孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

おつるに見る、日本的奥ゆかしさ

2017年07月02日 | 趣味の世界
徳島市の「阿波十郎兵衛屋敷」では、人形浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』が毎日、午前と午後の二回上演されていて、410円の入場料金で、約30分間観ることができる。

『傾城阿波の鳴門』は、作家・近松半二・八民平七・吉田兵蔵・竹田文吾・竹本三郎兵衛ら5人による合作の、徳島藩のお家騒動を描いた時代物の浄瑠璃で、初演は1768年であった。

全部で10段からなる長編だが、最も上演されるのは8段の「巡礼歌の段」である。徳島市の「阿波十郎兵衛屋敷」では、土日には、義太夫節を唸る太夫と太棹の三味線を弾く三味線弾き、が舞台の右橋で生で演じてくれるので、本物を間近で味わえる隠れスポットである。

この話の題材のひとつになった「徳島藩のお家騒動」とは、実在した徳島藩士、板東十郎兵衛に関わる事件のことである。

江戸時代、徳島藩は米の生産は盛んではなく、他藩米に頼っていた。その監視役が板東十郎兵衛であったのだが、その時問題となった、他国米と阿波の1俵の換算の差からくる船頭たちの不正を認めなかった十郎兵衛。

この問題が、他国米輸入を認めない幕府に知られないよう、元禄11年(1698年)徳島藩は罪状を明らかにすることなく、十郎兵衛を処刑したのだった。

浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』は、この話をベースにその他別個の逸話を混ぜて出来上がっているのだが、徳島市の「阿波十郎兵衛屋敷」は、実在した板東十郎兵衛の屋敷跡にあり、『傾城阿波の鳴門』ゆかりの場所になるわけだ。

以前のブログでも書いたように、傾城(けいせい)とは、遊女とか美女という意味である。

物語は、阿波藩の藩主・玉木家の若殿が傾城に夢中になる。その隙に、小野田郡米兵衛という悪玉がお家乗っ取りを企てるというもの。

この騒動の中で、家老・桜井主膳が預かっていた玉木家のお宝「国次の刀」が何者かに盗まれる。そこで、家老・桜井は元家臣の十郎兵衛に刀を探すように頼む。

十郎兵衛と妻のお弓は、幼子のおつるを祖母に預け、大阪に出て名を銀十郎と名乗って、盗賊の仲間に入り、質屋や蔵に忍び込み、刀を探すのだった。

八段の『巡礼歌の段(じゅんれい、うたのだん)』は、お弓が十郎兵衛の家で内職の針仕事をしているところから始る。

 お弓の内職

そこに手紙が届く。

「追手が迫っているから、早く逃げろ』という手紙だった。

すると、その時かわいい巡礼姿の娘が玄関に訪れてきた。娘の国訛りが気になって尋ねると、阿波の国で、父の名は十郎兵衛、母はお弓という。お弓は、驚いてそのおつるという娘は、間違いなく自分の娘だと確信するのだった。

おつるは、小さい時母がいなくて寂しい思いをしたことや、巡礼中の辛いこと、宿に泊めてもらえず、山の中や他人の家の庭先に寝ていてぶたれたことなど、怖かったことを涙ながらに訴えた。

しかし、お弓は、ここで私が母であると明かすと、おつるにも追手の手が廻り、一緒に捕らえられるのではと考え、「ここは、国へ帰って親の帰りを待つのが良い」と諭し、心を鬼にして返すことにするのだった。

お弓は、引き出しの奥から小銭をかき集め、懐紙に丸めて、「これを路銀にすれば良い。金さえ出せば宿に泊めてもらえる。」と言っておつるに渡そうとする。

  路銀に・・

しかし、おつるは、「ありがとうござりまする。しかし、お金は小判というものを、たんと持っております。もうおいとまいたします。」



 両手をついて


丁寧に辞退するおつるに、それでもお弓は無理やり持たせ、おつるを抱き寄せて泣きながら別れを惜しむのだった。

お鶴は心惹かれるのだが、帰ることにして次第に遠ざかっていった。

泣き崩れるお弓は、やはり諦め切れず、お鶴の後を追って家を飛び出すのだった。

ここで、八段が終わるのだが、私はこの時もう胸に込み上げてくるものがあって、嗚咽を抑えるのに必死であった。

幼い娘が路銀を持っていけという施しを丁重にお断りする場面には、日本的なつつましさ、奥ゆかしさがよく表れていて、感動の極みであった。

おつるが、「お金は、小判というものを持っておりますから・・」と断るところは、実は、善意を丁重にお断りする口実であったのではないだろうか。

この私の疑問が数分後に、資料館にいたボランティアガイドのお爺さんとの、口論に発展したのだった。









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