霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

霜月の虹

2008-11-29 08:37:55 | 健康
 昨日は朝の散歩の時間中に急に雨が降り出し始めました。なんと後方に大きな虹が美しく発生していましたので写真に撮りました。

 こんな寒い季節ですが綺麗でした。雨がなかなか降り止まないので久しぶりにランニングを試みてみましたが特に足首は痛くなりませんでしたので、途中までランニングをして行きました。

 少しずつランニングをしたりして足首の回復を図って行きたいなと思います。

泉取所

2008-11-28 18:53:08 | 随想
 我が家の近くに温泉が湧出していて政府登録国際観光旅館があるのです。そこの温泉は湯田温泉の温泉水と比べると硫黄のにおいが強く、女性のお肌にいいそうなんです。肌が白くなるともいわれているのです。

 今ここの温泉を汲み取って持ち帰りができるようになりました。4リットルが200円でお持ち帰りができます。飲用には向かないのですが酒杯一杯ぐらいはいいのでしょう。温泉温度は70度ぐらいと高くやけどしますので注意が必要です。

 しかし自宅に持ち帰ってもまだ温度は高く、肌の乾燥しやすいこの季節、朝・晩の洗顔に使っても熱く、入浴後の上がり湯に使っても熱いのです。

 11月いっぱいはお試し期間ですので無料です。皆さん今がお勧めです是非一度温泉を持ち帰っておうちで確かめてください。きっと温泉気分が湧いてきますよ!!!。

 泉質は還元力(酸化を防ぐ力)の非常に高いアルカリ性単純硫黄泉で地下500mの浅いところから湧出しています。ここの旅館では「仁寿の湯」と尊称されています。

毛利重就の像

2008-11-27 20:22:00 | 歴史/古文書
 防府天満宮の後ろの山にこの銅像はあります。重就と書いて(しげたか)と読みます。第7代長州藩主についたのは宝暦2年(1752)です。天明2年(1782)隠居となり隠居後は防府市三田尻にお茶屋に住み寛政元年(1789)に三田尻で没しています。藩主を退いて7年後になくなっています。

 この藩主は撫育局を設け防長三白あるいは4白(シロベエ〔紙蝋米塩〕)ともいわれ産業振興に力を注いだ人物です。

 特に三田尻には勝間開作、鶴浜、大浜、西浦浜の良田や塩田を開発し塩や米の増産を図った人です。隠居後も三田尻に来て発展のためにつくしたのです。

 撫育局で藩財政を少しづつ蓄えることができるようになり幕末維新のときにはこの財政資金が役に立ったのです。

 そういう意味では明治維新の礎はここにもあったと言いかねません。

観光案内板参照

切腹の間

2008-11-26 19:51:30 | 歴史/古文書
 この月の桂の庭のある桂家は右田毛利家の家老職の家のため、いつ切腹命令が来てもいいように切腹の間が作られていた。たたみは卍印にひかれて真ん中の畳だけ残して他の畳はのけて白砂を敷いて浄土の方向いわゆる西に向かって腹を切るというのである。

 忌み嫌われる間で使ってある材木も直角に交錯するように造ってあるとのこと。その忌みを日常取り除きたいので一升枡を鉄で斜めに切った枡を置いているとのことでした。

 またそこには幕末四境戦争に参戦した第10代の当主の写真も飾ってありました。益田口への参戦をされたのですが戦の心労があったのか35歳の若さでなくなられたとか、しかし細君は85歳まで長生きをしたとのお話でした。

 追伸この間は一度も切腹の間として使われなかったとのことでした。

手作りコンニャク

2008-11-25 09:36:19 | 趣味
 もうかれこれ1ヶ月以上ソフトボールぐらいのコンニャクイモが食卓テーブルに置かれていました。コンニャクを作るといって長門峡の道の駅で買ってきたのはよかったのですが果たしていつコンニャクになるのやらと思っていました。

