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news commentary

スハルト 1921-2008

2008-01-17 14:29:15 | Weblog
インドネシアの第2代大統領を務めたスハルト(イスラムの呼称ではハジ・ムハマド・スハルト)は2008年1月27日、入院先のジャカルタ・プルタミナ中央病院で死去した。86歳だった。スハルトは1月4日、体調を崩してジャカルタ・クバヨランのプルタミナ中央病院に入院した。やがて症状は多臓器不全に至り、重篤な状況が続いていた。スハルトの医師団は、スハルトの驚異的な生命力に感嘆し、一方、スハルトの家族は人工呼吸器をはずすかどうかの判断を医師団に一任している、と報道されていた。1月15日にはスハルト家の執事長にあたる人物が、地域の行政責任者や軍・警察の主だった人々とともに、中部ジャワ・ソロ郊外のスハルト廟(アスタナ・ギリ・バグン)を視察に訪れた。お迎えする準備はいつでも整っているとスハルト廟の関係者が語った、あるいは、プルタミナ中央病院5階にあるスハルトの病室では彼のベッドの位置がはメッカの方向を向くように変えられている、などと新聞がつたえていた。

スハルトの評価については否定と肯定がまっ二つに分かれている。1998年に彼が大統領の座を追われたときは様子が違う。あのころは「スハルトを吊るせ」との叫び声がスハルト擁護の声をかき消していた。それから10年。スハルトが入院中の1月4-14日に開発戦略政策研究センター(Puskaptis)が行った世論調査では、回答者の67パーセントが「スハルトを許す」と回答した。

スハルトの後継大統領ハビビはスハルト色の打消しに躍起となった。国会はスハルト時代の腐敗一掃を決め、スハルトは不正蓄財容疑で刑事訴追されたが、ハビビ政権も、ワヒド政権も、メガワティ政権も、ユドヨノ政権もスハルトとその時代を裁くことができなかった。結局、スハルトが10数回の入退院を繰り返した果てに、スハルトを許してやろうではないかという合唱が、法的なけじめをつけるべきだという声より大きくメディアで伝えられるようになった。スハルトを許してやろうではないか、という声の発信源は、スハルト時代にスハルト政権の庇護で世に出て、スハルト後のいまもながらえている中小の権力者や資産家たちである。スハルトが許されれば、彼らの成功の秘密もまた公にされないですむからである。

刑事事件としてのスハルトの不正蓄財に関する裁判はスハルトの健康上の理由で中断された。かわって不正蓄財返還の民事訴訟が起こされたが、その裁判さえスハルトの国家への貢献に敬意を表して取り下げるべきだとの声がスハルトにつながる人々から高まった。ユドヨノ大統領は民事訴訟を示談で解決するよう検事総長からスハルト側に提案させたが、スハルト側に拒否された。ユドヨノはそのような指示はしていないと否定した。

以上のような「許す」「許さぬ」の議論が沸騰する中で、ベッドの上のスハルトは意識を失い、取りもどし、また失うとう状態を繰り返した。かつての国家指導者を国民こぞって静に見送ろうという雰囲気ではなかった。スハルトを1月13日に見舞ったリー・クアンユーの談話がそのことを簡潔に要約している。スハルトの長らくの友人であるリー・クアンユーはスハルトを見舞ったのち、シンガポールで次のように語った。「たしかに腐敗はあった。家族や友人に便宜をはかった。だが、経済成長と進歩ももたらしたのだ」。リー・クアンユーは経済成長の功績と腐敗・抑圧という負の遺産を差し引きし、なおスハルトの功績は大きかった、と評価した。「インドネシア国民はスハルトがいて幸運である」とリー・クアンユーは言った。そのスハルトが死の病床にあったとき、その功績に相応しい尊敬を受けていないことに悲しみを表明した。

これはスハルト擁護の発言であるとともに、政治的抑圧をコストに経済的成長を成し遂げ、豊かではあるが心貧しい都市国家をつくりあげたリー・クアンユーの自己弁護でもあった。リー・クアンユーもスハルトも1960年代半ばから、政治的多元主義、基本的人権などの西欧的価値と引き換えに、強力な中央集権体制(アジア的民主主義と称した)をつくりあげて経済成長・国家のインフラストラクチャーづくりに励んだ。

