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ブランコ、swing、そして鞦韆

2023-04-25 18:54:20 | 社会

イギリスの作家カズオ・イシグロが黒澤明の映画『生きる』を翻案した映画 『Living 』が4月日本でも公開された。カズオ・イシグロが脚本を書き、オリヴァー・ハーマナスが監督した。

『Living 』は、映画の舞台を原作の1950年代の日本から1950年代の英国に移しているが、物語の筋は黒澤作品を尊重している。翻案というよりはremakeという言い方があたっている。

黒澤の『生きる』もハーマナスの 『Living』も物語の主人公は平凡な公務員である。ある日、医師から癌でもう長くは生きられないだろうと言われる。短い余命を宣告された公務員が失意のどん底から人間として再生するきっかけが街の子ども公園の建設だった。市民からの要望がありながらも棚ざらしにされていた計画だった。

ストーリーは映画を見ていただくのが手っ取り早い。たいていの方は黒澤の『生きる』のあらすじはよくご存じだろう。子ども公園が完成したある日、主人公は雪の降る中で子ども公園のブランコに座り、物思いにふける。そして歌を口ずさむ。黒澤映画の主人公は「ゴンドラの歌」を、ハーマナス映画の主人公はスコットランド民謡の「ナナカマドの木(The Rowan Tree)」を歌う。見る人の心を打つ場面である。

  「あなたの心の内をたずねなさい。そこにこそ泉はある」

  「しあわせな一生を送るには、ごくわずかなものでこと足りる」

ローマ帝国5賢帝の1人であるマルクス・アウレリウスの『自省録』の中のストイックな断想を思い起こさせるシーンだ。

このシーンで人生最後の仕事をやり遂げた主人公に黒澤は「ゴンドラの歌」をうたわせた。芸術座の公演『その前夜』の劇中歌で、大正から昭和にかけての日本製の流行り歌だ。「ゴンドラの歌」は、舞台をイギリスに移した『Living』では使いにくかったのだろう、脚本を書いたイシグロは歌をスコットランド民謡「ナナカマドの木」にかえた。四季の風景と家族の慈しみをたたえた穏やかで滋味あふれる歌だ。

「ゴンドラの歌」の「命短し恋せよ乙女」は『Living』には合わない。少なくとも日本人の観客は「命短し恋せよ乙女」と聞くと「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」(三橋鷹女)という気合の入った俳句をつい連想してしまう。

ブランコは哲学の小道具になりうるが、過去の風俗画では男女の情動のシンボルとして使われてきた。西洋の例ではジャン・オノレ・フラゴナールの絵がある。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/181339)。

東洋では中国・清時代の「二美人遊戯鞦韆図」がある。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293050

芥川龍之介は「傾城の蹠白き絵踏かな」という句を作った。中国政府が法輪功を嫌うように、江戸幕府はキリスト教を嫌い弾圧した。その手段の一つが「絵踏」だった。長崎の絵踏の最終日は丸山遊女が対象になった。物見高い連中が集まって、着飾った遊女たちが素足で聖画を踏むのを見物した、と歳時記にある。白い裸の足は小説家のフェティッシュな趣味だ。だが、宗教史が専門の歴史家だったらこんな句はつくらないだろう。哲学者テオドール・アドルノは、アウシュビッツを題材に詩をかくのは野蛮である、と言ったそうである。それをもじって日本のドイツ文学者三島憲一は、南京虐殺で俳句を作ることは野蛮である、と言い換えたそうだ。俳句の「俳」は戯れの意であるが、「俳」の野放図をたしなめる倫理というものもある。

原勝郎『鞦韆考』(青空文庫)によると、ブランコは古代ギリシアにもあった。首をつって死んだ女性の祟りを封じるためにブランコを造って祭りで漕いだという神話がある。ブランコは古代ギリシアから古代ローマに伝わり、やがてヨーロッパに広がった。『鞦韆考』はブランコが祭祀の小道具から、大人の男女のエロティシズムの小道具になった例として、18世紀のフラゴナールの絵をあげている。

ブランコ遊びは中国へも広がり、春の女性の行事「鞦韆」として定着した。日本にももたらされたが、大人の鞦韆遊びは日本ではいっときすたれ、徳川時代になって俳諧の季語「鞦韆」として復活した。しかし現代では「鞦韆」は俳句以外では使われることの少ない言葉になった。鞦韆にとってかわった「ブランコ」は子ども公園にあり、遊園地のタワーから吊り下げられた電動空中ブランコは大人の男女がキャアキャアと歓声を上げる無機質な遊具になっている。

(2023.4.25 花崎泰雄)

 

 

 

 

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公費渡米

2023-04-23 22:26:55 | 政治

日本の首相の配偶者が米国の大統領の配偶者に招かれて訪米した。日本の内閣官房長官によると旅費は官費だった。

岸田首相の外国訪問に随行した秘書官である長男が、首相帰国時のお土産を買い集めていたという報道でにぎわって間もない時期だった。ホワイトハウスで茶をたてさせるための配偶者官費旅行か、というやるせない雰囲気が日本をつつんだ。

