霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

クラインガルテン記23

2007-11-30 19:47:40 | 園芸
 今日は特に何をしていいか分からなかったのであるが、落花生を少し収穫してゆでて食べました。なかなか茹で落花生はおいしく塩茹でしてみるともっとおいしく食べれました。

 これはゆでた落下生の写真です。

他職場

2007-11-29 19:11:22 | 交流/講演
 11月の28日には同じビルの社外の人と交流をしたのであるが他社の仕事の内容紹介などするのですがどうしてもよその職場のほうがいいのではと思うような気がする。「よその芝生は良く見える」というがその通りであればいいと危惧するところもないではない。

 「となりの芝生は青い」ということわざがありますがこれは2000年も前からイギリスで使われてそれがことわざになったらしいです。

馬関戦争の砲弾

2007-11-27 13:17:37 | 歴史/古文書
 この写真は馬関戦争のとき長州側が使用した砲弾の一部という。すでに近代的な形のどんぐり型の砲弾があったのですね。

文久3年(1863)5月、長州藩は全国に先駆け攘夷を目的に関門海峡を通る外国商船を攻撃した。その報復攻撃を翌年元冶元年(1864)8月に英、仏、蘭、米の4カ国が終結し馬関戦争いわゆる下関戦争の火蓋がきられた下関の海岸は攻撃されたが戦力格差ははなはだしく、前田砲台には上陸され占領されたのである。

 彼らは戦利品として砲台を持ち帰り今でもパリ、ロンドン、オランダに長州砲台やその一部が保存されている。
 長州側の戦闘員は騎兵隊、ヨウチョウ隊が中心で戦ったが死傷者は47人うち戦死者18人。連合艦隊側は死傷者62人うち死者12人であった。

 8月14日には和睦をしたが高杉晋作の外交交渉はうまく賠償金300ドルは幕府に払わせ、租借地の要求は拒否したのであった。

 これを期に攘夷より開国に方針が転換し、長州の人気も上がっていき大転換(明治維新)の契機となった出来事として位置づけられこの戦いは重く評価されよう。

日本最初の飛行機事故殉職者

2007-11-26 09:57:54 | 郷土史
 これはあまり名誉なことではないが、この人は私の親戚に当たるのである。

 名は徳田金一陸軍中尉である。明治18年3月25日父は徳田庄治郎、母松枝との間に山口県吉敷郡宮野村で生まれた。

 明治38年4月地元山口中学を卒業し同年7月陸軍士官候補生となる。明治40年5月陸軍士官学校卒業。同12月に陸軍歩兵中尉に任ぜられる。明治43年陸軍中尉に任ぜられる。

 明治45年5月台湾歩兵第二連隊付きとなるが発令まで飛行練習を命ぜられ精励する。

 大正2年3月28日埼玉の所沢飛行場を飛び立ち発寿山にむけ行道中、埼玉県與木村で突風に爆し墜落殉職となった。時に29歳、妻と2人の女子を残して殉死されたのである。

 これが日本最初の飛行機事故による死者であった。あまり栄誉なことではないと個人的には思うのであるが、その時代は別の見方があったのであろう。

 仔細は分からないのであるが、29歳の若さで、今上天皇両陛下から祭祀料150円および菓子料を賜り、各宮殿下からは300円(うち官民の拠出含む)を賜った。

 政府からは弔慰金を2万円余支給されたのである。非常に栄誉なことと称され、正七位・勲六等の勲章をいただいている。

 このお墓は義父の隣にあり義父の叔父に当たる、私たちの大叔父になります。今は私たちがこのお墓を守っているところである。


 その墓碑には追悼詩が刻まれている。

 釈宗演禅師 追悼詩曰

 献身慎学忘存亡  蹈険冒危意気剛
 馬草包屍来為快  空中擲命破天荒


 戒名 徹心院金剛一貫居士。

奇兵隊士の鍔

2007-11-25 11:08:17 | 歴史/古文書
 幕末や維新の時に長州藩の奇兵隊士や諸隊の兵士が使用した刀のつばである。戊辰戦争や函館戦争、西南の役などに使われたものであろう。

鍔に2本の穴が開いているのは紐で手首を結び刀が離れないようにして戦ったとの説明が書かれている。今から150年ぐらい前の出来事である。

このつばは防長尚武館に展示してあります。

ツブラジイ

2007-11-24 18:21:40 | 随想
 今日は農園の近くの両親の墓地に行き落ち葉の清掃をかねて枯葉をとる。そこにはツブラジイがたくさん落ちており約300ミリリットルぐらい拾いました。

 この椎の実を炒って食べると皮を剥くのに手間取って食べすぎはしないというメリットのある穀物といえましょう。

おぎゃーおぎゃー

2007-11-23 10:42:57 | 随想
 今日も孫が「おぎゃー、おぎゃー、あーうわー、やー、あはー、うはー、ぎゃー、おぎゃあやー」とか言って何かを訴えています。これも1つの運動かと思いそっと泣かせておくとその後が機嫌がいいのです。

 生まれ出て20日目となりましたが、日に日に目元や口元がしっかりしてきます。足の力も強くなってきているようで足に手を置くとその力で後ずさりをしています。

 みんなこんな小さな命から大人になるまでよく人間は長きに渡って子育てをするのですが、子育ては大変なエネルギーと愛情を注ぐことになるのですね。また未来への重要な投資でもあるわけです。子育ての大事さを身にしみているこのごろでもあり。親への感謝の気持ちも彷彿させてくれます。

筝曲発祥の地

2007-11-20 19:29:05 | 歴史/古文書
今朝の散策は八坂神社まで行きました。足首が調子よくないので自転車で行きました。そこでこの石碑を確認して写真を撮ったわけである。もう1つ市川経好の子の墓も探したが見つからず。退散となった。

 この石碑の筝曲とは琴の合奏のことである。大内義隆の時代、京都から公卿殿上人を招いて詩歌管弦の遊びをたびたび催したのである。義隆が晴持を尼子の合戦で溺死させてから軍事政事に興味をしめさずこういった遊芸とか文化におぼれていったのである。

 このころ都から山口に来ていた若い公家たちが7人で築山館の中でつれづれなるままに歌を1首づつ作り、琴の合唱をして組歌として歌ったのである。

 一番初めにできたのが、菜蕗(ふき)組みという歌である。これが組歌の発祥であるという説がある。近年ここにその業界の人々が立派な記念碑を建立したものである。


クラインガルテン記22

2007-11-17 19:56:07 | 園芸
 久しぶりのクラインカルテンであった。昼過ぎまで畑を耕したが大きな石がいくつも出てくる始末でなかなか思い通りの畑にはなってくれない。

 しまいには石と鍬がぶっつかリ鍬の4枚刃のうち一枚が折れてしまった。仕方なく三枚の鍬の刃で耕し3うね耕したところで終わった。

 昼食後は大内のライスセンターにスクモ取に行く。他にもたくさんスクモとりに来ておられ明日までということで人が多かったです。

 畑に戻ったところ隣家の人が引越しの挨拶にこられましたまだ若く幼稚園児の女の子と2歳ぐらいの男の子をつれてあいさつにこられました、なかなか地味な奥さんで堅実な人のように見られた。可愛いお子さんに柿10個とカブ、間引きニンジンを差し上げたのですが子どもたちも喜んでくれました。


 アーーそれはそうと高知大学付属幼稚園の実生の銀杏の木がこのように黄葉してきましたなつかしい公孫樹の木といえます。高知の皆さん御元気ですかと叫びたいです。