1960年代には貧しくどうやって生きていけばいいのかという状態だった国民に豊かさを与えてやった。民主主義を叫んで食えないでいるよりは、黙らされてはいるが十分食える暮らしのほうが良いではないか。それが、リー・クアンユーの持論であり、スハルト評価の基準である。

「ニューオーダー」とよばれたスハルトの政治体制は32余年の時の流れに耐え、インドネシアの1人あたり実質国民所得を1965-1996年の間に4.5倍増させて、増大を続ける人口にもかかわらず国民に豊かさをあたえた。しかし、一方で、インドネシア人に政治的思考停止を強要した時代でもあった。

スハルトは中部ジャワの農家の子として生まれた。オランダ植民地時代、日本占領下、インドネシア独立戦争、独立後の軍出世競争を泳ぎきった。事実上の帝王としてインドネシアに君臨していたスカルノを追放してインドネシア国家を手中に収め、僭主となった。数世紀早く生まれていれば偉大な英雄となりえた。ジャワの“豊臣秀吉”、あるいはインドネシアの“ナポレオン”と称えられたかもしれない。が、いかんせん、スハルトが生きてきた20世紀は、民主主義、平等、公私の厳格な区別、清潔などが価値とされる時代だった。

スハルトとその周辺の軍人は、彼らの先代の指導者モハマド・ハッタやスタン・シャフリルのような外国での高等教育を受けておらず、民主主義など知らなかった。

スハルトは1965年の9.30事件後に、インドネシア共産党に対して物理的殲滅作戦を行い、数10万人から100万人といわれる同胞の殺戮に関係した。東ティモール侵攻、アチェの分離派とのゲリラ戦はもとより、国内治安にあたってもタンジュン・プリオク事件など、暴力の使用をためらわなかった。スハルト時代のインドネシア現代史は流血事件で溢れている。

9.30事件の真相とその後の同胞大量虐殺事件の詳細はいまだに不明である。真相はスハルト政権下で封印されてきた。スハルト失脚から10年になるが、いまなお真相究明への積極的な動きは見られない。暗い歴史の蓋を開けるのを皆が怖がっているのだ。

それは次のような事情による。インドネシア共産党員やその周辺の人々は兵士よって銃で撃たれたわけではない。インドネシア国軍にそそのかされ、軍から手渡された武器や、手製の山刀、手斧、棍棒などで、民間人の手によって殺された。イスラム宗教団体・ナフダトゥル・ウラマの指導者で、のちに第4代大統領に就任したアブドゥルラフマン・ワヒドはかつて、イスラム教徒が50万人のインドネシア共産党関係者を殺害したと語ったことがある。

イスラム教徒による共産主義者の殺戮という無残な事件もさることながら、この大量殺人事件に関して、権力者の冷酷さ、あるいは冷血というものに背筋が寒くなる思いをするのは、このインドネシア人にとって消えることのないトラウマとなっている未曾有の惨劇、あるいは歴史的悲劇を、背後で演出していた人物がいたという点である。

スハルトは9.30事件後の共産党狩りについて、共産党殲滅のために軍を直接使うよりも、むしろ、国民に武器を与え彼らの手で共産党に打撃を与える選択をしたと、ごく当たり前のように語ったことがある。

9.30事件で殺された将軍たちの遺体を見て、スハルトは「共産党を破壊することが私の最大の義務である」と感じ、首都であれ、地方であれ、山中の隠れ家であれ、共産党の抵抗を粉砕する決意を固めた。しかし、この闘争には軍を直接使うよりも、「私は国民が自らを防衛し、彼らの周りから邪悪の根源を一掃するのに手を貸すほうを選んだ」と自伝『スハルト――わが思想と言行』で語った。国民の間の反目、たとえばイスラム教徒と共産主義者、富裕層と貧農の間の対立を利用して、国民に武器を与えて昨日までの隣人を殺させることによって、権力者への道を突き進んだのであった。政治的対立は流血に至るという恐怖の実例を国民に見せつけ、国民を政治的に萎えさせることで長期間の権力保持に成功した。

