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孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

七度目の台湾一人旅 part 1

2018年05月04日 | 趣味の世界
先月中ごろだったろうか、ゴールデンウィークをどう過ごそうかとボンヤリと考えながら、近くの静岡空港~台北便の混み具合をネットで見ていたら、何と4月29日出発便が残り1席いつもの価格で出ていた。

もう迷うことなく、その場で確保して、その後すぐに台北の格安宿も予約したのだった。

まさか、ゴールデンウィーク中に4日間も日本を離れられるなんて、その晩は興奮してなかなか眠れなかったほどだった。

翌日から、早速旅程の検討に取り掛かった。

私は、旅の楽しみはこの旅程を考えるところが半分以上を占めていると、常々思っていてインターネットを駆使して、情報をたくさん集めては、ジグソーパズルを解くようにああでもない、こうでもないと考えることほど楽しいものはない。

4月29日の深夜に宿にチェックインして、5月3日の10時ころチェックアウトするまでの丸々三日間は、台北市内だけなら充分過ぎる時間である。

天気予報や、これまでにまだ行ってなかったところなどを考慮して、出来上がった今回の「やることリスト」は、ざっと以下のようなものだった。


・ 台北アイで京劇鑑賞 演目:三打白骨精 (三蔵法師一行と孫悟空もの)
・ 淡水、紅毛城観光
・ 野柳、ジオパーク
・ 華山名画座ミニシアターでの名画鑑賞 (東京日和、羊の木、Jupiter's Moon)
・ 炒飯、食べ比べ
・ マンゴーカキ氷、食べ比べ
・ 龍山寺、お礼参り 


 タイペイアイ

1月に行った時は、満席であったため観る事が出来なかった。今回でもう6度目になるが、年々観客が増えている気がする。今回も館内約7割ほど観客で埋まっていた。

そのうち7~8割は、日本人観光客で残りは南朝鮮人観光客、それに西欧人らしき人もパラパラといた。

演技は時々ミスることがあって、その点はご愛嬌だが、閉幕した後すぐに俳優たちが出口に勢ぞろいして、手を振りながら観客との記念撮影に応じるところを観るのは、いつも楽しいものだ。

私は日本の歌舞伎もこのくらい庶民的な芸能であって欲しいのだが、観劇料は高く、俳優たちもみんなお高く留まっている様で、どうも敷居が高過ぎやしないかと不満である。一度歌舞伎を観たいと思っているのだが、高い敷居をまたぐ気がしないのだ。


  紅毛城

台北駅から淡水線の終点「淡水」で下車すると、淡水川に沿って色々な店が並んでいて、絶好の散歩コース、デートコースとして、有名な観光スポットである。私はここを訪れると、必ず烏賊焼きを買って食べることにしている。これはおいしい。

その淡水駅から、徒歩で25分ほど歩けば、「紅毛城」に着くのは以前から知っていた。ここも、団体旅行の観光客には定番の観光スポットらしいが、私はこれまでどうも行く気はしなかった。

その理由の一つは、淡水駅からの距離が歩いていくには遠いし、タクシーで行くほどの距離でもないし、路線バスを利用してもいいのだが、バス停を見つけるのが面倒だったこと。

そして、もう一つの理由は、ガイドブック等でその城の説明を読むと、そもそもアジアにノコノコ侵略の目的でやってきたスペインやオランダやイギリスなどが、その時のパワーバランスで所有してきた古城であり、台湾人が建てたわけではなかったからだ。

要するに、16~17世紀の西欧列強の台湾支配のシンボルでしかない建築物であるというだけで、それを餌に観光客から入場料を徴収しようとする性根が気に入らなかったからであった。

しかし、今回は日程にも余裕があったので、「ちょっと見てやるか・・」程度の感覚で訪れた。歩こうかと思ったが、日差しが強くてタクシーを利用した。

ガイドブック「地球の歩き方 2018版」には、入場料・無料と書かれていたが、何と80元(約300円)徴収された。この手のガイドブックには、よくこういう嘘情報が記載されているので、気をつけた方が良い。

城内の展示資料は、量の多さに比べて、内容は相当貧弱で期待はずれもいいとこであった。16~17世紀当時のアジアの地図はこうだった、ああだったとグダグダ説明されているだけで、「へえ~、だからどうなの?」と問いかけたくなるレベルだった。

ただ、一つだけ「ほぉお~~!」と感心した記述があった。それは、スペインが1628年に城を立てようとした際に、その近辺に暮らしていた先住民たち(アボリジニ)が、城を襲って焼き討ちにしたというくだりであった。

要するに、昔から台湾に住んでいた先住民たちが、余所者たちが勝手に城などを建てようとするのを見て、黙っていられず戦ったわけである。

恐らく当時の毛唐たちは鉄砲や大砲を所有していたため、勝敗は目に見えていただろうが、黙ってオメオメと傍観していなかった先住民たちのその心意気に、私は拍手喝さいで応じたかった。

城の横には、イギリスが領事館に利用した建物もあったが、もう私はこいつらの趣味に鼻持ちなら無くて、展示など観る気にもならず、サッサと後にして、淡水駅にバスで戻ったのだった。


part 1 完

台湾で観た、名作邦画【幼子われらに生まれ】

2018年03月03日 | 趣味の世界
そろそろレンタルショップに並ぶ頃だと思って、先週あたりから気にしていた。

今日、給油に行った帰りに立ち寄ってみたら、案の定並んでいたので、迷わず借りてきた。
1月に台湾に旅行した時、台北之家で観た「親愛的外人」原題は「幼子われらに生まれ」は、観終えてから暫らく席を立てなかったくらい、余韻が残るいい映画だった。

 世界の名作専門ミニシアター

濃いコーヒーを飲んでから、じっくり鑑賞し終えたが、やはり中身の濃い名作であった。娘一人がありながら離婚して、女児二人の子持ち女性と再婚したものの、子供が成長するにつけ、親に対して複雑な感情が芽生えてきて、家族がギクシャクしてくる。

