共有させるから落伍者やノイローゼになる人がいるのであるが、忍者は価値観を共有しない。固定観念を放下してしまう。自分の価値観で生きるのが忍者である。だますことも目的のためなら正しいと考えて生きている。酒、色、欲、の三つの戒めをもち固定観念を放下し自分の価値観のみで動くといった生き方をしている。

 親の死に目に会えないとかよく言うが、抵抗を感じる。死ぬ直前にじっと見られるって冗談じゃない、早く死んでくれとか、何とか言われてみとられるって冗談じゃない、死んだ後から来てくれればそれでいい。

 登山は自分のペースが一番いい。体力には防衛体力と行動体力がある防衛体力はばい菌から守るとか病気にかからないとかのことであるが歳をとると精神面が最初になえる。行動体力は疲労を回復すること、よく寝ること寝れば体力は戻るがこれは精神疲労を取ることでもどるのである。運動してちょと息切れするぐらいの運動をすれば運動能力はある程度維持できる。

 3週間寝ていればすぐに骨そしょう症になる寝ていればカルシュウムはとんで行きなくなってしまうと、山で出血したときはまずハンカチかタオルで押さえるのが一番、綿は引っ付くのでやめてほしい。
 
 低山は中高年者でものばれる高山は酸素も薄くなりいろいろ装備がいり金がかかる、低山は里山でそこには伝説や歴史、神社、仏閣、風土などいろいろ新しい発見があって好奇心を顕現させてくれる面白い。

宝清山徳佐八幡宮記⑤宮中覚書2

2005-02-19 09:53:18 | 郷土史
宮中覚書(仁治元年1240年に書かれたもの)パート2

社規式事
1般若講行年中御灯明油これ神宮寺出す、散銭これ神宮寺領す。
1陪従3楽4つ神楽当社秘伝なり
1環城楽
1千秋楽
1万歳楽
環城楽は天児屋根大玉初日・神出で御ありての神楽、それ故天子帰洛、国司・本領安堵の神楽なり、これは東北階座役なり。
1千秋楽は輿玉起こる也、万物周備の神の神楽也、西北階座の役、秋・新穂の神事8月祭礼にこれ奏す、万民撫育の神楽也
          ※周備=めぐみそなわる
1万歳楽は海老翁にはじまる、正月元日・寿の神楽也、天子・国司その外衆人・寿祭り也、社中神人は老仁これつとむ、これなくは翁面用の唱は万歳與☐字付き、この神は小児始めて社参の時粢嘉供えこれ奉る、白鬚明神松堂これなり
          ※粢=神に供える穀物

1陪従の神は天鈿女にはじまる、日神因玆(しずかに)岩戸を少し開ける、5節・月次の神事・内侍所女官の役なり、前髪の役也、これ無くは神仁・社中これたてまつる。

※5節=新嘗(にいなめ)会や大嘗会で行われる5人の舞姫による舞楽を中心とする行事 ※陪従=付き従う ※内侍所(ないしどころ)宮中の温明殿のこと、巫女達がそこで奉仕していたところ

1位階座は西東新宮寺の3人限り也、北階は門田・久守・中野なり、
1中宮より西は西惣鼓頭・門田・久守、東は別当・東鼓頭・中野也、その下は老いたるを持って若きを下にす、門田は神幸の指し引き・久守・中野は左右補佐して社中乱法これ無きように位階より請して示すの役なり。
1神輿3丁の中殿は東西の人これ執行す、左右は神宮寺これ執行す
1中殿4社は薬師、大日、観音、弥陀。左右4社は普賢、勢至、地蔵、毘沙門。これは神宮寺執行の心也、誠に宮中秘極のところ別当相伝の処件の如し(くだんのごとし)、これは放生寺役也

右秘極代々口上相伝そうらえども、後年愚慮の節は本意失う候ゆえ紙上に顕すもの也、後鑑のため、以上

                           ※後鑑=後の手本のため

仁治元年庚子8月吉日
          西惣鼓頭 久守 太門太夫   判
          東鼓頭  久守 左衛門太夫  判 
                 太門太夫  橘 貞直
                 左衛門太夫 橘 貞清

