2015年3月29日、シンガポールでリー・クアンユー初代首相の国葬が営まれた。いまから10年前の2005年、筆者が当時の勤め先だった大学の紀要に書いたスカルノ、スハルト、マルコス、マハティール、リー・クアンユーの5人の政治的評伝から「リー・クアンユー――実用主義者の家長」のリード部分を抜きだして弔辞に代える。
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リー・クアンユーは有能な経営者だった。トーマス・スタンフォード・ラッフルズが19世紀はじめに目をつけた「地の利」を生かして、シンガポールをアジア有数の商業都市国家に育てあげた。
リー・クアンユーを偉大な政治家ともちあげた人は多い。「構想力を持った優れた政治家」(ジョージ・ブッシュ)、「かれは一度たりとも過たなかった」(マーガレット・サッチャー)、「今日のシンガポールの成功彼のリーダーシップによる」(ジャック・シラク)、「小さな島を偉大な国家へほとんど独力で作りあげた」(宮沢喜一)。なかでも、ヘンリー・キッシンジャーはリーについて言った。「ある政治家たちの能力と彼らの国のパワーの不一致は、歴史の非対称性といわれるものの一例である」。キッシンジャーはリーの有り余る能力と、彼の能力と比べてあまりに狭いシンガポールという小さな舞台の不釣合いについて語ることで、リーに賛辞を送った。また、リチャード・ニクソンは次のように語ってリー・クアンユーを称えた。リーが別の時代に、別の場所に生きていたとしたら、「チャーチル、ディスレリー、グラッドストーンと並ぶ大人物となったことだろう」。
リー・クアンユーがオランダ植民地時代末期のインドネシアで生まれていたら、スカルノをしのぐ偉大な独立革命の指導者になっていただろうか。また、リーはホー・チ・ミンになりえたか。それを空想するのは楽しいが、空想したところで意味はない。
リー・クアンユーは、そのドライな人間観と功利的な政治経済哲学とで、シンガポールをマレー世界に浮かぶリッチな中国系の現代都市国家につくりあげた。さらに、スカルノ、スハルト、フェルディナンド・マルコスが権力者の栄光と悲惨をたっぷりと味わったのに比べ、彼はあざやかな身の処し方で、同じ時代を生きたこれらの東南アジアの政治家たちがなし得なかった“偉業”を達成した。「1998年にスハルトが退陣に追い込まれたとき、1990年に首相をやめていてよかったな、と思ったものだ」と述懐しているように、リー・クアンユーは惜しまれつつ自らの意思で引退し、引退後も隠然たる力を残して院政を敷き、時間をかけて長男を自分の後継者として育てあげ、最後に首相につかせた。中国伝統の見事な家長を演じた才人であった。
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3月29日の国葬では長男で現首相のリー・シェンロンが最初の弔辞を読んだ。
“Growing up with my father, living through those years with him, made me what I am.”
リー・クアンユーが作り上げた国家・シンガポールについては「楽園の裏側――シンガポール 2001」をどうぞ。
(2015.3.29 花崎泰雄)