 娘からは「外人」のパパ

母が再婚相手の子を身ごもると、益々長女の心の疎外感が強まってきて、母の再婚相手を困らせるのだが、浅野忠信が怒りを抑えながら連れ子の娘に接する父親を好演している。

 バツイチ同士の再婚

原作はすでにアマゾンで取り寄せてあるが、まだ読み終えていない。仕事が忙しくて、もう暫らくは「積ん読(つんどく)」状態が続くだろう。

ヒューマンドラマがお好きな方には、見逃せない秀作です。

八方塞がりの年だそうで・・・

2018年01月14日 | 趣味の世界
昨年末義母が他界したので、初詣は控えるべきなのかどうか考えたが、元来それほど信仰心は強い方ではなく、死んだらスイッチが切れてお終い。天国だの極楽だの黄泉の国だの、想像することすら出来ずにここまで生きてきたので、あと少しこの調子でいくつもりだ。

従って、先週の日曜日の早朝に、私は台北の龍山寺に参拝して、大日如来のお守りを買って帰ってきた。あれが戌年の初詣となったわけだ。

  パワースポット・台湾、龍山寺

雨がシトシト降っていたが、相変わらず早朝から地元の台北市民だけでなく、南朝鮮の観光客やら、日本の小ツアーの観光客で賑わっていた。

そして、一週間後の今日、今度は車で40分ほどのところにある神社に参拝してきた。正月も二週間経てば、初詣の人などいないだろうと思っていったのだが、とんでもない誤算だった。無料の駐車場は行列が出来ていて、10分ほど待たされた。

しかも、沿道には食べ物屋の出店が並んでいて、こういう雰囲気の沿道を歩くのは随分久しぶりのことだった。

  出店が並ぶ神社沿道

ひいたおみくじは中吉であったが、気になったのは、「今年の八方塞がりのひと」と大きく書かれた看板が鳥居の近くに立ててあって、その中に私も入っていたのを発見してしまったことだった。

こういうのは、知らないで過ごしてしまえばそれに越したことは無いのだが、知ってしまうと妙に気になるもの。帰りに少し大きめの厄払いのお守りでも買おうか、という気になる。

しかし、そうすると、まんまと神社側の「霊感商法」にまんまと乗せられたみたいなので、そこはサラッと無視して帰宅した。

神社では二礼、二拍手、一礼と参拝せよ、と表示がある。今日も見たのだが、よく二拍手の後、長いこと何かを祈っている方がいる。多分、願い事を延々と祈願しているのだろうが、私はいつもそれはしないことにしている。

これは単に私流のケジメに過ぎないのだが、お寺や墓前では両手を合わせて、心の中でいろいろと話しかける。自分の先祖たちに話しかけるのだ。

しかし、神社に参拝する時は、私は二拍手して、「来ましたよ!」と心の中で一言だけ言うに留めることにしている。いつもそれだけのことだ。

  厳粛な雰囲気がいい

高嶋易断を立ち読みしても、私の本年はあまり良い事が書かれていなかった。それはそれで、厳粛に受け止めて、一年を過ごそうと思うのだが、大抵三月頃になるとそんなことも忘れてしまって、春が過ぎ夏が来て、秋の気配を感ずる頃、残る暦はわずかになるものなのだ。

期待が大きいと、失望も大きくなる。

欲をかかずに、でしゃばらずに、腹を立てずにのんびりと一年を送る、というのが本年の私の計である。

ちょっと、台湾へ

2018年01月02日 | 趣味の世界
近くの富士山静岡空港から出ている台北便の割安チケットが買いにくくなってきたような気がしていたのだが、キャンセルでもでたのか、手頃な値段でのチケットがあったので、迷わず予約した。

同時に、ネットで検索した台北のホテルも二泊予約した。

4日からの相場としては、割安な価格が出ていたので、ホテルはいつも利用する一泊2000円ほどのカプセルホテルではなく、狭いながらもシングルルームのホテルを予約した。

実際、夜中に何度かトイレに起きる私には、カプセルタイプの宿はその出入りが結構辛かったので、恐らく今後はもう利用しないと思う。

さて、台湾も6度目となると、もう観るところは無いんじゃないかと思うかもしれないが、とんでもない。

今回は、バスを利用して台北近郊の街に出向いてみることにする。

そこで、二日後に迫った台湾の旅の「やることリスト」を作ってみた。

1. 野柳ジオパーク観光

海岸にある奇岩が見れるジオパークで、台北駅からバスで1時間弱でいける距離だ。

 野柳地質公園


2.烏来タイヤル族博物館

こちらは、台湾の部族のひとつ、タイヤル族の街、烏来(ウーライ)。台北からバスで1時間半で行ける。前から一度行ってみたかったところだ。

 少数部族の街

3.台北之家で名画鑑賞

年中、世界の名画を上映している台北之家は、元米国大使館だった建物で、カフェがあったり、小さな映画館があったりする憩いの場となっている。別の場所にも似たようなコンセプトの名画座があり、映画好きにはたまらない。

今回上映中の、リバイバル映画「時計じかけのオレンジ」と、邦画「幼な子われらに生まれ」を観る予定だ。

 「時計じかけのオレンジ」

 「幼な子われらに生まれ」

4.台北アイで京劇鑑賞

台北に行ったら必ず観るのが京劇である。今回もこれは同じこと。

 台北アイで京劇を

5.龍山寺で神頼み

帰国の日の朝、必ず詣でるのが龍山寺。なんとなくご利益があるような気がする。

 パワースポット?

