「日本国の天皇が退位をのぞむ」というニュースが、BBCやニューヨーク・タイムスなど世界のメディアで報道された。
7月14日付の朝日新聞夕刊によると、「菅義偉官房長官は14日の記者会見で、生前退位の制度を創設する皇室典範の改正については『考えていない』と述べた。政府として宮内庁に事実関係を確認することも『特別ない』と語った」。
身内の閣僚や与党議員の不祥事報道に際して、これまで「問題ない」「問題ない」を連発してきた人だから、記者たちに面倒な質問をさせるような隙を与えないために、また「ない」「ない」の煙幕を張ったのであろう。
内閣のスポークスマンである官房長官が、天皇の生前退位の制度を創設する皇室典範の改正について考えていない、と発言したことは、天皇の生前退位を認めないつもりである、と言ったに等しい。皇室典範は第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」としているので、日本の天皇は生きている限り、国民統合の象徴の地位にとどまらねばならないきまりになっている。
また、官房長官は、内閣官房皇室典範改正準備室で生前退位の制度を検討するかどうかを質問され、「考えていない」と否定した、と報道された。
一方、朝日新聞の同じ記事では、安倍晋三首相が14日午前、羽田空港で記者団に対し、「様々な報道があることは承知をしている。そうした報道に対し、事柄の性格上、コメントすることは差し控えさせて頂きたい」と述べた、と伝えている。
「事柄の性格上」、一国の内閣総理大臣がコメントを控える、その事情は何か。
この稿の筆者が憶測するに、ご本人の口から生前退位の正式な希望表明がなされるまでは、政府も余計なことは言わないのが得策だと判断しているからだろう。すべて内々で準備と根回しをすすめ、万端整った段階で国民に対して正式発表をする。「きまった」ことだからと、国民を納得させる手法である。
かつて「鉄のカーテン」「竹のカーテン」「菊のカーテン」という言葉があった。鉄のカーテンと竹のカーテンは同質のカーテンであるが、菊のカーテンは前2者のカーテンとは性格を異にしており、「菊の御簾」と言い換えた方があたっている。ある部分は御簾を上げて国民に見せ、また、ある部分は御簾を下ろして国民に見せないように、宮内庁が中心になって巧みに操作している。
毎日新聞(7月14日電子版)によると、天皇の生前退位に関しては、宮内庁の一部の幹部が水面下で検討を進め、今年5月半ばから検討が本格化、首相官邸にも連絡してすり合わせてきた、ということである。
内々で進めてきたこと事柄がどこからか漏れてニュースになり、宮内庁も内閣もあわてて、とりあえず打消して、沈静化をはかろうとしているのであろう。
日本国憲法の第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(Article 1. The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.)と定めている。
日本国民の中には日本を共和国に変えたい人もいるし、今のままの曖昧な立憲君主国でいいという人もいる。現在の日本の体制を一口に立憲君主制というのは正確でない。たとえば、自民党は党の憲法改正草案で、第1条を「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と天皇が日本国の元首であることをはっきりさせようとしている。ということは、外務省が海外で天皇を head of state と称しているのはさておき、日本国内では天皇が日本国の元首であるということは、広く認められていないわけである。
生前退位を認めるかどうかの議論は、主権の存する日本国民と、それにもとづく国民統合の象徴である天皇の地位を、きちんと確かめる良い機会になる。議論を盛り上げ、場合によってはレファレンダムで文字通り国民の総意を聞いてもよかろう。国民主権というものを身を以て経験する絶好の機会であり、やがて来るであろう憲法改正の国民投票にあたって、近代憲法の精神というものを再確認するリハーサルになるであろう。
(2016.7.14 花崎泰雄)