フィリピンのマニラ首都圏・マカティにある5つ星のペニンシュラ・ホテルに武装した兵士がたてこもっているという11月29日のテレビのフラッシュニュースには一瞬ドキッとした。
というのも、フィリピンではアロヨ大統領に対する不満がつのり、政情不安が高まっていたからだ。半月ほど前の11月13日には、マニラ首都圏・ケソンにあるフィリピン下院ビルで爆発が起きていた。この爆発で、イスラム過激派の元主要メンバーだった下院議員ら3人が死亡、10数人が負傷した。フィリピンのイスラム・ファクターや、反アロヨ大統領勢力がどんどん鋭角的なっている時期だったからだ。
ペニンシュラ・ホテルに立てこもった兵士は、不正で泥まみれのアロヨ大統領の政治手法を激しく非難し、退陣を要求した。しかし、軍や警察はホテルを包囲し、最後にホテルに突入、たてこもっていた兵士らを拘束した。テレビでは装甲車がホテルの玄関を突き破ってロビーに突入する華々しいシーンが放送された。しかし、この事件で死者は出なかった。
つかまったのは、上院議員のアントニオ・トゥリリャネス(元大尉)とダニロ・リム准将、ギンゴナ元副大統領ら。彼らは、ホテル内で記者会見まで開いていた。
アントニオ・トゥリリャネスは大尉だった2003年にも兵士を率いてたてこもり反乱事件を起こしたことがある。この事件でかれは庶民の間の英雄になり、今年5月の上院選に獄中から立候補して当選した。ダニロ・リムも2006年のクーデター計画に加わったとされている。
この2人は反逆罪の容疑で、29日にマカティの裁判所で開かれた公判に出廷した。そのあと、法廷から脱出、支持派の兵士と約30人で市内をデモ行進したのち、ペニンシュラ・ホテルに入った。このあたりの警備のかったるさがいかにも南国的なのだが、それはさておき……。
1986年のマルコス追放クーデターのあと、フィリピンでは1987年、1989年、2001年、2003年、2006年と頻繁にクーデター未遂や小型の反乱事件が起きている。
1986年にマルコスに反旗を翻してコラソン・アキノ擁護に回ったフィデル・ラモス将軍は、アキノ大統領の後継大統領になった。
1987年と1989年の反乱の首謀者はグレゴリオ・ホナサン大佐だったが、彼はのちに恩赦を受けて解放され、その国民的人気によって上院議員におさまった。ホナサンはいまなお軍内の若手理想主義者に人気と影響力とを保持している。ホナサンのコピーがトゥリリャネスである。
歴史的経緯により、フィリピンの政治はあらましアメリカの政治のコピーであるといってよい。その民主主義の運用の仕方もアメリカのコピーである。だが、アメリカとは異なるフィリピンの政治文化がその民主主義のありように一味変わった風味を添えている。
フィルピンは海外出稼ぎで国を支えている。国内では貧富の差が激しく、かつての地主層が富と権力を独占している。フィリピンの大衆は選挙で一票を行使するが、その一票が選挙民の現実の生活と以下に関わるかを知ることが少ない。選挙による代表民主制を採用しているところでは多かれ少なかれ似たような現象が起きているが、フィリピンではこの傾向が極端に突出している。一票はファン投票のような気分で投じられる。日ごろの不満の溜飲を下げるために投じられる。勧善懲悪のスクリーンの英雄エストラーダを大統領にしたのもこうした票であった。
フィリピンの政治はパーソナリティーの政治であり、有権者大衆は政治家にオーラを求め、統治者にメシア的救済者の幻影を見ようとしている。フィリピンの政治はいまなお幻想と幻影の政治である。
このあたりのフィリピン政治の特質の詳細については、(お閑な方は)拙著「幻想と幻影の政治――マルコス 1965-1986」をどうぞ。
(2007.11.30 花崎泰雄)
というのも、フィリピンではアロヨ大統領に対する不満がつのり、政情不安が高まっていたからだ。半月ほど前の11月13日には、マニラ首都圏・ケソンにあるフィリピン下院ビルで爆発が起きていた。この爆発で、イスラム過激派の元主要メンバーだった下院議員ら3人が死亡、10数人が負傷した。フィリピンのイスラム・ファクターや、反アロヨ大統領勢力がどんどん鋭角的なっている時期だったからだ。
ペニンシュラ・ホテルに立てこもった兵士は、不正で泥まみれのアロヨ大統領の政治手法を激しく非難し、退陣を要求した。しかし、軍や警察はホテルを包囲し、最後にホテルに突入、たてこもっていた兵士らを拘束した。テレビでは装甲車がホテルの玄関を突き破ってロビーに突入する華々しいシーンが放送された。しかし、この事件で死者は出なかった。
つかまったのは、上院議員のアントニオ・トゥリリャネス(元大尉)とダニロ・リム准将、ギンゴナ元副大統領ら。彼らは、ホテル内で記者会見まで開いていた。
アントニオ・トゥリリャネスは大尉だった2003年にも兵士を率いてたてこもり反乱事件を起こしたことがある。この事件でかれは庶民の間の英雄になり、今年5月の上院選に獄中から立候補して当選した。ダニロ・リムも2006年のクーデター計画に加わったとされている。
この2人は反逆罪の容疑で、29日にマカティの裁判所で開かれた公判に出廷した。そのあと、法廷から脱出、支持派の兵士と約30人で市内をデモ行進したのち、ペニンシュラ・ホテルに入った。このあたりの警備のかったるさがいかにも南国的なのだが、それはさておき……。
1986年のマルコス追放クーデターのあと、フィリピンでは1987年、1989年、2001年、2003年、2006年と頻繁にクーデター未遂や小型の反乱事件が起きている。
1986年にマルコスに反旗を翻してコラソン・アキノ擁護に回ったフィデル・ラモス将軍は、アキノ大統領の後継大統領になった。
1987年と1989年の反乱の首謀者はグレゴリオ・ホナサン大佐だったが、彼はのちに恩赦を受けて解放され、その国民的人気によって上院議員におさまった。ホナサンはいまなお軍内の若手理想主義者に人気と影響力とを保持している。ホナサンのコピーがトゥリリャネスである。
歴史的経緯により、フィリピンの政治はあらましアメリカの政治のコピーであるといってよい。その民主主義の運用の仕方もアメリカのコピーである。だが、アメリカとは異なるフィリピンの政治文化がその民主主義のありように一味変わった風味を添えている。
フィルピンは海外出稼ぎで国を支えている。国内では貧富の差が激しく、かつての地主層が富と権力を独占している。フィリピンの大衆は選挙で一票を行使するが、その一票が選挙民の現実の生活と以下に関わるかを知ることが少ない。選挙による代表民主制を採用しているところでは多かれ少なかれ似たような現象が起きているが、フィリピンではこの傾向が極端に突出している。一票はファン投票のような気分で投じられる。日ごろの不満の溜飲を下げるために投じられる。勧善懲悪のスクリーンの英雄エストラーダを大統領にしたのもこうした票であった。
フィリピンの政治はパーソナリティーの政治であり、有権者大衆は政治家にオーラを求め、統治者にメシア的救済者の幻影を見ようとしている。フィリピンの政治はいまなお幻想と幻影の政治である。
このあたりのフィリピン政治の特質の詳細については、(お閑な方は)拙著「幻想と幻影の政治――マルコス 1965-1986」をどうぞ。
(2007.11.30 花崎泰雄)