6.DVDショップでショッピング。

前から捜しているのだが、なかなか見つからないDVD「湾生回家」というドキュメンタリー映画のDVDを見つけて買って来たい。台北で一番大きなDVDショップは、宿の近くにある。

時間と体力が許せば、どこかの夜市にも行きたい。

私は、グルメでもないので、マンゴーアイスだとか、ショー・ロン・ポーなどの料理にはあまり関心が無い。腹が減ったらその辺の食堂で、チャーハンを食べたりして空腹を満たすだけ。

今回もそれは変わらないたびになると思う。

笑いの効果、人体実験

2017年11月04日 | 趣味の世界
先月の初めからどうも体調がすぐれず、夜中にぐっすりと眠れない状態が続いた。

眠りが長続きしなかったのは、トイレに起きるからで、それは昼間それだけ水分を取るからだった。水分を取るのは、喉が乾くからでその乾き方が正常ではなかった。

心当たりはあったのだが、気になったのでしばらくぶりに血糖値を測定してみた。もう十数年前になるが、会社の健康診断で血糖値が高いという結果が出たのを機会に、市民病院の体験教育入院をしたとき購入した、テルモ社の血糖値測定器具を久々にひっぱりだした。

 血糖値測定器見本

写真の下側にある筒状のものが、血液を採るための器具。細い針が先端からちょっとだけ飛び出すので、アルコール消毒した指先に当てて、パチンと刺す。

上側が先端のセンサーから血液を少し吸って、7~8秒で血糖値を測定して表示する。

すると心配したとおり血糖値が200以上あった。

私はストレス解消に、ドカ食いするという悪い癖があり、食事だけでなく食後にも甘い物を結構食べていたのだった。

猛随分前に医者からは薬を飲むよう勧められていたのだが、自分で「糖質制限」のダイエットをして、同時に血糖値を半月ほど毎日測定し、それを医者に示して納得させて、これまで一度も血糖値を下げるような薬は服用したことはなかった。

「糖質制限」は炭水化物を取らない食事をすることで、糖分を制限し血糖値が上がらないようにするダイエット法だ。

昔は、そんなことをすれば能の栄養である糖質が不足してしまい体にはよくない、とどこの医者も看護婦も力説したものだが、人間の体は炭水化物がなくなると、内臓にこびりついた脂肪を餌に肝臓がケトン体という物質を合成し、これがもう一つのエネルギー源となる。

ご飯やパンを一切食べずに食生活を一変させると、私のすい臓から分泌されるインスリンの感受性が良くなってきて、みるみる血糖値は下がっていく。

毎日帰宅後の空腹時に血糖値を測定し、それをパソコンに入力していき、折れ線グラフにしていくと、その効果は一目瞭然である。

ただし、このダイエットは継続する強い意志を持ち続けなければならないことが、難点である。

酒は焼酎やジン、ウォッカなどの蒸留酒ならいくら飲んでも構わない。ただし、うっかりサンドイッチや砂糖をつかったタレつき焼き鳥などをたくさん食べると、正直に血糖値に反映されてしまう。

100~110くらいの正常値に戻ってすでに2週間くらい経つ。

朝は、ハムと目玉焼き、昼はゆで卵、プロセスチーズ、アーモンド、くるみなどと、パターン化して、夕食だけは、餃子、麻婆豆腐、野菜炒めなど好きな料理数種類を交互に作っている。

しかし、血糖値が安定してし始めてから、2~3度、糖質は一切採らなかったにも関わらず、血糖値が130~150くらいに上がった時があった。

いつもと同じものを食べたにも拘らず、なぜだろうか、と不思議に思っていた。

そうかと思うと、とある週末、血糖値が90~92と100を切ってしまう日があった。この二つの事象が私は気になっていて、食べた物などを思い出しながらいろいろ考えた結果導き出した仮説は、食事ではなく精神的なことだった。

血糖値が極端に下がった時は土曜日で、孫のなっちゃんが七五三の記念写真をもって家に来たのだった。例によって、トランプに誘われ、七並べ、神経衰弱、ババ抜きとやったのだが、すべて私の完敗に終わった。

なっちゃんは、得意になって大はしゃぎだったが、その顔は前歯が5本も抜けていて、私は可笑しくて可笑しくて笑い転げたのだった。

また、別の日。これは仕事があった日だが、通勤途中にi-pod に録音してあった綾小路きみまろの漫談を久しぶりに聞いて、ニタニタしながら勤め先の行き帰りを過ごした日だった。

きみまろの毒舌は、久しぶりに聞くともう最高に楽しくて、私は特に、中高年のオバサンたちがバス旅行に行くのは、トイレ探しの旅行でしかない。

高速道路のSAでトイレが混んでいても、だれかが「男子トイレに行けば空いてる」と言い出す・・という下りが大好きで、歩きながら声を出して笑ってしまう。


もしや、こういう楽しい笑いを伴う感情が、血糖値に影響しているのではと思い、もう一度、それでは血糖値が高かった時は・・・と思いをめぐらすと、その日はどちらも果たして嫌な事があったのだった。

どちらも、その日には帰宅途中にスーパーで買い物をした日だった。

私はレジに並んで待たされる事が大嫌いで、いつもなるべくカゴの商品が少ない人の次に並ぶように心がけている。その日は、カップめん一つだけ手に持った老人がいたので、その後ろについたのだった。

ところが、その老人はレジの店員と何か会話をした。するとその店員の女性は、別の店員を店内放送で呼び出した。しかし、なかなか手助けがやってこない。私は少しイライラし始めた。

するとどうだろう。そのレジの店員は、私に向かってペコンと頭を下げると、自分でそのカップめんを手にとって、売り場の方へいってしまったではないか。レジ打ちが持ち場をはなれてどうする!

私の怒りはもう爆発寸前であったが、そこに別のレジ打ちが現れて、何とか私の怒りは寸でのところで治まったのだった。

別の日、この日は帰りの道中でこんな事があった。

最近、無謀運転の事故のニュースが多いので、私は以前よりも意識して前の車と車間距離をとるようにしているのだが、利用する国道バイパスは、貨物トラックの利用が多く、彼らの運転はきちがいじみていて困る。

私が前の車と車間距離をとっていると、横からスッと割り込んでくる。あるいは制限速度より10キロ弱多目に走っていても、トラックが後ろにぴったり付いてきて、速くいけと煽ってくる。

これだけ事故があっても、貨物トラックの運転手たちのモラルはまったく改善されていない。私は、腸が煮えくり返りそうになったのだった。

以上の事象を踏まえて、私なりに導いた結論は、「怒りは血糖値を上げ、笑いは血糖値を下げる」であった。

そこで、今日の午後別の実験を敢行した。

まず、i-pod にお気に入りのお笑いを録音し、それを聴きながら約30分間散歩した。
お笑いとは、私が贔屓にしている「サンドウィッチマン」のコントや漫才だ。彼らのテンポの良さと、洗練されたネタ、ボケとツッコミの妙技は、他の追随を許さない。

伊達みきおの演ずるモノマネ。「哀川翔」ならぬ「哀川調」は絶品だった。

 サンドウィッチマン

さて、その結果はどうだったろう?