※千秋楽=雅楽の曲名、唐楽。盤しき調の小曲で、舞がないもの、奏しては人民の繁栄を祈るもの
※万歳楽=舞楽、舞って君主の長寿延命を祈るもの。

山間地にも宮中の雅楽が奏じられていたという事はこの地方の文化度が高かったといえる。

参考文献 「防長風土注進案」

新破産法のポイント3

2005-02-16 21:07:47 | 経営/法律
担保権消滅許可の申立
破産管財人は、原則として担保権者と協議しながら任意売却を進めていくのであるが、あまりにも市場価格より低い価格であったり、破産財団への組み入れの額が多く担保権者への配当がが少ないと断じられる場合は債権者は担保権実行や買受の申し出のより対応する。しかし破産管財人が相当の市場価格で売却し、破産財団への組み入れも相当であるにもかかわらず。担保権者が応諾しないときは担保権消滅の裁判所の許可を得て、当該担保権を抹消できる制度が創設された。
 買い受け申しの場合は任意売却価格よりも5パーセント上乗せした金額で買受申し出の手続きをしなければならない。
 1ヶ月の期間内に買い受け希望者は、買受価格の20パーセントの保証金を払う。いずれにしても1ヶ月の期間内に対応が必要であり破産管財人と初期の段階から交渉を行いより有利なケースを検討することが重要である。また売得金額より5パーセント以上の価格で売れる案件を自ら探すか的確な判断が必要とされる。


宝清山徳佐八幡宮記④宮中覚書

2005-02-16 20:14:39 | 郷土史
宮中覚書(1240年に記したもの)
1当社八幡宮勧請以来余社と格別也、東門西門中殿は2社大神宮譽田神也、宮中の秘極互に両家嫡子相伝に限るなり、以上4社なり、西は輿玉盬土翁、東は大玉天鈿目以上8社也、玉殿八座の御玉串2尺5寸にして玉中也。
1御畳錦ヘリ8畳
1御褥蜀紅錦4張
1御睡襖飛紋の金緞4覆これ中宮の分、残り4社御畳金襴へり4御服ご装束金襴4褥1御綺帳生絹
1戸帳錦8尺8流
1御廉3間へり甲乙錦釣鈎6鏁紅大總也
1両人宮中出入り8月神事前夜子の刻大歳、夜子の刻御灯8所但し松明也、両人行事畢神宮寺陳にて奉幣、惣て封社ありという、その外出入り停止也、

1御膳8膳「上段・サエカ・アユカ・コンフ 下段・花餅・ニシホ・饗」8社紐あり、その外75これ備える。 右両夜内陳、その外は下段にこれ備える。

御神宝の事
1御玉串葉順年1紀にかわる。※一紀=12支、12年ごと
1奉幣2策調作8本充てる、以上16
1門幌1具 但し錦地
1太鼓は悪魔不浄を祓い清浄の神宝也、表は水徳神、裏は火徳神、天神23尊神表爾也、陰陽両儀動を以ってその徳用を現す。牛の皮を用るは黒色にして北方水也、皮を用いるは河の儀也、それ故皮というは牛に限るなり、外虎皮羊皮云うビヤウ64・72・108に限るなり、打ち始めは753、響きは波なり、波立ては火を生す、火あれば風あり、風あるは聲音備わる、すなわち久遠実虚成る無の神体端的来現す、自然妙用神最上具なり
1鼻長は猿田神、獅子は大蛇化現、便悪心は帰し善心は表爾なり、口伝嫡子相伝なり、竜頭を用いは正直の根元、鉾は神知劒也。

※畳=床の上に敷く敷物ヘリの付いた8畳のもの、平安時代では、ゴザにふちをつけた敷物、薄縁、平安時代の部屋は板の間なので、要所にこれを敷いた。
※褥=いもむし、まつりのうつわ、とうまる。※蜀=ふとん、しきもの ※紐=つなぐ、つなぎ
※内陳=神体を安置してある所、神社の本殿 ※策=札 ※調作=ととのえつくる
※幌=たれぎぬ、鎧の背に負う矢を防ぐもの、
※儀動=作法で動かし ※聲音=鳴り物の音曲 ※端的=はっきり ※妙用=自然と不思議な働きをして神が具現化してくる。※釣鈎=かぎばり状の吊るすもの※御廉=堂の側をいう

(防長風土注進案より一部引用)

宝清山徳佐八幡宮記③草創記

2005-02-14 20:44:25 | 郷土史
当社八幡宮当地草創の事(1244年に記したもの)
1 琳聖太子10代の孫大内満盛公、御許山より白八幡宮・赤八幡宮両社当境の新地号宝清山1社へ寿永元年(1182)壬寅歳8月17日勧請、同20日神事の正日これをさだむ。

1 宮中執行
西分本地堂ともに   久守 太門太夫(ひさもり たもんたゆう)
東分           久守 左京太夫(ひさもり さきょうたゆう)

右大内満盛卿はじめて号「大内の介」を与え、当地守護久守隼人の佐(ひさもり はやとのすけ)に彼仁23の息社頭執権を仰せ付けられ、門両宮一宇に創建し2人互格の奉幣、神幸行事これたてまつる。
同社役 獅子田楽     久守 太門太夫
同社役 流鏑馬相撲    久守 左京太夫
並びに社頭番のこと
  1番  久守 三郎太夫
  2番  門田 神ノ太夫
  3番  中野 右兵衛丞
右番子、同前に1日1夜相詰め充てるもの也。