 2日前に見るとコンニャクは形を変えてすり身となっていました。昨日はそれをガルテンに行き焚き火をたいて大きな釜の中で石灰を混ぜたコンニャクを固形にするため茹で揚げました60分は湯で揚げが必要です。30分の茹で揚げではまだ石灰が残っていて口の中にこんにゃくを入れると石灰で口が荒れてきます。

 実は昨日昼食で食べたのは30分しかゆでていなかったのです。おいしいおいしいといって食べているうちに口内が荒れてきてしびれるのです。困りました。

 十分茹で揚げてから食することが重要です。皆さんも失敗を重ねながらこんにゃくを作っていくと面白いと思います。

20.11.23

衛門三郎伝説

2008-11-24 10:08:47 | 歴史/古文書
 四国八十八ヶ所めぐりの「お遍路」の始まりはこの「衛門三郎」伝説によるとのことです、この国分寺の境内の案内板に書いてありました。

 またこの写真は衛門三郎の石造ということになります。何かお地蔵さんのようですね!

 その由来は、伊予の国に衛門三郎は住んでいました。いつも強欲で嫌われていました。あるときお坊さんが托鉢に来たのですがお坊さんに、やるものはないと衛門三郎は托鉢を振り落とし坊さんを押し倒しました。托鉢は八つに割れお坊さんは遠くまで飛ばされてしまいました。 お坊さんは大怪我はしなかったのですが乱暴な衛門三郎三郎の元を逃げていきました。

 しばらくすると衛門三郎には8人いた子供たちが8日間のうちに8人とも死んでいきました。衛門三郎はわが子を一度に失いショックを受けました。これはきっとお坊さんに乱暴を働いたからだとそのお坊さんの名前を近所の人々に聞くとなんと弘法大師であることが分かり大変驚愕したのです。

 衛門三郎は弘法大師の後を追っていきましたが徳島県の山中で病に係り、死ぬ直前に弘法大師が出てこられ【衛門三郎再来】と書いた石を手に握らせました。罪を許されて安らかに黄泉の国へ行ったのです。

 その後、伊予の国の領主である河野家に男児がようやく生まれました。その赤ん坊の左手のこぶしは握られたままでした。お寺で僧侶に祈祷してもらうとその手の左手が開いて【衛門三郎再来】の石が出てきました。

 両親は左手が開いたことを喜び安養寺に多大の寄進をし菩提寺にしました。そのときからそのお寺は石手寺と呼ばれるようになり今日の51番札所石手寺のことだそうです。

モズク蟹

2008-11-23 08:56:57 | 随想
 昨日はクラインガルテンに行き、畑の耕しや、マメの引き抜き、オクラの引き抜きナスの引抜を行いそれぜれ消石灰を蒔いて耕しておいた。

 途中腰に痛みが出てきたので休みやすみ耕し最後にがサッカーボールほどの大きな石ころも出てきました。

 細君はこんにゃく作りをしました。ちょうど義兄がやってきてモズク蟹6匹を持参しました生きていて可愛いのです。

 義兄に火をおこしてもらい蒟蒻のゆでることとモズク蟹を入れた味噌汁作りを細君と義兄に分担してもらいました。お昼は1時ごろになりましたがモズク蟹入り味噌汁はおいしいしまたコンニャクも新鮮で味が良く刺身として今までにないおいしい味がしましたコンニャクイモ100パーセントのものは味わいが美味ですね。

 一度手作りコンニャクを芋から作ってみてはどうですか。我が家にはまだ写真のモヅグ蟹2匹が生きています。どうして食料にするか思案中です。

波紋の庭

2008-11-22 19:38:15 | 歴史/古文書
 月の桂のには波の文様に書かれた石庭です。桂家は右田毛利家の何人かの家老職でした。格は高いのですが石高は毛利氏一門の家老といっても多くはなかったようです。・・・防府市観光協会の人の話です。・・・170石と聞いています。