何と、血糖値は90であった。

これがその証拠写真である。この仮説は、まだまだ実験が必要なので、乞うご期待!!

 11 月 4 日 90


得した気分の講演会

2017年09月09日 | 趣味の世界
今日はかねてから応募してあったシンポジウムを聴きに隣町まで出かけてきた。

日本の未来とエネルギーについてのシンポジウムだったが、私のお目当ては作家・百田尚樹氏の講演であった。800人限定の無料ということで、予想通り場内は満席だった。



未来をテーマにしているにしては、老人がやたら目だっていて、ざっと見渡したところ、6:4で男性が多く、男性の平均年齢は70歳前後、女性は55歳前後というところだったと思う。

主催の、日本エネルギー会議とは、如何なる団体なのか不明だが、左翼系ではなさそうだった。

時間通りスタートした百田尚樹氏の講演は、まず聴衆の心をグッとひきつける「まくら」から始った。ネタは、北朝鮮のミサイルともう一つは、予想した通り、山尾しおりのスキャンダルであった。

「しかし、すごいですネェ・・山尾さん。・・・週4回ですよぉ!!」

会場からは笑い声がしたが、期待したほどではなかったようで、「どうも、最初からスベッてるみたいですね。」と照れ笑いをしていた百田氏であったが、話題が著書の「海賊と呼ばれた男」のことになると、本領を発揮してきた。

1時間の公演時間はあっという間に過ぎたが、ご本人は話し足りなかったようで、「もう5分だけ話させてください。トイレに行きたい方はどうぞ行ってきてください。」

思わぬアンコール付きの、名講演であった。

15分の休憩の後専門家4人によるシンポジウムが始ったが、最初のスピーカーが、静岡でしか見られなくなった、お笑いタレントの平畠ナントカという男で、第一声が「ぼく、エネルギーの事なんかまったくわかりませんので・・・」と言い出した。

じゃあ、何でこんな場所に来てるんだ?

私は、スッと立ち上がって会場から出て、JRの駅まで歩いて帰宅した。

百田氏の講演の感動に水を指されたくなかったからだ。

小津調と似ている「イメージの詩」

2017年08月27日 | 趣味の世界
私がまだ30代の頃だったと思うが、小津安二郎の映画が、日本の映画通ばかりでなく、海外での評価が非常に高いと、何かで読んで知った。

そこで、すぐにレンタルビデオを借りてきて観たのだが、やたらと俳優のドアップのシーンがあって、ストーリーも何の刺激も無く、多分最後まで観ずに、返却してしまったと思う。

それから、20年ほど経過しただろうか。時代はVHSからDVDに変っていて、レンタルショップもかなり様相が変った。

どういう切っ掛けだったか忘れたが、小津の映画をまた観たくなって借りてきて観たら、何となく心落ち着く感じがして、ありきたりの日常を描いているだけのようで、最後まで見飽きずに見通してしまい、観終えた感想は、「実に爽やか」だった。

私はそのとき以来、小津映画のファンになり、今では主だったDVDは手元に揃え、観たい時に取り出しては観て悦に入っている。

今月のお盆休みには、念願だった小津映画に出てくる鎌倉まで出かけてきたほどだ。

演歌は廃れたが、いい曲は何度聴いても飽きないし、自然にメロディーが浮かんでくるものだ。今後もそういう名曲は永遠に残るものなのだろう。私にとってのそれは、「悲しい酒」であり、「天城越え」などである。

こういう小津映画や心に残る演歌と同じように、私の好きな曲のひとつに、吉田拓郎のデビュー曲「イメージの詩」がある。

今でも私はi-pod に保存してあり、よく聴く曲である。メロディーも悪くは無いが、なんと言ってもこの曲の詩が歳を取るごとに、味わい深いと感じるようになってきた。

  デビュー曲

当時私は中学生だった。私より4~5歳上の若者たちがフォークソングに嵌っていくのを、私は意外と覚めた目で長めていたものだ。

ベルボトムのジーパンに、長髪姿で「結婚しようよ」なんて声を張り上げて歌う人達を、私は結構心ではあざ笑って見ていた気がする。

私が住む街の隣にあるリゾート施設「つま恋」で、時々思い出したようにコンサートを開いて、熱烈な男女のフォークソングファンを集めていたが、その時も同じように私は冷たく覚めた目で見ていた。

 つま恋の広場で


  中高年ファンたち


詩の題が「イメージの詩」というだけあって、当初は何となくいいたい事が分るようでいて、もうひとつよく理解できない、、という感じであった。

時代が過ぎて、自分も歳を取ってくるに従い、だんだん霧が晴れて行くように、詩の内容に対する共感度が増してきたのだった。

私が特に好きなのは、「長い長い坂を登って・・・」の節である。
最初は何を意味してるのかまったくチンプンカンプンだったが、今は「そうなんだよなあ・・よくあるよな、こういうこと・・」と共感するのだ。

フォークソングと一括りにすると、反戦ソングだとか、「神田川」や「赤ちょうちん」みたいな超軟派な歌と同列になるのだが、彼らのようにテレビという媒体をやたらと利用したがる一派とは吉田拓郎が一線を引いていたのも、私が彼に惹かれていた一因だった。

