孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

のらくろ去って、豚来たる。(第3章)

2015年10月10日 | 日記
1947年2月27日、夕刻。

林江邁 当時40歳過ぎの寡婦は、生活のために違法とは知りつつ、生きるために闇タバコを路上で売って得たわずかな収入で生き延びていた。

その日も専売局の密売取締官と外省人官警が、取り締まりに現れた。

逃げ遅れた老婆を捕まえ、売上金とタバコを没収しようとする役人に彼女はすがりつき、売上金だけでも返して欲しいと泣き叫んで懇願した。

 タバコ露天商の取締り

そんな彼女を払いのけ、事もあろうに彼らは銃床で彼女の頭部を叩きつけた。老婆は頭から血を流し、その場に倒れこんだ。

一部始終を見ていた多くの通行人たちが続々と集まってきて、官警たちを取り囲んでその暴行を非難し始めた。

日頃から役人や官警たちの差別や横暴に苦しめられていた市民は次々に群がってきたため、それに恐怖を感じた官警の一人が、こともあろうか群集に向ってピストルを発射して、青年を撃ち殺した。

これが、二二八事件の発端だった。

 犠牲者の林さん

台北市民の怒りはこのことで頂点に達した。

群集は逃げる官警たちを追いかけ、かろうじて彼らが逃げ込んだ警察建物を取り囲んで、警察当局に当事者の引渡しを求めたが、当局はそれに応ずるどころか彼らをかくまった。

群集は一晩中その場を離れず、事件の一部始終は一夜にして台湾全島に広まっていった。

翌、2月28日。

群集は益々膨れ上がり、銅鑼を鳴らしながら「犯人に厳しい処罰を! 殺人は命で償え!」と書かれたのぼりを掲げながら、市民に抗議行動への参加を呼びかけた。

早朝、一部の市民は台湾放送局に進入し、決起の放送をするよう要求した。その放送局こそが今の台北二二八記念館である。



ラジオ局は彼らの言い分を制止することは出来ないと判断し、放送をしたため事件の詳細が瞬く間に台湾の隅々にまで拡散した。こうなると、自制のきかない市民たちが外省人たちを襲うような小競り合いも発生し始めた。

デモ隊は、「専売局局長の辞任」「台湾行政長官、陳儀の辞任」を要求してデモを続けた。

そして、午前10時。専売局の倉庫に集まった群集は、保管してあった専売品の酒、タバコ、マッチなどを道路に放り出し、燃やしてしまいました。炎は群集の怒りと共に天を突き激しく燃え、見物人も次々に集まってきた。

行政長官の陳儀は、その日の午後になって台北市に戒厳令を敷き、憲兵を集めて武力でもってデモ隊の鎮圧を試みた。しかし、群集が収まる気配は無かった。



憲兵隊はついに機銃掃射でもって群集を威嚇し始めた。この機銃掃射で十数名が死亡し、群集の怒りは頂点に達した。

台湾放送局を占拠した市民は、ラジオ放送で、「軍艦マーチ」や「君が代行進曲」などを流し、日本語で決起を指示し続けた。

台北市の議員たちは緊急会議を開き、「戒厳令の即時解除」「法に基く犯人の厳正な処分」「死傷者に対する補償金」「調査委員会の即時設置」などの要求事項を携えて役所に陳情に向った。

行政長官の陳儀は、秩序が回復するのを待って戒厳令は解除し、逮捕した市民は即時釈放することに同意をした。(戒厳令は実際には、1987年まで40年間続いた)

この二二八事件が収束した後も、台湾全土で本省人と外省人の対立が続き、それは今日まで尾を引いている。



赤色テロに対して、為政者や権力者が行うテロを「白色テロ」と呼ぶが、この事件以降台湾各地で白色テロの犠牲者が続出することとなる。そして、その正確な犠牲者数は3万人とも5万人とも言われ、未だに不明な点が多い。



しかも白色テロの対象は、市民だけでなく弁護士、医師、学者など多くの知識人や、政治家になることは、あのおぞましいカンボジアのポルポトによる大量虐殺を彷彿とさせる。



台湾に出発する際に待合室でみた支那人らしからぬ、静かだった連中が皆台湾に戻ろうとする台湾からの観光客だったと知って、私はこの違いは何なのだろうかと感じたが、そこには「日本による台湾統治時代」がかなり大きく影響していたんんだなあと、台湾を訪れるごとに実感する。

日本統治時代に、台湾人の民度は本土の支那人のそれとは比較にならないほど大きな差を生んだのだと思う。

時々日本人の時間厳守や、規律を重んじる姿勢が窮屈に感ずることがあるが、台湾には、その「日本精神」こそを大きな財産で、誇りにすら感じている方が多い。


以下、終章へつづく・・



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