「恋する西洋美術史」(光文社新書) 池上英洋 著

人類不変の恋愛の歴史を、おそらくは人々の最大でかつ最長のメディアであった絵画(*)にて読み解きます。本日、光文社新書より出版されたレオナルド研究の旗手である池上英洋の最新刊、「恋する西洋美術史」を読んでみました。

「恋する西洋美術史/光文社新書/池上英洋」

全編に渡って美術史はおろか、自身の恋愛体験にも定評(?)のある池上節が冴え渡っています。以下、本書の内容を章立てより紹介します。(図版、もしくは二重カギ括弧内は全て本文より引用しました。ただしウルビーノのヴィーナスのみは別図版。)

第一章 恋する画家たち
第二章 愛の神話
第三章 愛のかけひき
第四章 結婚 - 誓われた愛
第五章 秘められた愛
第六章 禁じられた愛
第七章 愛の終わり

はじめにルノワールやピカソらと言った、この手の画家では事欠かない恋のエピソードについて述べた上で、続く二章で『ユダヤ・キリスト教とともに、ヨーロッパ文化の二本の柱』(p.56)である、ギリシャ・ローマ神話の恋の遍歴物語を丁寧に記述しています。三章以降は本書の中核、愛の様態、つまりは結婚や性、それに時に不倫であり同性愛などを、西洋絵画を引用しながら図像学の観点でひも解く内容です。また全編を貫く軸としてギリシャ神話、とりわけクピドの存在がありますが、その他にもキリスト教や中世の一般的な性の通念などを紹介し、美術史だけではない愛の本質を多様な側面から捉える工夫もなされていました。読み進めていくと、いつの間にか例えば中世のカップリングパーティの実情に詳しくなった自分に気がつくのではないでしょうか。指輪交換の習慣が生まれたのはいつのことなのか、また中世のお化粧事情はどうだったのか。そのような話題も満載でした。

前述の通り、本書の主人公はギリシャ神話の性愛をつかさどる神、クピドです。『同神話でも最も絵画に登場することが多い』(p.66)彼は、反面的に愛が西洋絵画の中心モチーフであったことを如実に表していますが、本文中にもクピド主題の図像がいくつも紹介されています。



ヤコボ・ズッキ「クピドとプシュケ」(p.93 図26)
人間の娘プシュケに恋してしまったクピドの物語です。姿を隠してプシュケを愛していたクピドはある日、彼女に正体を見られて逃げ出しますが、プシュケは執拗に彼を追い続けます。結果、プシュケはとあるタブーを破り、深い眠りに陥りますが、それを助けたクピドのキスによって目覚めました。



カノーヴァ「アモルとプシュケ」(p.110 図30)
アモルとはクピドのことです。上のズッキではクピドがプシュケの正体を見知るシーンが描かれていますが、こちらはキスによって目覚めさせる部分が表されています。元来的にキスは『命が入ってくるドア』であり、そこで『愛をもたらす』(ともにp.110)という意味があるのだそうです。



マグリット「恋人たち」(p.112 図31)
クピドと直接関係はありませんが、彼が源であった『キスが習慣化して』しまった近代の悲劇が描かれています。二人の男女は人格を喪失し、布に覆われながら口を直接介さない形でキスをしています。『キスの魔力』(ともにp.112)はここに失われました。

ところで図像学の視点は、どこか既視感のある絵の魅力も簡単に高めてしまいます。下の二点はその一例です。



ティツィアーノ「カール5世と猟犬」(p.142 図40)
2006年のプラド美術館展でご記憶の方も多いのではないでしょうか。いかにも大王然とした勇ましい姿が描かれていますが、ここでの『極端に広い肩幅、細く見える脚、顎の髭、大きな猟犬、股間に突き出たブラゲッタ』は、全て『男性的魅力』(ともにp.142)を誇張して示しているのだそうです。



ブリューゲル(子)「農民の婚礼の踊り」(口絵7)
一見、農村地帯の素朴な結婚式の様子が描かれているように思えますが、ここには半ば卑猥な『中世の若い男女のカップリング習俗』(p.158)を見て取ることが出来ます。森に消えて行くカップルや、股間を見せ合うかのようなポーズをとる男女は一体何を示しているのでしょうか。

当然ながら、一般的には愛は性とは表裏一体の関係にあります。本書でも著者の筆がのっているのは、露骨な性の表現にも言及された部分と、タブーを超えた所に愛を見る、言わば禁断の愛について触れられた後半部でした。(またここには載せませんが、レオナルドによる性交の瞬間を解剖学的に捉えたデッサンや、中世ヨーロッパの性生活の実践法を事細かに規定した驚くべき「懺悔規定書」の引用もありました。)



ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」(p.193 図53)
西美での記憶にも新しいどこかエロティックな様相をたたえたヌードです。『夫婦の間の性欲に火をつける』かのような、『一種の性教育の教材として意図された』(ともにp.193)可能性があるそうです。



ジェルヴェックス「ロラ」(p.239 図65)
ミュッセの詩に基づく主人公ロラが、自殺の前の最後の晩を娼婦マリーの部屋で過ごします。その一夜明けた時の性の気怠き様子と、後に控える死の気配が同時に表されていました。



クールベ「眠り」(p.257 図72)
是非一度、この目で見てみたい作品です。クールベの革新性が、レズビアンにおけるロマン主義に満ちあふれた愛の本質を見事に表しています。全掲載図版作品の中で最も官能的でした。

性の飽くことない快楽は、反面としてのキリスト教的な価値観による貞潔の世界を女性に要求します。これらの作品は実のところかなり滑稽ですが、ジェンダーの視点で見ると、また違った印象も受けるのではないでしょうか。



メムリンク「貞潔」(p.174 図46)
岩山に覆われたマリアの姿です。岩をはじめ、二頭のライオンは『女性の貞潔を護るため』に存在しています。画家の活躍したフランドルの男たちは、妻に『貞潔を守らんと努力せよ』(ともにp.174)と要求しました。

貞潔にも関係するのが、肉体を伴わない愛、ようは『精神的な愛』(p.279)です。ロセッティらもこれらの『愛を介した女性たちの崇拝を描いた連作を発表して、高い評価』(p.281一部略)を得ていましたが、ここではその形の原点を中世の騎士道物語に見ていました。



作者不詳「ヴィーナスの勝利」(p.286 図82)
『聖書解釈が反映』(p.284)された精神的な愛をモチーフとする図像です。マリアの処女性と結びつく『閉ざされた庭』(p.285)に由来する花園で、マリアの股間から発せられた光を受ける騎士たちが恍惚としています。

最後に触れるのが、肉体と精神の二元論にも由来する、天上と地上の愛の関係です。古代よりの天上の愛の姿を、ルネサンス期の『キリスト教的絶対愛』(p.293)の動向と合わせて論じていました。



ティツィアーノの「聖愛と俗愛」(p.291 図85)
難解とされる同作品の意味を、またもや登場するクピドの役割に注目して鮮やかに解読します。着衣と裸体の女性は各々精神と肉体の愛を示し、その中でクピドは『事物の誕生の原動力である愛』(p.292)に連なる生を水中より取り出して再生させています。つまり双方は対立し合うことなく、言わばクピドを基点に円を描いて補完し合いながら周り立ち戻るということなのかもしれません。愛はここに止揚されました。

少々長くなりましたが、上述のように充実した内容(もちろんこれらも一例に過ぎません。)の他では、引用される作品の図像がほぼ100%掲載されていることも特筆に値します。また前著「ダ・ヴィンチの遺言」でも見られたように、さり気なく著者自身の体験を織り交ぜた語り口も親しみが感じられました。著者の初恋の相手が冒頭で暴露される美術書などなかなかありません。

「ダ・ヴィンチの遺言/KAWADE夢新書/池上英洋」

美術ファンだけでなく、恋に悩み、また『愛したことの思い出』(おわりにより)のある全ての人に必見の一冊です。当然ながら強力におすすめ致します。

*人類の歴史は、現代のように文字がコミュニケーションにおける有効な手段である時代よりも、識字率がおそろしく低い期間のほうがはるかに長い。だからその間のことを知ろうと思えば、最大のメディアだった絵画を「読む」必要があるのだ。(はじめにより)
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
すらすらと (Tak)
2008-12-18 22:03:33
こんばんは。

所々うんうんと頷きながら
すらすらとあっという間に読終。
真骨頂ですね、まさに。

ジェルヴェックス「ロラ」他
衝撃的な作品も多数。
楽しめましたね!
 
 
 
Unknown (はろるど)
2008-12-18 22:41:26
Takさんこんばんは。
TBありがとうございます。

一気呵成に畳み掛けるような池上節にこちらも熱くなってしまいました。
ロラをはじめ、一度はこの目で見たいような作品ばかりでしたね。
また色々とお話を伺いたいものです。
 
 
 
Unknown (ike)
2008-12-18 23:51:49
とりあげていただいて、ありがとうございます。

いつもながら、読ませる記事ですね。

とりいそぎお礼まで
 
 
 
Unknown (はろるど)
2008-12-19 00:45:50
ikeさんこんばんは。

ぐいぐい引き込まれる内容で楽しく拝読させていただきました。
やはり愛を語らせると先生は(以下自粛)…。

また宜しくお願いします!
 
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