2009年2月20日のアメリカ合衆国新大統領就任式でもっとも興味深かったのは、バラク・フセイン・オバマという名前そのものだった。ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソン、エイブラハム・リンカーン、ウィリアム・クリントン、ジョージ・ブッシュなどとは異なる響きの名前だった。
2番目に興味深かったのは、日本のどこかの街の美容院で、美容師が仕事をしながら一日中オバマの選挙演説CDを店内に流しているというNHKのニュースだった。取材者が美容院の客に「英語がおできになるので?」と聞く。すると「ぜんぜんできない。でも、音楽を聴いているようで、いい気持ちになれる」。筆者などには、彼の演説の口調は、ゴムまりのようにはずみすぎと聞こえるのだが、これは好みの問題だろう。ところで、日本国首相・麻生太郎のダミ声を聞いて「言っていることはぜんぜん理解できないが、講談か浪花節を聞いているようで、いい気持になれる」といってくれる人がどのくらいいるのだろうか。
麻生とくらべるとオバマは格段に格好いい。アメリカのメディアの批評では、ブッシュは「ダチ(友達)風」、クリントンは「叔父さん風」だったが、オバマは「プリンス風」なのだそうだ。身長186センチのバラク・オバマと、同じく180センチのミシェル・オバマが就任祝いの舞踏会で踊る姿は、盆踊りくらいしかできない(と思われている)日本の政治家とは異質なものがあった。
それはさておき、アメリカの大統領就任演説は祝祭の祈祷のようなもので、施政方針演説のような具体性を求められていない。理念や世界観を華麗な修辞法で語るわけで――それでも、就任演説を聴いて、これで日本の景気がああなるこうなると講釈している政財界人もいるにはいた――こうした抽象的な弁舌になじみが薄く、えてして青臭い書生論と退けがちな日本人の多くには退屈なはずだが、日本の新聞もアメリカの新聞なみに、オバマ新大統領の就任演説(それも英文テキストまで)を掲載して、その内容を解説した。
アメリカはいま危機の最中にあり、その危機は暴力と憎悪のネットワークとの戦争と疲弊した経済である、とオバマは就任演説で言った。彼は前者の戦争については詳しく語らず、後者の経済の疲弊について、「一部の人の強欲と無責任の結果であるが、厳しい選択を避け新しい時代への国の備えに失敗した私たち全体の責任だ。人々は家を、仕事を失った。企業は破綻した。医療費は高すぎ、学校教育はいたるところで崩壊している」と現状認識を語った。
そうした問題の解決のための処方箋はこれから出てくるわけで、就任演説ではその手法の基盤となる昔ながらの価値観――勤勉、正直、勇気、公正、寛容、好奇心、忠誠、愛国心をあげるにとどまった。
アメリカがどのように変わろうとしているかは、すべてこれからのことだが、一つだけはっきりしていることがある。それは、ブッシュ政権の思想との決別だ。
2001年にアフガニスタン、2003年にイラクを攻撃したジョージ・ブッシュは、再選された2005年の就任演説で次のように語った。
「われわれの国において自由が生き残れるかどうかはますます他の国において自由が成功するかどうかにかかっている。われわれの世界の平和のためにもっとも望ましいことは、世界中に自由が行き渡ることである」
ブッシュは2005年の就任演説で、freedomという単語をなんと27回も繰り返した。オバマは2009年の就任演説でfreedomを3回にとどめた。その代わり、アメリカがキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、無宗教者の国だといった。
リチャード・ホーフスタッターは『アメリカの反知性主義』で、アメリカのキリスト教ラディカリズム信奉者を、世界を絶対善と絶対悪の戦いの場とみなし、悪との妥協を軽蔑するマニ教的思想を持つ人たちだと指摘し、アメリカの反知性主義グループの一つにあげた。ブッシュ本人とブッシュ政権の国防グループの人々にはそのような傾向があった。