テレビなんか・・と少し小馬鹿にしたような姿勢にも、私は強烈に共感していたのかもしれない。

 「姫」はネェ・・

懐かしの演歌、ならぬ懐かしのフォーク、に群がるお年寄りたち・・・。いるんですね、たくさん。・・・まだ日本にはいるんですよ。



♪♪
これこそはと信じれるものが
この世にあるだろうか
信じるものがあったとしても
信じないそぶり

悲しい涙を流している人は
きれいなものでしょうネ
涙をこらえて笑っている人は
きれいなものでしょうネ

男はどうして女を求めて
さまよっているんだろう
女はどうして男を求めて
着飾っているんだろう

いいかげんな奴らと口をあわせて
おれは歩いていたい
いいかげんな奴らも口をあわせて
おれと歩くだろう

たたかい続ける人の心を
誰もがわかってるなら
たたかい続ける人の心は
あんなには 燃えないだろう

傷つけあうのがこわかった昔は
遠い過去のこと
人には人を傷つける力があったんだろう

吹きぬける風のような
おれの住む世界へ
一度はおいでョ
荒れ果てた大地にチッポケな花を一つ
咲かせておこう

おれもきっと君のいる太陽のあるところへ
行ってみるよ そしてきっと言うだろう
来てみて良かった 君がいるから

長い長い坂を登って
後ろを見てごらん 誰もいないだろう
長い長い坂をおりて
後を見てごらん
皆が上で 手を振るサ


きどったしぐさがしたかったアンタ
鏡を見てごらん
きどったアンタが映ってるじゃないか
アンタは立派な人サ

激しい激しい恋をしているおれは
いったい誰のもの
自分じゃ 言いたいのサ
君だけのおれだと 君だけのものだと

裏切りの恋の中で
おれは一人もがいている
はじめから だますつもりでいたのかい
僕の恋人よ


聖地めぐり。いざ、鎌倉へ!(おまけ)

2017年08月20日 | 趣味の世界
高校のバスケットボール部を扱ったアニメの「スラム・ダンク」が台湾で大人気を博したのが1990年代で、その頃テレビに釘付けになった世代が成長して、最近多くの台湾の若者がアニメの舞台だった湘南付近に、観光にくるのが話題になっていた。

中でも番組のオープニングに流れる江ノ電の踏み切りのシーンが人気スポットで、それは『鎌倉高校前駅」から100mほどの場所にある踏切である。

 スラムダンクOP

私も昨日帰路の途中、この駅に降りて、その人気の踏み切りに行ってきた。思ったとおり、踏み切り周辺には、十数人の若者たちがカメラを片手に電車が通過するのを待ち構えていた。大声で話す支那人観光客とは違い、台湾の人はみな小声だ。

 江ノ電踏切

「鎌倉航行前駅」は海岸のすぐ近くにあり、遠くには江ノ島が見える。江ノ電は単線だが、それにしても、この駅にはプラットホームが一つだけ。

片面しかない造りだ。構内には放送設備すら無いようで、駅員が歩きながら、「次に到着の電車は、藤沢方面行きの電車です。」などと乗客たちに伝えるのである。

 トイレは臭い

上り・下りの電車が到着するたびに、台湾の聖地めぐり観光客が降りてきて踏み切りに向かうので、一日当たりの観光客は少なく見ても100人以上になるだろう。

駅の端にあるトイレは、酷い悪臭がして、とても入る気にはなれなかった。あれは、湘南の、神奈川県の、いや日本の恥である。早急に改善すべき課題ではなかろうか?

 鎌倉高校前駅

台湾の観光客も、みなさんあのトイレには失望して帰国し、話のタネにするに違いない。何が「観光立国」「おもてなし」かと、憤りすら感じたのだった。

聖地めぐり。いざ、鎌倉へ!(後編)

2017年08月20日 | 趣味の世界
小津安二郎の『麦秋』のロケ地のひとつ、長谷の大仏を見てきた。8月16日の当ブログ【『麦秋』聖地めぐり】に貼り付けたいくつかの画像は、昭和26年頃の大仏の画像である。

 『麦秋』より

その後大仏は、昭和34年に2年半かけて、免震構造を取り入れるなどの、「昭和の大修理」を経て、さらに昨年3月に18日間かけて、その後の経過を調査するなどの、「健康診断」を受けているそうだ。

本来、木造の大仏殿の中にあったのだが、明応地震(1498年)の被害で木造の大仏殿はながされた。以来、【露座の大仏】と呼ばれるような現在の状況を保っている。

『麦秋』が撮影された当時と坐像の前が少し変っていたが、かつて与謝野晶子に「美男」と呼ばせた通り、大仏のお顔は昔と同じようにハンサムであった。



木造大仏殿の礎石は、今でも当時のまま置かれている。ベンチ代わりに観光客たちが腰を下ろして、休憩していた。




通路は非常に狭いが、大仏の胎内に入ることもできる。入場料は20円だった。内部の階段が狭くて急なため、足元には十分注意する必要がある。






外部(背中にある窓)から入るかすかな光だけで、内部はほとんど真っ暗だった。

境内にいた参拝者たちの、恐らく3割くらいは欧米の観光客であったと思う。残念ながら、烏の群れみたいに騒々しく大声で喋る隣国の観光客も何グループか見かけ、民度の低さを晒していたのは、残念であった。



大仏は、少し猫背の格好で、そんな参拝者たちを無言で見ているようだった。

聖地めぐり。いざ、鎌倉へ!(前編)

2017年08月19日 | 趣味の世界
心配していた天気が回復しそうだったので、今日は念願の鎌倉に行ってきた。

例の青春18きっぷを利用しての鈍行の旅である。

『やることリスト』は3つだけで極めてシンプル。

1.小津安二郎の『晩春』のロケ地、鶴岡八幡宮参拝
2.小津安二郎の『麦秋』のロケ地、長谷の大仏参拝
3.アニメ「スラムダンク」に出る踏切に聖地めぐりで来日する、台湾人観光客達を観る

