孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

李氏朝鮮の現実、再考。

2015年09月13日 | 日記
英国人の女性旅行家、イザベラ・バードは、日本の江戸末期から明治初期にかけて合計4度朝鮮半島を訪れ、「朝鮮紀行」という本で、李氏朝鮮時代の朝鮮半島の見たままを詳細に伝えている。

 

最初にソウルを訪れたときの町の様子が、いろいろなところで引用されて、よく眼にする。曰く、、、  (どうか、食事中の方は読まないで下さい)



『都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。 礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。』と、始まり、、、

『路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の 汚物を受ける穴か溝で狭められている。』・・・道の両側は、人糞だらけだったようだ。そして、、、

『酷い悪臭のする、その穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。』 子犬はやがて食用として殺されることになるのだが・・。



『ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。』 染料が無かったので、布地は白ばかりだった。

そして、最も引用されるのがこの部分だ。

『北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのである。』

その後訪れた、支那の北京や紹興はソウル以上に酷い状況だったようだが、当時の彼女にしてみれば、ソウルの町の不潔さと悪臭はこの世で最悪だったようだ。

イザベラ・バードがソウルを訪れてから16年後に大日本帝国は韓国を併合した。1910年の「日韓併合」である。

その際、朝鮮総督府が発令した布令に、「路上脱糞禁止令」があり、この布令にソウルの市民はホトホト困ったようだ。江戸時代に朝貢に来た「朝鮮通信使」たちの悪行・淫風・非道ぶりはよく書かれているが、彼らが道中泊まった宿でも、朝になると一斉に街道に出て脱糞していたことはあまり知られていないようだ。

何せ数百人の随行人たちが一斉に始めるわけだから、当時の宿場は大変な迷惑だったろう。

この「路上脱糞禁止令」の波及効果で、朝鮮の保存食であるキムチが変化していくことになるのだが、この話はネットで検索すれば歴史研究家の方が紹介しているので、そちらで知ることが出来る。

イザベラ・バードの「朝鮮紀行」を改めて見直したのは、渡辺京二氏の大著「逝きし世の面影」を読み直していた時、ふと思うことがあったからだった。



この本は、江戸末期から明治初期に日本を訪れた識者たちが書き残した記録を引用して、当時の日本人の暮らしぶりを表している部分を細かく紹介してくれる名著である。

中には東北を廻ったイザベラ・バードの手記も紹介されているが、他のほとんどの識者たちの見た当時の日本の街並み、庶民の暮らしぶりも、押しなべて驚愕・賞賛の対象となっている。

当時ドイツから訪日した「オレインブルク使節団」の随行画家、(今でいうカメラマンか)アルベルト・ベルクは紀行文のなかで、日本の家の清潔さを、「汚れた長靴で立ち入るのをはばかるほどだ。」と書いている。

また、バードも、「日光の町に立ち寄ったとき、街路が掃き清められてあまりにも清潔なので、泥靴でその上を歩くのが気が引けた。」と言っているそうである。

比較の対象は、彼らがそれまで見た他のアジアの街並みや庶民たちであり、彼らの生まれ育った街の情景であり、同胞たちであったわけだ。

私のイメージの中の当時の西欧諸国の街並みや庶民の暮らしぶりは、私の勝手な固定観念で、石畳が敷き詰められた大通り、きれいなドレスを着飾った貴婦人たちが晩餐会を楽しんでいる光景、などであった。

そういう国からはるばるやってきた外国人たちも絶賛する当時の日本は、とてつもなくすばらしいものだったのだろうなあ、と思っていた。

しかし、最近、youtube で「パリを訪れた中国人観光客の多くが、その街の汚さと市民の不親切さに失望」という内容の動画を見て、「支那人に失望されるパリ?」と首をかしげて、ネットで西欧の状況を調べてみる気になった。

すると花の都パリのみならず、中世以来西欧の庶民の暮らしぶりは、思っていたほどすばらしいものでもなかったことが分かったのだった。

あのシャンゼリゼ通りも犬の糞で酷い状況だというニュースは、以前耳にしたことはあったが、中世のフランスなど西欧諸国は犬の糞どころではなかったようである。



そもそも、江戸の町では人の糞尿は下肥(しもごえ)といって、作物の肥料としての貴重な資源であった。街ででた下肥は農家に買い取られたり、街に行商にきた帰りに下肥を引き取っていくという、循環社会が確立されていた。

ところが、西欧では人の糞尿を作物に利用することは不潔であるという、異なった感覚を持っていた。パリの市民たちはセーヌ川に下水を流していたし、川の近くに住まない市民たちは道に流し、道の中央部がくぼんで底に集まった下水が川に流れ込むという状況だったようだ。

二階に住む住人は下におまるを運ぶのが面倒で、窓から路上に落とすことは普通に行われていた。「ガーディ・ロー!(投げるよー!)」と叫んで窓から汚物を撒くわけだから、下を歩いている通行人たちにかかってしまうことも当然あった。



通りには豚が放し飼いされていて、汚物を食べてくれたのだが、人口が増えてくればそれも間に合わず、次第に通りは汚物だらけになって悪臭を放ってくることになる。

  

ロンドンの男性がかぶる山高帽や、マントなどは窓から突然降ってくる汚物対策で考案されたファッションだそうで、フランスの女性たちが通りを歩くときスカートの裾が汚物で汚れるのを避けるため、かかとを高くした「ハイヒール」が考案されたのも、汚物まみれの通りからきているという。

 


西欧ではこの不潔さの所為で、ペストが蔓延し、数十万人が死亡することは珍しくなかったそうで、このために次第に下水道が整備されていったようだ。

ベルサイユ宮殿には数千人集まることもあったらしく、当然トイレが不足する。そこで貴婦人たちが庭に出て立ったまま用を足せるように「フープスカート」が考案されとことは、ちょっと前に紹介した。



宮殿に備えられた「おまる」の需要も当然大変なもので、使用人たちはせっせとおまるを外に持ち出しては、庭園の木々の下に捨てていたそうだ。宮殿の庭師たちがこれに対抗して、「立ち入り禁止」という表札を庭園に掲げた。この表札をフランス語で「etiquette](エティケッ)といい。エチケット(礼儀作法という意味)の語源になったそうである。元来「チケット」という「荷札(にふだ)」の意味の言葉だったわけだ。

さらに、フランスで香水が発達したことは、当時街に蔓延する異臭のためだったという話は、すでに広く人口に膾炙している。

延々と昔の西欧の不潔さを紹介したのは、それまでバードがソウルの町を「この世で一番不潔で、悪臭漂うところ・・・」と表現したときに私が抱いたソウルの酷さの程度が、実はもっと、もっと汚く臭いものだった名だろうなあ、と考え直すに至ったからである。

牧師の長女として生まれ育った英国婦人というだけで、イザベラ・バードは清潔で衛生的で高貴な女性だと勝手に連想していた私だが、縷々述べたような西欧からきた旅行家の目で見て、「不潔だ、臭い」というのであれば、ソウルの街並みは、相当に悲惨な状況だったのだろうと、改めて考え直したわけである。

となると、ソウルよりもひどい当時の北京や紹興の街は、、最早想像を絶するわけだ。











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