善なるなるアメリカが悪なる他国と妥協することを拒否し、自由の拡張の旗を掲げて軍靴で他国に踏み込むもよしとした前政権の思考法と縁を切り、まずあらためて世界の多様な現実に目を向けようとしていることがうかがえるオバマ就任演説だった。
(2009.1.22 花崎泰雄)
2番目に興味深かったのは、日本のどこかの街の美容院で、美容師が仕事をしながら一日中オバマの選挙演説CDを店内に流しているというNHKのニュースだった。取材者が美容院の客に「英語がおできになるので?」と聞く。すると「ぜんぜんできない。でも、音楽を聴いているようで、いい気持ちになれる」。筆者などには、彼の演説の口調は、ゴムまりのようにはずみすぎと聞こえるのだが、これは好みの問題だろう。ところで、日本国首相・麻生太郎のダミ声を聞いて「言っていることはぜんぜん理解できないが、講談か浪花節を聞いているようで、いい気持になれる」といってくれる人がどのくらいいるのだろうか。
麻生とくらべるとオバマは格段に格好いい。アメリカのメディアの批評では、ブッシュは「ダチ(友達)風」、クリントンは「叔父さん風」だったが、オバマは「プリンス風」なのだそうだ。身長186センチのバラク・オバマと、同じく180センチのミシェル・オバマが就任祝いの舞踏会で踊る姿は、盆踊りくらいしかできない(と思われている)日本の政治家とは異質なものがあった。
それはさておき、アメリカの大統領就任演説は祝祭の祈祷のようなもので、施政方針演説のような具体性を求められていない。理念や世界観を華麗な修辞法で語るわけで――それでも、就任演説を聴いて、これで日本の景気がああなるこうなると講釈している政財界人もいるにはいた――こうした抽象的な弁舌になじみが薄く、えてして青臭い書生論と退けがちな日本人の多くには退屈なはずだが、日本の新聞もアメリカの新聞なみに、オバマ新大統領の就任演説(それも英文テキストまで)を掲載して、その内容を解説した。
アメリカはいま危機の最中にあり、その危機は暴力と憎悪のネットワークとの戦争と疲弊した経済である、とオバマは就任演説で言った。彼は前者の戦争については詳しく語らず、後者の経済の疲弊について、「一部の人の強欲と無責任の結果であるが、厳しい選択を避け新しい時代への国の備えに失敗した私たち全体の責任だ。人々は家を、仕事を失った。企業は破綻した。医療費は高すぎ、学校教育はいたるところで崩壊している」と現状認識を語った。
そうした問題の解決のための処方箋はこれから出てくるわけで、就任演説ではその手法の基盤となる昔ながらの価値観――勤勉、正直、勇気、公正、寛容、好奇心、忠誠、愛国心をあげるにとどまった。
アメリカがどのように変わろうとしているかは、すべてこれからのことだが、一つだけはっきりしていることがある。それは、ブッシュ政権の思想との決別だ。
2001年にアフガニスタン、2003年にイラクを攻撃したジョージ・ブッシュは、再選された2005年の就任演説で次のように語った。
「われわれの国において自由が生き残れるかどうかはますます他の国において自由が成功するかどうかにかかっている。われわれの世界の平和のためにもっとも望ましいことは、世界中に自由が行き渡ることである」
ブッシュは2005年の就任演説で、freedomという単語をなんと27回も繰り返した。オバマは2009年の就任演説でfreedomを3回にとどめた。その代わり、アメリカがキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、無宗教者の国だといった。
リチャード・ホーフスタッターは『アメリカの反知性主義』で、アメリカのキリスト教ラディカリズム信奉者を、世界を絶対善と絶対悪の戦いの場とみなし、悪との妥協を軽蔑するマニ教的思想を持つ人たちだと指摘し、アメリカの反知性主義グループの一つにあげた。ブッシュ本人とブッシュ政権の国防グループの人々にはそのような傾向があった。
善なるなるアメリカが悪なる他国と妥協することを拒否し、自由の拡張の旗を掲げて軍靴で他国に踏み込むもよしとした前政権の思考法と縁を切り、まずあらためて世界の多様な現実に目を向けようとしていることがうかがえるオバマ就任演説だった。
(2009.1.22 花崎泰雄)