東海道本線で、大船まで。横須賀線に乗り換えて、鎌倉下車。鶴岡八幡宮参拝。江ノ電で鎌倉から長谷まで。徒歩10分で鎌倉の大仏参拝。再び江ノ電で、鎌倉高校前駅まで行き、踏み切り見物。江ノ電で終点藤沢に行き、東海道線に乗り換えて帰宅。

『晩春』は私が生まれる前の昭和24年の映画で、小津の代表作『東京物語』、『麦秋』と並んで、紀子三部作と呼ばれている。この三作品に出る原節子は、すべて「紀子」という役名であることがそう呼ばれる理由である。

小津の映画を始めてみた時は、何とも間延びしたような退屈な映画で、私は途中で観るのを止めたほどだった。多分今から30年以前のことだったと思う。

再び観てみようと確かVHSを借りてきて観たのが、10年ちょっと前だったか。

確か『麦秋』だったと思うが、この時の感想は、どのカットもまるで絵画を観る様な美しさと、大した事件も起きない日常を描いた作品なのに、なぜか観終えた後に何かおいしいものを食べた後のような満足感を覚えたものだった。



笠智衆は妹の杉村春子と鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝する。娘、紀子(原節子)がお見合いをした結果が気になるのだ。紀子は結果を告げずにその日は東京に出かけていた。もっと兄さんは娘のことを気にかけないと、といいながら歩き出すと、財布を見つけた。




拾って中を観ると現金が・・・







「これは縁起がいい・・」と言って懐へひょいとしまう。「オイ、届けないのか?」とたまげる笠智衆。




「届けるわよ・・」と言いながら後ろを見て慌てる妹。スタスタと逃げるように歩き出す。



いったい何事かと笠も後ろを振り返ると・・・。



こりゃ、ヤバイ! おまわりさんだ。





チャップリンの無声映画に似たようなシーンがあったような気もするが、どことなくコミカルで忘れられない場面であった。

この場面が撮影されたロケ地を今日は訪れた。遠景がこれである。浴衣の娘さんが参拝していた。





そして杉村春子が財布を拾う場面の舞殿のアングルは、これである。




本宮への石段は上り応えがある。




石段途中から、舞殿を見る。




正直言うと、手すりのない石段を登るのはかなりきつかった!私の膝は確実に弱ってきている。

しかし、映画が撮影されたであろう70年前に思いを馳せると、膝の痛みも和らぎ次の目的地、長谷の高徳院に向かって歩き出しているのだった。

『麦秋』 聖地めぐり

2017年08月16日 | 趣味の世界
連日雨模様の盆休みとなると、DVDレンタルショップは盛況となる。

先日、立ち寄ってみると、新作DVDはほとんどが貸出し中だった。私は気に入った昔の名作を繰り返して観る性質(たち)なので、1作80円の旧作DVDばかり借りることになる。

例えば、『砂の器』とか、『グラン・トリノ』とか・・そんな感じでもう何度も借りているのだが、この間は旅行帰りのこともあって、ゆかりの地の映画『遠雷』を借りたわけだ。

本当に気に入った作品は、自分の手元に置きたくなるもので、小津安二郎の作品は大抵揃っている。多くが鎌倉を舞台にしていて、私は前から一度鎌倉を訪れたいと思っていたのだが、機会を逸してきた。

なんだか、鎌倉というと、ミーハーな若い娘が行くところのようで、こっ恥ずかしい感じがするのも理由の一つであったが、この際青春18きっぷを使って、日帰りの旅をするのも悪くはないだろう。

小津の映画で鎌倉と言えば、まず思い浮かべるのが、『麦秋』である。

  落ち着いた名作だ

この映画が公開されたのは、私の生まれる4年前のことで、自分が生まれたあたりの日本はこんな感じだったのかと思いながら観ると、実に興味深いのである。しかも、そのストーリーも、特別なものではなく、極めてありふれた庶民の日常を描いている。

平凡すぎるくらいの内容だが、監督の眺める和風の極みが、観る者の心を和ませてくれるのだ。

  長谷の大仏

定番の「紀子」を演ずる原節子の清々しさと、杉村春子、笠智衆、淡島千景、三宅邦子、高堂國典らの、まるで日本庭園の岩についた苔のような渋い演技が、この映画にコクと旨みを加えて観るものを飽きさせない。

『麦秋』には、孫がくれるキャラメルを紙ごと口に放り込んでしまう年寄りから、その息子夫婦、そのまた息子の家族、嫁入り前の長女・紀子、ヤンチャな弟たちまで、世代の違う人間たちの日常が、描かれているだけだ。

目の前に集まってくる登場人物たちを上から見つめているであろう大仏のカットは、印象的だ。

 ボールで遊ぶ勇ちゃん


 知り合いのたみと孫娘

ちょっと、ボケ気味のおじいちゃん役の高堂國典は『七人の侍』では長老役を演じていた渋い名優である。この映画でも実にいい味を出している。

  紀子とお爺ちゃん

調べてみたら、家から鈍行でも3時間半あれば、江ノ電・長谷駅に着く。大仏を見るだけなら充分日帰り旅行はできる。

金曜日か土曜日。天気がいい方を選んで出かけてこようと思う。

時間に余裕があったら、近くの「鶴岡八幡宮」にも足をのばそう。同じ小津の映画『晩春』の中で、杉村春子が境内でがま口を拾い、縁起がいいと言って、懐に入れたところに駐在さんが通りかかるという、少しコミカルなシーンがあったっけ・・。

あの財布、結局交番に届けたのだろうか・・・? 映画では分らなかったが。

トマトマンと石田えり

2017年08月14日 | 趣味の世界
先週末に青春18キップ+グリーン券の長旅で目指した先は、私の母校のある北関東の街だった。そこは、関東圏に含まれるのだが、お国言葉は我々には東北エリアに入れたくなるほど訛りの強い、独特な抑揚がある。

昔から寿司に入れる干瓢の産地であるが、最近では「餃子の街」だとか、「ジャズの街」、「カクテルの街」などと、様々な肩書きをつけていた。

母校の工学部は、雷研究でもよく知られているのだが、それはその街が雷の多発地域であるため研究するのには持って来いの土地柄だったからだ。

また最近では地震も多くて、学生の頃私が地元の人から聞いた、『野州名物は、地震・雷・ブス・干瓢』という言葉もまんざら嘘ではないと納得できるようだ。いや、ブスに関しては、仙台の大学に進んだ人にいわせると、「宮城は多分日本一だろう・・」と反論する。

下野の女性の為に、これ以上話題にするのは控えたい。

昨日、DVDレンタルショップにふらりと寄ったら、懐かしい映画「遠雷」のDVDが目に留まったので、借りてきて先ほど観終えたところだ。

  トマトマンを永島敏行が好演!