だが、ほんとうにそうしたコストなしでは、今日のインドネシアはありえなかったのか?
もしスハルトとは違うタイプの指導者たちが30年以上にわたってインドネシアを運営していたら、いまよりももっとましなインドネシアが出来上がっていたのではないか? 残念ながら、こうした問い対して、インドネシアはこの10年間、納得できるような答えをさがしだすことができないままできた。そうこうするうちに、スハルトはインドネシア人の手からスルリと抜けてあの世に旅立ってしまった。

(200801.27 花崎泰雄)

 
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Heredity politics――家業としての政治

2008-01-05 22:42:57 | Weblog
この先どうころぶかは予想のしようもないが、アメリカの大統領選挙では1月3日のアイオワ州党員集会で、バッラク・オバマとマイク・ハッカビーの2人が、それぞれ民主党と共和党の指名の第1位を獲得した。ヒラリー・クリントンはちょっと失速気味でジョン・エドワーズにも抜かれ民主党の指名第3位に甘んじた。

先代のジョージ・ブッシュが第41代のアメリカ合衆国大統領になったのが1989年で、1993年にはビル・クリントンが第42代に就任した。ビル・クリントンは2期務め、2001年に41代大統領の息子のジョージ・ブッシュが43代の大統領になった。もし2009年1月にビル・クリントンの妻であるヒラリー・クリントンが第44代の大統領に就任することになれば、少なくとも1989年から2013年までの約4分の1世紀がブッシュ家とクリントン家が交互に大統領を出す世襲大統領の時代になってしまう。

幕末に日本の使節団が咸臨丸でアメリカを訪れたさい、使節団のメンバーがアメリカ人に、初代大統領のワシントンの子孫はいかがなさっておられるかと尋ねたが、それを知る人はいなかった。これは、福沢諭吉の『福翁自伝』や勝海舟の『氷川清話』に出てくる有名な逸話だが、最近のアメリカは風向きが変わってきたようだ。

世襲政治家が腐るほど徘徊し、heredity politics-家業としての政治に慣れっこになっている日本人には抵抗感は少ないだろうが、やはりいざとなってみると、平民主義の国アメリカ人にとって、政治が家業となって特定の一族に独占されることには不快感があるのだろう。そういうわけで、ヒラリー・クリントンへの支持が後退したのかもしれない。

共和党のハッカビーは聖職者出身で、宗教右派やキリスト教原理主義者団体の後押しを受けている。Kevin Phillips の American Theocracy によると、ブッシュ(子)時代にアメリカ政治の舞台にのして勢力の一つが宗教右派グループだという。無宗教の筆者などにとっては、あまり気持ちの良い候補ではない。

候補者指名レースは今始まったばかりで、クリントンの浮上もまたあるだろう。今後の展開次第では、今年のアメリカ大統領本選挙がheredity politicsかtheocracyかという選択になる可能性もなお十分なあるわけだ。アメリカ合衆国大統領の選挙では、当然のことながら、選挙権はアメリカ市民にだけしか認められていない。アメリカ市民だけで選んだその大統領が、事実上、世界を牛耳ることになる。

さて話はとぶが、現在のブッシュ大統領の国務長官であるコンドリーザ・ライスがパキスタンをアメリカのテロ対策前線国家として安定させるために、ベナジル・ブットにパキスタンへの帰国を説得した。ベナジル・ブットは去年帰国し、選挙活動中に暗殺された。

ベナシル・ブットが父親のズルフィカルから譲り受けたパキスタン人民党総裁のポストは彼女の息子のビラワル・ブット・ザルダリに引き継がれた。ビラワルは未成年でイギリスの大学に在学中なので、卒業まではベナジルの夫で、ビラワルの父であるアシフ・アリ・ザルダリが党務を代行する。彼は政治よりも商売に熱心な男と批判されてきた人物だ。

ブット家の家業は政治だが、父ズルフィカルは処刑され、娘ベナジルは暗殺された。ズルフィカルの息子、つまりベナジルの兄弟2人も横死している。1人はフランス1985年に死んだ。毒殺の疑いももたれた不審な死であった。ベナジル・ブットと政治的に対立していたいま1人は、ベナジルが首相時代の1996年に、カラチで警官に射殺された。国家によるテロだと当時の野党は国会でブット政権を攻撃した。

一族のほとんどが非業の死にいたったのも家業の故である。ベナジルの息子のビラワルなど、平和な日本の世襲政治家がさぞうらやましいことだろう。

(2008.1.5  花崎泰雄)
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