中国人はなぜ、自分たちの文化の後進性を自覚しないのか。中国があまり貧しすぎるので、恥を忘れたのだ、と言う人もいるが、中国には、「富貴も淫する能わず。貧賤(ひんせん)も移す能わず」という立派な言葉もある。・・・・
例えば、中国人は比較的に友情を重視する。しかし、問題は、中国人がなぜ友情を重視するのか、ということである。中国にはこういう言葉がある。
「家にいるときは、両親を頼りにする。外に出れば友人を頼りにする。家にいると、父母の保護がある。外に出ると、友人の保護が必要だ」。
しかし、西洋人は友人の保護を必要としない。彼らには、政府の保護がある。だから、西洋と中国では、友人の意義が違うのだ。どちらが本当の友人か、言うまでもないと思う。
車が壊れた場合、アメリカ人は自発的に助けに来る。中国人はもし友人でなければ、おそらく相手にしないだろう。
私の友人の車が、
大雪の日、溝に突っ込んでしまったことがある。すると、二人の黒人が車を止めて降りてきて、三、四時間もかかってやっと車を道に引っ張り上げた。彼は大変、感激して彼らに名前を書いてもらおうとした。恩返ししようと思った。しかし、助けに来た二人の黒人は、こう言った。
「もし、ほかの人が同じ状況にあれば、あなたもきっと助けてやるでしょう」
私の友人は非常に感動した。人情味とは、こういうお互いに知らない人間の間に生まれるべきだ。それこそ本当の人情味だ。
アメリカ人は普通、人情味を表わさない。しかし、助けの必要なときに、彼は助けてくれる。これは、おそらく聖書の影響を受けたのだろう。
中国人は、友人に対してのみ人情がある。愛国心も同じだ。外国人は普段、愛国心を表に出さないが、いったんことがあれば、それが出てくる。
中国人は、それと反対である。中国人は、普段は国を愛して愛してしようがない。国を愛しすぎて今のようになってしまった。これ以上国を愛するのをやめて、その余った分で自分を愛すべきだと思う。自分の資質を向上させることだ。自愛すなわち愛国、なのではなかろうか。
:柏楊(ポーヤン)「醜い中国人」張良澤・宗像隆幸(共訳)光文社1988/06/25 12刷発行
柏楊〔ポーヤン 1920-2008〕先生、いつもありがとうございます。
「富貴も淫する能わず。貧賤も移す能わず」
中国の古い言葉ですが、「淫する」には、度が過ぎる、の意味もあるとのこと。
つまり富んでも貧しても、自然体で臨むということですね。
中国には、こうした昔の良い言葉が残っているのに、
なぜ今の中国人はだめなのか、と問う人がいますが、意味ある言葉を残した古代中国人の多くは、役職に就かない、つまり野に下った人たちでした。
よってこれを敷衍〔ふえん〕するなら、今の中国共産党幹部からレベルの低い見解しか出ないのは、当たり前なんですね。中国では神話以外の多くの場合、「為政者以外の人が立派だった」のです(笑)。
柏楊(ポーヤン)の指摘は、いつも的を射ていますね。
品位を欠くどうしようもない人間に限って、口先だけで「友情」とか「愛国」を叫ぶもの。
これは隣の韓国にも言えることですが、「友情とか愛国」が普通にある人は、普段「友情とか愛国」を口に出さないものです。
よって韓国人や中国人が、政府の洗脳によって、いつも大声で「愛国」とか「友情」を叫んでいる限り、それは巧みに仕組まれたガス抜きに過ぎず、いざという時には跡形なく消えてしまうものなんです。
「友情」といえば、日常の生活ですれ違う人と挨拶さえしない人でも、
山登りという特殊な場合、途中ですれ違う「まったく知らない人同士」でも気楽に挨拶できるというのは、そこなんですね。いわば山登りというのは特殊事態なんでしょう。
普段のすれ違い時にあいさつをしなくても、登山の途中で挨拶できることは、実に尊いことです。
家庭内だけでは挨拶するけれども、街中では特殊事態が起っても、犯罪に巻き込まれるのがいやだとして通り過ぎるのは、いかにも寂しいですね。
もちろん中国などでは街中の特殊事態を金儲けの材料にしようとする人がいるのも事実で、こういう人がなくなればのことですが・・・・