立松和平原作の小説を、根岸吉太郎監督がメガホンを取り、私の好きな永島敏行が好演している恐らく私の好きな邦画のベスト5に入る1本である。

この話の舞台こそ、私の母校のある「餃子の街」で、そこでトマトのハウス栽培を営む農家の次男坊の周りで起きる、様々な社会現象を織り交ぜた、2時間15分の長編青春ドラマである。

脇を、藤田弓子、ケーシー高峰、森本レオ、原 泉、蟹江敬三らが固めて渋い演技を繰り広げ、中でも主人公の満男(永島)と結婚するあや子役の石田エリの超爽やかな演技と見事な姿態、満男の幼馴染の宏次役のジョニー大倉の朴訥な演技は秀逸である。

 女性をめぐって・・・

映画には、私がほんの二日前に降り立ったJRの駅前もシーンもあり、現在との変り様がよく分った。

映画では、なるべく方言を忠実に反映したかったのだろうが、残念ながらさほど忠実ではない。しかし、俳優たちがあの土地の言葉のアクセントを覚えるには、それは少し荷が重過ぎるだろう。

話は、田舎の嫁入りの最中にちょっとした悲劇が重なって終わるのだが、途中ザリガニ釣りやホタル狩りなど、郷愁をそそるシーンもあって、心をなごませてくれる。

また、10年位して行く元気があったら、母校を再訪してみようかと考えている。

傾城阿波の鳴門、おつるの気丈さと意外な結末。

2017年07月02日 | 趣味の世界
阿波の十郎兵衛屋敷で観た『傾城阿波の鳴門』。巡礼歌の段の中の一場面が私はどうも気がかりであったので、資料館にいたボランティア・ガイドだという高齢の方に、話してみた。

おつるが、お弓に「なんぼ一人旅でもたんと銭さえあれば、宿に泊めてもらえる。わずかでもこの金を旅の路銀にして、国へお帰り・・」と紙に包まれた小銭を渡された。

「あーいー、うれしうござんすけど、金は小判というものを、たんと持っております。」といって立ち去る場面があった。

 別れの場面

「あのとき、おつるは本当に小判をたんと持っていたんでしょうかね?私は、あれは娘ながらおつるの、そこまでの施しは受けられないという、気丈な奥ゆかしさから出た方便ではなかったのかと思うんですよ。そう思って私はあの場面で、グッと感動したんです。」

そういうと、ガイドの老人は、あっさりと、『いや、おつるは小判を持っていたでしょ。』と言う。続けて、『巡礼って、あなた知ってます?みんな施しを受けるんですよ。』

私が、子供ながらもおつるの示した気丈さ、凛とした奥ゆかしさに心打たれたというのに、目の前に入るジジイは、『巡礼は施しを受けるものだ。』とぬかしたので、私の右脳の奥の方の琴線がプンッと音を立てて切れたような気がした。

私は、何度かそのジジイに、おつるの振る舞いに、子供ながらも、日本的な気高い、凛々しい、品位を感じてあの場面が最も感動した、と説明しようとしたのだが、彼は「ふーん」と言いながら納得できないといった表情をして、首を傾げて言った。

『あなたは知らないだろけど、巡礼する人は、みーんな物やお金で施しを受けるものなんですよ。』

私は、もはやこのジイさんと話をするだけ無駄だと思い、こう言ってその場を去った。

「そんなことは知ってますよ。おつるだって、最初に玄関でお弓がお盆で持ってきたお米をもらっていたじゃないですか。巡礼はみんな施しを受けるものだって言うけど、じゃあ巡礼者は乞食ですか?物貰いなんですか?」


翌日の朝の上演も私は観ようと思った。

上演は11時からで、前日とは、人形遣いも太夫も三味線弾きも変わるので、また違った味わいが楽しめると聞いていたからだった。

1時間ほど早く着いたので、すぐ近くにある、「阿波木偶人形会館」に向かった。ここは人形作りの職人さんが、その作り方、からくりの仕掛けなどを、実物を見せながら説明してくれる、貴重な施設である。

15分くらいの説明の後、ワイドスクリーンで資料映像を見せてくれる。

その後半に、『巡礼歌の段』に続く、『十郎兵衛住家の段』のダイジェスト版が流れた。つまり、お弓の家から、おつるが立ち去った後、いたたまれぬお弓が家を飛び出して、おつるの後を追っていった場面に続く場面である。

舞台の設定は、相変わらずお弓の家である。

銀十郎と名前を変えてお弓と暮らす十郎兵衛が、なぜか巡礼姿のおつるを連れて家に帰ってくるところから話は始まる。

乞食どもに襲われそうになっていた娘を助けようとして、家に連れ帰ったのだが、お弓は留守である。

「先ほどは、乞食どもが金を盗ろうとしていたようだが、お前、お金を持っているのかい。」

「アーイー、余所の小母様にもろうて、持っております。」

「なに、それはあぶない事じゃ、あぶない事じゃ。その金はどれほどある。見せてごらん。」

「あーいー、これほどざんす。」おつるは、もらった金を差し出した。

「こりゃ、小銭が五拾文ばかり・・・。他には無いのかえ?」

「いえ、まだ小判というものがたんとござんす。」

「何、小判がたんとある?それはよいものを持っておるの。これ、このあたりは用心が悪いによって、子供がもっているのは人に取られる。わしが預かってやろう。ここへ出しや。」

