霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

鎮懐石碑

2011-05-31 15:09:27 | 歴史/古文書


行くと宮司さんが神主姿で待っておられました。宮司さんの説明では文化11年に建てられたとのことです。
 神社の由来は
 八幡宮のご神体として御祭りしている鎮懐石は無くなっていたが、ある日六郎という人が光り輝く石を見つけ、それを床の間に飾っていたところ鳩が飛び込んできたとのこと村人と話し合い、それは鎮懐石に違いないとそれを祭って行ったのが始まりとのことでした。また隣にはとも綱石これは異国より帰国されたとき、この浜辺日おつきになり船をつながれた石といわれています。また階段上り口には神功皇后お腰掛け石というのも作られていまして必ず物忘れが出来るといわれる石です。浮世の憂さを忘れるには良い石ですね

鎮懐石万葉歌碑

2011-05-30 14:36:06 | 歴史/古文書

ここの石碑は鎮懐石八幡宮の階段の前にあります。安政6年に建てられた九州地区の最古の万葉歌碑でもあります。この石碑には鎮懐石のいわれやその石の大きさなどが刻まれています。726年筑前の国守に任命された山上億良がこの地に来たとき地元に人から鎮懐石の事を聞きその形や大きさを記したといわれまた長歌を唄いそれが万葉集に載せられていると刻まれてある。その万葉集の歌もここに刻まれている。

「あめつちの ともにひさしく いい継げと この奇し御霊 敷かしけらしも

鎮懐石八幡宮

2011-05-29 14:02:42 | 歴史/古文書
五月28日早朝から入梅の中、福岡県の西部に出かけていきましたもうそこは唐津市の隣まで来ていました。雨がしとしと降ったり時には強まったり時にはやんだりと気候は移り気でなかなか目的地には進みませんでした。かれこれ半時間は遅れてしまったと思います.急ぎの旅ではないので気にもしませんが、着いたところは糸島市二丈の深江海水浴場でした。いやー、ここに社はあると思えず山際にそれはありました。古代200年ごろ神功皇后が新羅征伐のためこの海岸から出航したと伝えられているところです。

前原一誠の乱

2011-05-28 10:16:03 | Weblog

明治維新のあと、戊辰戦争に出兵したが、平時に戻り、失業した兵士たちが反乱をお越し山口藩庁を攻めたが正規軍に押し戻された反乱軍が阿東の三谷まで逃れて来たが正規軍も追って来て撃ち合いとなりました。この写真は長向寺に残っている銃の弾痕跡です。珍しい歴史の史料です。大事にしたいものです。

渡辺飛騨守長(はじめ)墓所

2011-05-25 11:55:03 | 歴史/古文書
墓所の説明板の書き物によれば、朝霞城主渡辺飛騨守は弘治・天正・慶長(1555~1610)年間主君毛利元就~輝元に仕え、各地に転戦して武功を上げこの山代地区の抑えとして朝霞城の城主となった知行高は5000石であった。慶長17年2月24日天寿を全うしこの地の葬られた。長栄寺に位牌は保存されている。この後背の山には主郭の跡や掘りきりの跡が残っている。中央にあるのが渡辺飛騨守長(はじめまたはながし)佐衛門大夫の墓

右には正室の墓

左には嫡子元の墓である。

これにて石見西南部と玖珂北部の探訪は終わります。

朝霞城祉(あさがすみ)

2011-05-24 11:35:59 | 歴史/古文書
 前方の山が朝霞城址である。そこに弘治~慶長年間(1555~1612)にわたり毛利元就・輝元に仕え、厳島の合戦や、須々万の沼城攻防合戦などをはじめ、各地を転戦し武功を立てた渡辺飛騨守長の城であった。飛騨の守は山代の抑えとして広瀬、河山で5000石を領し慶長17年(1612)に75歳でなくなった。菩提寺は飛騨守が開基した長栄寺である。この城は飛騨の守が亡くなると同じく廃城となっている。