霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

ブルーベリー

2009-10-31 18:56:45 | 園芸
 ブルーベリーが1本枯れてきていたので掘ってみるとほとんど根が伸びていなく。他の木の根がそこに勢力を張っていました。その勢力を張っている根を切ってよく穴を掘り土を入れ替えて植えてみました。果たして枯れかかったブルーベリーは息を吹き返すのでしょうか。来春に新芽が出れば生きているのですが新芽が出なければ引き抜いて新しい苗を買って更新するしかないでしょう。

 また新しいブルーベリーの苗を2本買って近くに穴を掘って植えておきました。穴は深さ30センチから40センチですが土が硬くてまた石ばかり出てくるので大変な重労働でした。何とか掘りましたが汗びっしょりです。土も腐葉土やパーク土、油粕など混ぜたものに変えて植え付けをしたのです。しっかり根づいてほしいですね

今川了俊の墓

2009-10-31 10:12:57 | 歴史/古文書
 なぜか知らないが、今川氏発跡地に今川了俊の墓があるのです。今川貞世入道了俊は今川氏の祖国氏の孫範国の二男で祖の国氏のひ孫にあたる人です。

 南北朝時代遠江(とおとうみ)国等の守護職や九州探題をつとめた。武将としては征西府討伐など遠征しているが武功は今ひとつであった。ほかに冷泉家風伝える歌人として名を成し、また文人としても知られた。

 後に入道して了俊、徳翁とも称し90歳とか96歳とか(1420年ごろ)で天寿をまっとうしている。墓は静岡県袋井市の海蔵寺にあるのであるが、なぜここにもあるかといえば、墓碑にわけが書かれていました。永享2年(1430)4月20日 先代の名をなした人をこの地に石碑としてしるすと、三河幡豆郡吉良荘今川村の西尾藩家臣の一人が建立したものでした。今から579年前のものです。

今川氏発跡地

2009-10-30 09:17:38 | 歴史/古文書
 駿河の今川義元といえば守護大名として名をはせていますがこの人の出身は元はこの西尾市が始まりともいえます。

 承久の乱(承久3年1221)で功績のあった足利義氏はこの三河の守護に任じられ支配することになったのです。承久の乱で朝廷方であったのは西国の武士が多いのですが。その所領を鎌倉幕府に没収され幕府の御家人に分け与えられたのですが、その一つでしょう。

 ここは今川荘の中心地といえるところです。足利義氏は長男 長氏に吉良庄を譲り西条城を築かせて守らせました。三男には東条地区を継がせ、二男は生母の出自が良いので足利宗家を継がせている。

 足利義氏の長男 長氏の子である嫡子満氏は西条城を継ぎ、二男国氏は義氏が少年時代の長氏に装束料として贈ったこの地今川荘を分け与えたのです。
 その足利国氏が荘名の今川を名字とし今川氏の祖となった。今川の地名は荘名の名残りでもあります。

脳の働き

2009-10-30 08:53:50 | 健康
 昨日テレビで脳の記憶力なるものについて放映されていた。運動・ジョギングとかウオーキングをすれば記憶をつかさどる前頭葉が活発になるとのこと。
 またイメージをして覚えると記憶をした事柄が思い出しやすいといっていました。

 人間の脳は年齢とともに細胞は滅びていくのが自然なのであるが、知恵、知識、経験は年齢とともに伸びていくといわれている。しかし前頭葉は年とともに衰えるので常に刺激を与えていく必要がある。

 その手段として、
・からだを動かすこと、ジョギングやウオーキングが良いとのことである。
・手作業をするそれも心を込めてすること、だらだらとマンネリでしても効果はないとのこと。
・コミニケーションをする。相手の目を見て、状況を感じながら複数の人と話をして聞き分けていくこと、社会参加することが大事です。
 これらの3点をやっていくことが脳の老化につながらないとのことです。
 
 いわゆる健康づくりは脳トレにつながるということです。こうすれば認知症などにもなりにくくなるかもしれませんですね。私もウオーキングや農作業など継続したり社会参加を積極的に取り組んでまいりたいと思いました。

今川氏発祥の地へ向かう

2009-10-29 08:45:12 | 歴史/古文書
 前回の散策は半日でしたので今回は改めて自分の行きたいコースを設定し朝から名鉄西尾線に乗って西尾市に行きました。西尾駅では貸し自転車を1000円渡して借りるのです。自転車を返せば戻ってきます。いわゆる保証金です。