いっそのこと、家庭内で挨拶をしなくても、街中で特殊事態が起ったときには助け合う気持ちがあってほしい、と思うのですが。
柏楊は
アメリカ人は聖書の影響があるから助け合えると見ていますが、私は、日本人なら「聖書」の影響がなくてもこれができる、と考えています。
しかし同じように「聖書」の影響がない「はず」の中国人や韓国人に、なぜそれができないのでしょうか。
今、イスラム教とキリスト教の対立が深刻ですが
国が統一できておらず、未発達段階ならば、結束を深めるために宗教が果たす役割はおおいにあるとは思うものの、残念ながら一神教には、負の一面があるので、注意しなければなりません。
「注意する必要はない」と主張する人は、きっと一神教にどっぷり浸かりきっていて、この宗教対立を激化させている人に違いありません(笑)。
ほとんどの場合、一神教では自宗教の教えは守るものの、異教の教えを
- 無視したり
- 尊重することを忘れ
- 場合によっては、これが大きな対立の原因となり、口汚くののしりあう
傾向が見られます。
宗教上の相互理解とともに、
宗教上の付き合いには「交流の場」という面があろうかとも思いますし、たしかに「かつては結束を深めるために大切な役割を果たした宗教」ですが、今となっては宗教が原因で対立が深まっている、と考えられる時代になりました。
できれば宗教が大きな役割を果たす時代が去って、宗教関係者の一部がじょじょに廃業・転職し始め「妙な宗教組織」が弱体化するほうが、宗教対立が薄まると思うのです。しかし、それがいつ実現するのかは分りません。
しばらくは「内部がまとまるための宗教」としての役割に期待し、やがて「外部との理解を深める」ために「宗教色が薄まる」ことを期待したい、と思うのです。
日本人が
世界中で高い好感度を示している理由の一つに、日本人の宗教色が薄い、ということがあります。
中国・韓国で反日が強いのは、それだけ日本が残酷なことをしたからではなく、現在の中国・韓国の政府が、国内を結束させるために「反日という宗教」を利用している、からでした。
なぜ「宗教」としたかと言えば、これは「ありがたい教えであり異論を唱えてはいけない」からでした(笑)。
事実これらの中国・韓国は、報道規制・言論統制が存在する弾圧国家ですね。
このからくりに気づかないまま、「反日であることが立派な人間のすることである」と勘違いしている「反日の日本人」が数多くいるというのは、まっこと「悲しいものですね」。
この人たちには「健康的な懐疑心」というものがないらしく、文字通り「思考停止」した人たちで、ある種の宗教の信者となんら変わりません。
日本を旅した
中国・韓国の人たちの多くが、「想像していた」日本と違う、と驚くようです。
私としては、一体かれらが何を「想像していた」のかについては分りませんが、と言いながら分っていますが(笑)「その驚きが一体なぜ起ったのか」を考えてもらいたいのです。「驚き」っぱなしでは、そのギャップにはまりっぱなしになり、やがて感性が鈍り、「驚き」ではなくなるでしょう。
もう一度繰り返すなら
「なぜ自分は日本へ来て驚いたのか」を、冷静に考えて頂きたいものです。
中国・韓国の洗脳政府為政者は「その驚きは日本人の二枚舌に起因している」などと、これを巧みにすり替えて利用するでしょうが、ヒントだけ申し上げると
- 「政府が報道を規制し、弾圧してはいないか」
- 「何かを自主規制していないか」
ということです。
自分たちが、
- 「何を想像させられてきた」のか
- 「何かに洗脳されたため」なのか
- 「何かを教えられてこなかった」からなのか
などなど、より現実に近い相互理解が深まるよう、期待している次第です。
私は、日本を旅する中国・韓国の人たちに
日本のいいところも日本の悪いところも、そのまま知ってもらいたい
と願っております。これが相互に可能になったあかつきには、
- 報道が規制されず
- 悪意をもって事実をねじまげようとする人の声を狡猾(こうかつ)に利用する人が減りさえすれば、
たとえ多くの対立があっても、きっといい未来がやってくるはずですから。
今の日中関係、日韓関係は、その端緒についたとも言えない段階にあるのです。