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チベット

2008-03-19 14:50:28 | Weblog
2008年夏の北京オリンピックが狙われている。中国の指導部はそう感じている。中国に面子を失わせるような出来事はすべて中国の成功をねたむ国外の反中国勢力の陰謀のように彼らには見える。

農薬に汚染された冷凍餃子についても、日中の友好を妨害しようとする勢力の仕業の可能性もある、という中国要人の発言が報道されたことがあった。

大気汚染の北京でマラソンは大丈夫か、などと国外のメディアが書き立てる。すると、中国政府の報道官が正面から大丈夫にきまっているなどと反論する。中国共産党は手際よく市場経済に乗り換えたが、市場経済のもとで活動する外国メディアとの付き合いにはまだ不慣れなようだ。自分に都合の悪い報道がすべて中傷に聞こえるのである。

だから、チベットのラサやその周辺で反中国暴動が起こったさい、中国政府は海外のメディアの現地入りを禁じた。ラサに入れたのは中国のメディアだけである。中国要人に言わせると「中国の国内問題」だからだ。フランスの外相などはその制裁としてオリンピック開会式のボイコットの検討をEU外相会議に提案することも考えているそうだ。

1975年にインドネシアが東ティモールに侵攻し、以後長らくにわたって東ティモールを併合したときも、東ティモールをメディアの取材から隔離した。ようするに外部の人に、やっていることを見られたくなかったからである。

中国国家主席の胡錦濤は前回1989年のチベット騒乱のとき、チベット自治区の共産党書記だった。北京の党指導部の指示に忠実に従い、力ずくで騒乱を処理した。これが彼の出世の糸口になったといわれている。それからおよそ20年。彼が中国の権力の頂点に達したときに、また同じような騒乱事件が発生したわけだ。彼は自身が20年前に北京から受けた指示と同じものをチベット自治区の党書記にまた指示したのだろうか。

チベットが中国を宗主国とする中国勢力圏に取り込まれたのは清朝の時代だ。清朝が崩壊した1911年にチベットは独立を宣言した。チベットと中国・袁世凱政権とイギリスの3者代表が1913年からインドのシムラでチベットの独立問題を協議した。だが、途中で中国が会議参加を取りやめて、チベットの国際的地位はあいまいなままに放置された。中国が共産党政権になってからチベットに軍を進めた。

1951年に中国人民解放軍がラサに入り、以後、中国とチベットの間で動乱が繰り返された。1959年にダライ・ラマがインドに亡命した。チベット自治区が成立したのは1965年である。

建前としては、中国は抑圧的な宗教と農奴制による冷酷な中世的支配から朋友のチベット人民を解放したということである。別の見方をすると、中国は戦略的に重要な国境周辺の辺境地域の支配の永続化に成功したわけだ。

中国は多民族国家といわれるが、その92パーセントが漢民族で、チベット族など50以上を越える民族は文字通り少数民族である。チベットや新疆で支配の頂点に立つのは漢民族である共産党の自治区書記である。少数民族の自治区役職者は飾りに過ぎない。自治区政府にはアメリカの州政府ほどの自治権もない。

チベット自治区の首都ラサでも、新疆ウイグル自治区首都のウルムチでも、いまや漢民族が人口の過半数を占める。チベット騒乱の原因は、チベット族が昔のような宗教支配と農奴制の社会への復帰を望んでいるからではない。圧倒的な漢族の人口の波の中にチベット族とその伝統がのみこまれることへの不満と、権力に近い漢民族が多くをとり、チベット民族はそのおこぼれにあずかっているだけだ――中国の西部大開発の大波の中で、チベット族がアメリカの西部開拓時代にインディアン居留地に押しこめられたアメリカ先住民のように二流の国民にされてしまうという不満がある。不公正と格差というもっと現代的な問題が、チベット族の自尊心を刺激し、怒りをかきたてているのである。

3月19日の朝刊の記事によると、今回の暴動はダライ・ラマらの組織的策謀であり、ダライ・ラマはチベットの独立を求めないといっているが、それは偽りであり、ダライ・ラマと対話を始めるにはまずダライ・ラマがチベットが中国の不可分の領土であるとともに、台湾もまた中国の不可分の領土であることを認めることが前提だ、と温家宝首相が言ったという。やれやれ、これではこの問題は帝国としての中国の瓦解するとき以外、解決はないだろう。


(2008.3.19 花崎泰雄)


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