1神事奉行、宝清山神宮寺別当、了円これ勤む。
1御供田 3反大10歩  代1貫500文
1獅子免田 3反小    代1貫200文
1田楽免田 1反小    代400文
1武射田相撲免 1反16歩 代700文
1経免田  1反大    代500文
    正月7日・8月21日般若修行
1土器免  1反小    代200文
1油免田  1反小    代300文
    毎月祭日に御灯明これ上げ、右の3ヶ所は神宮寺の別当これ領す。
                太門太夫
1神輿3丁宝銭             これ分す
                左京太夫
 右後年亀鑑のためこれをしるした。的々相承のみぎり世継ぎ申すべく候、父子2代的伝えるものなり。
 ※亀鑑=てほん、模範の意  的々=明らかなさま  相承=互に受け継ぐ
寛元2年(1244)8月吉日
 
 的々相承の系図(父子2代的)
西分 先太門太夫嫡子               東分 先左京太夫 二男
  久守太門太夫  判                久守小目太夫  判
    │                         │
  太門嫡子                     小目嫡子
  久守右兵衛太夫                   神九郎 
    │                         │ 
  右兵衛嫡                     神九郎3番目の娘に申し合い
   左右衛門太夫  判                左京太夫  判
    │                         │
  左衛門が次男                   左京嫡男
   冶部太夫                     神六太夫
    │                         │
  冶部が嫡                     冶部が次男神六娘に申合わす 
   左兵衛介  判                  左京大輔  判 
    │                         │
  左兵衛次男                    左京次男 
   左右衛門太夫                   小目太夫
    │                         │
  左右衛門嫡子改久守賜諏訪             小目弟
   兵衛太夫                     大右衛門太夫
    │                         │
  兵衛太夫惣領                   大右衛門が子
   左馬太夫  判                  掃部少輔  判
    │                         │
  左馬が子                     掃部が惣領
   縫殿助                      宮内少
    │                         │
  縫殿が子改諏訪賜渡辺名           宮内二男
   太門太夫                     小目太夫
    │                         │
  貞助                        馬場神太夫
   右門太夫                      │
    │                       酒手神之丞  
  同                           │ 
   左兵衛                      岡崎
    │                         帯 刀
  俵田
   右衛門太夫
    │
  村上
   神祇太夫

(防長風土注進案一部引用)

宝清山徳佐八幡宮記②

2005-02-13 17:31:29 | 郷土史
 鎌倉時代の寛元2年(1244)につくられた「徳佐八幡宮草創の事」(古文書)には次のように書かれている。すなわち百済国聖明王、第3子琳聖大子の第10代の孫に当たるといわれる大内満盛公が、平安時代の末期の寿永元年(1182)に、豊前の国宇佐八幡宮から分霊を勧請し、徳佐郷丸山に当地守護・久守隼人の佐源光盛と2人互格で奉祀した。
 当時の当郷の守護・久守隼人の佐源光盛家はその後代々神明に奉仕して今日に至っている。
 社伝によると、室町時代から江戸時代にかけて、社殿が火災により焼失したことがある。また社地は丸山から小南・古宮山へ遷座したが、延宝7年(1679)にまたもや古宮山の社殿が全焼したので、天明8年(1788)に現在地である荒神山に遷座した。
 現社殿は、藩主毛利綱広公の造営になるもので、延宝9年(1681)には新神輿3体を萩で造らせて奉納され、現在においても同神輿を使用している。
 当社は鎌倉時代より大内氏に仕え、続いて毛利氏の加護を受け、戦国時代には、大内家から感状を久守氏一族のものが賜り、大内氏没後は毛利家から久守氏が感状を賜り毛利元就からは戦功により久守氏(後に[1590年ごろ]故あって久守氏一族の渡邊氏が任ぜられる)が大宮司職に任ぜられ馬具を贈られている。
 明治6年(1873)村社に列し、明治14年(1881)には郷社に昇格、大正9年(1920)にはさらに県社に昇格する。

社宝
 笈(おい)(宇佐本宮より分霊を奉納せる時のもの、寿永元年作という)【道具を入れて背負うもの】、宮中覚書(仁治元年1240久守氏)、社領充行状(3通、久守氏と渡邊氏)、毛利輝元書状(渡邊大宮司宛)、徳佐八幡宮草創の事(寛元2年1244久守氏)、日本刀(予州松山住長清作)、毛利家感状(久守右衛門太夫宛)
(山口県神社誌より一部引用)