日本の首相の配偶者が単独で外国の首脳の配偶者を招待し、招かれた外国要人の配偶者が、その国の官費で単独訪日した例はあるのだろうか。

メルケル・前ドイツ首相の配偶者はフンボルト大学の教授である。妻の政治向きの旅行には同行しないことが多かった。英国のトラス、メイ、サッチャーといった前の首相の配偶者も政治の舞台に姿を見せることが少なかった。

近い将来、世界の大統領・首相のポストを男女が半々に受け持つようになったとき、某国の大統領の配偶者(男性または女性)が別の国の首相(女性または男性)を単独で招待する配偶者外交が流行するのだろうか。

そういう時代に備えて、首相配偶者の海外出張の手当や費用の税制上の処理方法などの決まりをいまのうちにきちんと整える必要がある。首相配偶者が投資マネジャー、大学教授、評論家、作家、弁護士、医者などの有職者だった場合、それらの配偶者の官費出張中の経済的損失の補填など、決めておくことは色々とあるだろう。

とはいうものの、配偶者の収入は個人差がある。配偶者の収入が首相や大統領を上回ることもあるだろう。また、収入額を推定されるような事態を嫌う配偶者は当然いるだろう。そういうわけで、一番穏当なのは、配偶者のお使いには官費でその費用を負担しないことだ。首相の外交の手足になるのが外務省をはじめとする官僚である。大勢いる。それが嫌なら、首相や大統領が自分の財布から旅費を出して好みの人材を派遣すればよい。

配偶者をともなった首脳外交は、そもそも19世紀の古典外交の名残である。

 

(2023.4.23 花崎泰雄)

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喧噪の春

2023-04-16 00:58:46 | 政治

ロシアのプーチン大統領が国際刑事裁判所手配のお尋ね者になった。ウクライナの子どもをロシアに移送した戦争犯罪の容疑である。アメリカ合衆国ではトランプ前大統領がニューヨーク州の大陪審で起訴の決定を受けた。大統領選挙に備えて元愛人に口止め料を払ったなどの疑いである。日本の岸田首相が遊説先で爆発物らしきものを投げつけられた。その理由はまだ明らかになっていない。

明治以降の日本では伊藤博文から安倍晋太郎まで、7人の首相・首相経験者が暗殺されている。政治家が活動するのは権力闘争の修羅場である。権力追求は政治に携わる者の本能である。権力を握って世の中のためになることを成し遂げようとする政治家もいれば、自己陶酔のために権力を追う政治家もいる。政治報道を担う日本のジャーナリズムは、政治家たちの権力奪取ゲームを話題にする政局報道を得意とする。時々は思い出したように日本のあるべき姿を論じてみたりもするが、読者である一般人は政局報道を読みふける。

岸田政権は防衛予算の増加や敵基地攻撃能力の獲得を高言するが、先日北朝鮮が打ち上げたICBMの軌道計算を誤って、北海道に着地すると予測してJアラートを発した。また、緊急時には沖縄を防衛する陸上自衛隊第8師団の師団長らを乗せたヘリが宮古島付近の海に墜落したが、海底の機体の回収に手間取り原因の究明が遅れている。

どうもしまらない話だが、もっとしまらないのは、国会での放送法の政治的公平をめぐる高市・経済安全保障担当大臣と小西・立憲民主党参院議員の論戦だった。小西議員は政治的公平を根拠に気に入らない報道に圧力をかけようとしたとして安倍政権時代の高市総務相の言動を追及した。

参院予算委員会の審議で高市氏は「私が信用できないのなら、質問しないでいただきたい」と発言、小西氏は参院憲法審査会の毎週開催について「サルのやること」と発言し、両氏そろって評判を落とし、放送法の討議の影が薄くなった。

このような発言の背景には、国会議員である両氏が、政治問題を権力奪取ゲームの材料とみなし、問題が市民社会に与える影響を深く考える習慣から遠ざかっていることが考えられる。

日本では放送法が定めた政治的公平の判断を、政府機関である総務省にゆだねている。ヨーロッパでは国によって、その判断を独立機関に任せている。判断を独立機関にませているイギリスで、次のような事件が起きた。BBCのサッカー番組の司会者が、BBCのよって契約を解除された。司会者がボートで英国に密入国した移民らを強制的に追放する英国の新法案をナチス・ドイツをほうふつとさせるとツイッターで非難した。これに対して保守派の議員らが反発、BBCが公平性に関する指針違反と判断したという。サッカー関係者がBBCの態度に怒り、サッカー放送に協力しないとしたことで、BBCはその司会者をもとの番組に戻した。

日本の放送法は第4条で放送に政治的平等を求めている。現行ではその政治的平等を判断するのは、放送法を所管する総務省である。総務省の判断は最終的に時々の与党の判断である。政治的平等の判断は政党によって違いがある。

そういうわけで、放送法第4条の政治的平等をめぐる議論は本来、その判断を政権党の判断にゆだねることの是非を問うものであったはずだが、議論は途中で腰砕けになってしまった。米国にはかつて政治的平等を保障するための「フェアネス・ドクトリン」があったが、今では廃止されている。

(2023.4.16 花崎泰雄)

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