孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

きれいなだけのイルミネーション

2016年02月20日 | 日記
もうかなり前のことだが、私の気持ちをタモリが代弁してくれたようで、記憶に残っている事がある。

暮れも押し迫った時期の昼のバラエティー番組でのことだったと思う。

「最近、クリスマス近くになると、庭の木なんかに電飾をしたりする家があるじゃない。アレ観ると俺は無性に腹が立つんだよね。なんか、ウチは幸せな家庭ですっていいたげでさぁ。」

LED照明が安価で手に入るようになり、最近では駅前の並木などにもこの手の電飾を施すところが増えたり、イルミネーションを売り物にしたリゾート施設なども季節を問わず現れている。



家の近くにもその類のリゾート施設があり、孫達が行くというので誘われたこともあるが、私はああいう電飾を観てもあまり感慨を覚えないばかりか、きれいなだけ、ただそれだけとしか感じないので物足りない。



ここまでカラフルなLED電飾が可能になったのは、青いLEDの量産が可能になったためで、すべての色が少ないエネルギーで長時間照明可能になり、一気に普及し始めました。

一昨年には、この青色LED誕生の功績に対して、ノーベル賞を受賞した三名の日本人が話題になりました。



三名のうち二名は開発者で、残り一名は、量産化に貢献した技術者ということで受賞されたそうだが、三名の受賞に対する反応は文字通り三者三様であったように思う。

一人は、高齢の学者でコメントも奥ゆかしく控えめだった。また、別の学者は授賞式に同行した奥さん共々大喜びで、無邪気にはしゃぎまくっていたようだった。

そして、残る一人は、記者会見で、「研究の原動力は『怒り』だった。」とか、ノーベル賞の授賞式の後、メダルの印象を問われて、「ただの金属だ。」と何かに不満げな態度で、嫌なら辞退すればよかったのに・・と観る者に疑念を抱かせる応対だったと記憶する。



その理由はぼんやりとしか分からなかったが、当時気になって経緯を少し調べてみると、ハハ~ンと少し納得できた。

そう言えば、記者の前で彼は、「他のお二人の受賞者の論文など、読んだこともない。」と言っていた。つまり有体に言えば、彼は受賞すべきはこの自分だけだと言いたかったのだろう。

実際、彼は受賞が発表された後のコメントで、「新聞、テレビは、『青色LEDは赤崎(勇)名城大教授・天野(浩)名古屋大教授が発明し、中村氏は量産化する技術を確立した』と紹介する。 こんな認識は日本だけです。世界では、『青色LEDは中村が発明した』というのが共通の認識です」 と発言していたそうだ。

1993年、徳島県の勤め先の技術開発プロジェクトで青色LED 製品化に成功したときに、勤め先から得た報奨金は2万円だったと、マスコミはセンセーショナルに伝えていた。

それを彼がアメリカの研究者に話したら、「信じられない。お前はまるで奴隷みたいだ。」と嘲笑されたそうだ。

彼は勤め先を退社して、2001年に職務発明の対価をめぐって訴訟を起こしたのだった。1審では日亜側に200億円の支払いが命じられたが、2005年に高裁判決で和解し、中村氏には約8億円が支払われた。

中村氏は和解成立後の会見で「日本の司法制度は腐っている」とぶちまけていたそうだ。

2000年2月、彼は カリフォルニア大学サンタバーバラ校 材料物性工学科教授に就任し、晴れてアメリカ国籍も取得して、金も名誉も手にしたわけだ。

詳しい事情は分からないし、この業界の事情もあるのだろうが、当時から私はこの方の言動は、何か日本人離れしているようで、あまり共感を感じなかった。

アメリカに渡った彼が、以前の勤め先の競合会社で、特許権で元の勤め先が争っているクリー・ライティング社の非常勤研究員に就任していることを知ると、益々嫌悪感が募ってきた。

そんなこんな事も影響しているわけではないが、私はあの豪華なLEDイルミネーションを観ても、冷ややかな印象しか感じないのだ。


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