文永の役後(1274)7年が経過した弘安4年(1281)モンゴルは再び6月に東路軍の高麗軍1万、蒙漢軍3万が博多湾に現れ7月初旬には江南軍14万、艦船4400隻が伊万里湾に集結し、鷹島を占領した。そのとき上陸した蒙古軍との戦いでこの防塁は役に立ったのです。しかし折りよく暴風雨が到来しモンゴル軍の艦船はその暴風雨で大破し、粗製濫造の艦船であったものと思われます。残ったのは200隻だったそうである。来襲したモンゴル軍は5分の1が逃げ帰ったといわれています。残りは海の藻屑となったのでしょうか?この写真は発掘された防塁の一番東側です。東端から西を写したものです防塁の石組みや高さがわかると思います。このモンゴル襲来は戦で戦った御家人に対する恩賞地がなく、御家人の不満は高まり、北条得宗家は次第に衰退していくことになったのです。
長門にも北浦海岸には文永12年(1275)蒙古の使者杜世忠ら5人が捕縛され鎌倉の滝の口で処刑された。その従者40人をこの北浦(豊浦室津)で処刑した四十人塚という埋葬の塚が残っている。外にも長門にはモンゴル兵を埋葬した蒙古塚が残っている。
長門にも北浦海岸には文永12年(1275)蒙古の使者杜世忠ら5人が捕縛され鎌倉の滝の口で処刑された。その従者40人をこの北浦(豊浦室津)で処刑した四十人塚という埋葬の塚が残っている。外にも長門にはモンゴル兵を埋葬した蒙古塚が残っている。
短歌季刊誌「賀茂」について、hayatonosuke氏、或いはmurasakinonoominaさんから、教えていただけることを願っていたのですが。だいぶ前の場所に投稿したせいか、ご回答頂けそうにないので。お手数ですが、6月8日付の投稿全体を削除してくださいますよう、お願いいたします。