文部科学省が教科書の検定基準の見直し計画を公にした、という記事がここ数日の新聞で報じられた。歴史事項に関して教科書へ政府見解の記載を求めることなど、6月に自民党の特別部会・教育再生本部がまとめた案が下敷きになっている。
新聞報道によると、自民特別部会は、犠牲者数などが諸説ある南京事件や、強制性をめぐって見解が分かれる慰安婦問題などについて「多くの教科書に自虐史観に立つなど問題となる記述がある」と改定の必要性を主張していた(11月16日付朝日新聞)。
中国と韓国の愛国教育に対抗して、日本でも同じレベルのことをやろうとしているようにも見える。どうやら日本政府は、中韓を相手にした言葉のチキンゲームに子役を本格動員する気らしい。言葉のチキンゲームを下支えするのは、自衛力増強、集団的自衛権、日本版NSC、秘密保護法などなどである。雄叫びをあげ、文武両道で失われたアジアNO.1のポジション奪還を目指すのであろう。
政府見解の教科書への記載のくだりは、かつての『ソ連邦共産党史』を思い出させる。
ソ連共産党内部での権力の移動は『ソ連邦共産党史』に反映された。クレムリン・ウォッチャーは共産党指導部のテラスの立ち位置で権力順位を推定し、ソ連研究者たちは『ソ連邦共産党史』の改訂内容から、党内部権力とイデオロギーの変化を読み取ろうとした。思えばスリリングな謎解きゲームの面白さがあった。
やがて内外の研究者が、日本の初等教育の教科書を開いて、日本政治のイデオロギーの変化と権力者の盛衰を分析する時代が……来ないとも限らないだろう。
さて、本題に戻って、11月16日の朝日新聞朝刊に、1975年から1981年にかけて文部省で社会科の教科書調査官を務めた所功・京都産業大名誉教授(日本法制史)のコメントが載っていた。「義務教育で教科書が国費で無償配布される限りは、政府見解を教科書に書くことは当然」。元教科書検定実務の担当者としては当然の信仰告白だろう。この信仰こそが「憲法第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 同第2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」という規定の違反者であったという自責の念から、元教科書調査官を救済してくれる。
昔から言う。「ただより高いものはない」。そもそも半世紀ほど前、教科書を無償化しようという法案が審議されていた時、危惧されたのが「金を出せば口も出る」の問題だった。とはいうものの、政府の金は政府が自ら汗水たらして稼いだものではなくて、酉の市の熊手のようなもので、国民全員から掻き集めたものなのだが。
ルイセンコ学説のような例外はあるが、連立方程式、ピタゴラスの定理、化学反応といったハードサイエンスの分野には教科書検定が入り込むすきはない。その方面の教科書は無償のままにしておき、近現代史を扱う歴史・社会など政治的立場が反映される教科書は有償に戻してはどうだろうか。金を払えば、親もその教科書をチェックするだろう。
危うい時代になったものだ。時の権力に距離をおき、広々とした視野をもった歴史教育は、これからは、その子の親自らがきちんと教えるか、親ができない場合は、文部科学省から助成金をもらっていない私塾へ通わせて、学校教育とのバランスをとるしかないだろう。
(2013.11.16 花崎泰雄)