 先ずは今川氏発祥の地を目指して南東の方向に向かってこいで行くのですが一向にその看板が見つからないのです。そろそろかなというところでおばあさんに聞くも無視して通り過ぎ去れました。まあーもう少し行ってみるかと町外れまで来たところ何か看板しきものがあり行ってみるとそこから路地に入っていくようにとかいてありました。

 西尾中学校の南端にそれはありました。中学生たちがランニングや運動をやっている活気あるところにひっそりとそれは建っていました。訪れる人もなく。

赤目樫元弘法

2009-10-28 10:02:50 | 歴史/古文書
 重原古城跡を後にして南へ自転車をこいでいくと赤目元弘法という史跡があるのですがなかなか目的地が地図ではあるのですが実際に見つけることができないのです。

 実際には地図より離れたところにあるように遠く感じました。

 ここは知立市上重原町家下というところで集落のある家々よりかなり下にあります。田園の中にポツリとあります小さな祠です。

 元弘法というだけあって弘法大師が祀られていたところです。時は弘仁10年(819)弘法大師が東国巡錫の際、ここで赤目樫の木を使って不動明王とほかに3体の自像を刻みこの寺に寄進し本尊となったのです。

 弘仁10年、ここに三河三弘法の一番札所の遍照院が創建されたのですが天正年間(1573~1591)に兵火にあって全て失い、延宝元年(1673)今ある遍照院へ移っているのです。

 これでようやく知立市の散策を終えて岐路につくことにしました。また自転車で4から5キロ走破するのです。心地よい疲れを感じながらのマイペースでの散策は楽しいものです。
 

重原古城跡

2009-10-27 09:22:09 | 歴史/古文書
 ここが目的で重原地区まで自転車でこいできたのです。勇んで目的地に行くのですが目的地と思うところは何もなく、ただの重原公民館でした。

 そういった記念碑や史跡も見当たらずもっと他のところかと周辺を歩いてみましたがそれらしく思われる石碑はないのです。しかし観光パンフレットには石碑の写真が載っているのです。

 公民館に訪ねると公民館は休館でした。困ったなーと思案をします。公民館のとなりに小さな事務所がありましたそこに尋ねると親切な中年の方が、それならここにありますと案内してくださったのですがそれは公民館のうしろに小川との境の間に隠れて石碑が立っているのです。これでは分からないです。中年のおじさんの説明では北側にある竹ヤブもやはり古城の跡の一部とのことでした。歴史的なことは分からないとそれ以上は説明されなかったのですが場所が分かったので嬉しかったです。

 この地域は長元時代(1028~1036)は鴨原荘司源貞行の邸宅があったといわれている。天文17年(1548)織田信秀の武将荒川新八郎頼季が城を築き居住した。同年松平広忠の武将松平康親、阿部忠正がこの城を攻め頼季は支えきれず城を捨てて西へ逃げた。その後西岡伝五郎河内守が居城したが、天文23年(1554)3月今川勢の攻撃に遭遇し落城した。と石碑には書かれていました。

 またこの地はこれより西は福島領という石標もあって江戸時代は福島藩の飛び地でもあったのです。なかなか複雑なところです。

万福寺本堂

2009-10-26 09:12:10 | 歴史/古文書
 この本堂も新しく、特に歴史的建造物にも指定されていません。浄土宗本願寺大谷派の寺院として重原地区ではおもきを示しているお寺のようです。地区の中心地にあって建物や庫裡、方丈も新しく立派です。

 この万福寺は弘仁6年(815)伝教大師が創建されたといわれ始め天台宗であった。貞永元年(1232)了誓法師が今の真宗に改めています。

万福寺のイブキ

2009-10-25 14:49:57 | 歴史/古文書
 万福寺のイブキは、説明板によれば樹齢は500年以上であり、樹勢は今でも元気であるとのこと、特に幹はねじれて上のに伸びていて面白い、柱や彫刻材に主に用いられるが福島県以南の海岸線におもに自生するのであるがこんな大木は余り見たことがありません。

 高さは約15メートル、目通り2.6メートル、根回り2.8メートルと西三河地域最大のものといわれています。

万福寺ソテツ

2009-10-24 08:36:40 | 歴史/古文書
 同じ万福寺の境内にしかも狭いところなのですぐ近くにこのソテツが生えています。これもかなり経年しています。案内板によれば「大ソテツ」と書いてあるます。このソテツは文久2年(1862)に移植されこの地に育っているのですが約500年経っているとのことです。ということはこの地で147年育ちほかの地で約350年育ってきたというのです。この地方では自生はしませんので有力者がこの地方に観賞用として植えたのでしょう。

 ちなみに自生地は九州南部から沖縄地方の暖かいところです。