「いえいえ、この財布の中には、大事なものが包んである程に、人に見せるなと婆さまが言わしゃんしたによって、誰にもやる事なりません。」

銀次郎こと十郎兵衛は目を怒らし、「エエ、そのようなに隠すと為にならぬぞ。」

おつるは、「それでも、大事な金じゃゆえ。」と拒むと・・。

「大事な金じゃによって持っていると為にならぬ。片意地言わずと預けておきや。」

「エエ、こんなところに入るのは嫌や。」と逃げようとする。

その首筋を掴むと、「あれ、怖い怖い・・」

「エエ、やかましい、やかましい。近所へ聞こえる。声が高い。」とおつるの口をふさぎ、「怖がることはない。わしにも、ちと金の要る事があるによっての、どれ程あるか知らぬども、二三日預けてたもや。」

そう言って両手をはなせば、がっくりとそこへそのまま倒れる娘。「こりゃ、どうした。」と声掛けようにも息も通わぬ即死の有様。

その時、外に女房のお弓の足音が。慌てて布団で娘の死骸を隠したのだが・・。

「オオ、こちの人戻っていたか。お前の留守の間に国に残した娘のおつるが不思議とここへ来たわいのう。」

 お弓の家

「ヤ、何、娘がきた。そりゃまあなにかい、母者人と一緒にかい。」

「イエイエ、おつるひとりでござんす。不思議とここへきたわいのう。」

しかし、夫婦は共にお尋ね者となっているので親子だとは明かせず、泣く泣く返したのだ、と伝えるお弓に、「よくも俺に知らせずに追い返せたものだ。お前は鬼のようだ。」と言って、

その娘の歳格好を尋ねると、まさしくそれは布団の中の死骸となった娘であった。

夫が借金を返す金欲しさに殺してしまったことを知り、夫婦で悲しんでいるところに追手がきた。

二人は、おつるの死骸に火を放ち、泣く泣くその場を逃げるのだった。

その後、おつるの死骸の懐にあった小判を包む手紙から、主君の名刀「国次」を盗んだのは、小野田郡兵衛というお家乗っ取りを企んだ悪者である事が分り、事件は一件落着、十郎兵衛は阿波藩への帰参が叶うことになったのだった。

結末まで観ると、おつるは確かに婆さまから小判を預かっており、しかも包み紙が盗まれた名刀の犯人のことまで記された手紙であったというオチで、おつるの奥ゆかしい気丈ぶり云々は、どうでも良くなった感じではある。

しかし、あの場面では、率直に娘の気高さに感動させられた私であって、それは日本人が共通に持つ精神からくる振る舞いであると思っていることに変わりはないのである。

おつるに見る、日本的奥ゆかしさ

2017年07月02日 | 趣味の世界
徳島市の「阿波十郎兵衛屋敷」では、人形浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』が毎日、午前と午後の二回上演されていて、410円の入場料金で、約30分間観ることができる。

『傾城阿波の鳴門』は、作家・近松半二・八民平七・吉田兵蔵・竹田文吾・竹本三郎兵衛ら5人による合作の、徳島藩のお家騒動を描いた時代物の浄瑠璃で、初演は1768年であった。

全部で10段からなる長編だが、最も上演されるのは8段の「巡礼歌の段」である。徳島市の「阿波十郎兵衛屋敷」では、土日には、義太夫節を唸る太夫と太棹の三味線を弾く三味線弾き、が舞台の右橋で生で演じてくれるので、本物を間近で味わえる隠れスポットである。

この話の題材のひとつになった「徳島藩のお家騒動」とは、実在した徳島藩士、板東十郎兵衛に関わる事件のことである。

江戸時代、徳島藩は米の生産は盛んではなく、他藩米に頼っていた。その監視役が板東十郎兵衛であったのだが、その時問題となった、他国米と阿波の1俵の換算の差からくる船頭たちの不正を認めなかった十郎兵衛。

この問題が、他国米輸入を認めない幕府に知られないよう、元禄11年(1698年)徳島藩は罪状を明らかにすることなく、十郎兵衛を処刑したのだった。

浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』は、この話をベースにその他別個の逸話を混ぜて出来上がっているのだが、徳島市の「阿波十郎兵衛屋敷」は、実在した板東十郎兵衛の屋敷跡にあり、『傾城阿波の鳴門』ゆかりの場所になるわけだ。

以前のブログでも書いたように、傾城(けいせい)とは、遊女とか美女という意味である。

物語は、阿波藩の藩主・玉木家の若殿が傾城に夢中になる。その隙に、小野田郡米兵衛という悪玉がお家乗っ取りを企てるというもの。

この騒動の中で、家老・桜井主膳が預かっていた玉木家のお宝「国次の刀」が何者かに盗まれる。そこで、家老・桜井は元家臣の十郎兵衛に刀を探すように頼む。

十郎兵衛と妻のお弓は、幼子のおつるを祖母に預け、大阪に出て名を銀十郎と名乗って、盗賊の仲間に入り、質屋や蔵に忍び込み、刀を探すのだった。

八段の『巡礼歌の段(じゅんれい、うたのだん)』は、お弓が十郎兵衛の家で内職の針仕事をしているところから始る。

 お弓の内職

そこに手紙が届く。

「追手が迫っているから、早く逃げろ』という手紙だった。

すると、その時かわいい巡礼姿の娘が玄関に訪れてきた。娘の国訛りが気になって尋ねると、阿波の国で、父の名は十郎兵衛、母はお弓という。お弓は、驚いてそのおつるという娘は、間違いなく自分の娘だと確信するのだった。

おつるは、小さい時母がいなくて寂しい思いをしたことや、巡礼中の辛いこと、宿に泊めてもらえず、山の中や他人の家の庭先に寝ていてぶたれたことなど、怖かったことを涙ながらに訴えた。

しかし、お弓は、ここで私が母であると明かすと、おつるにも追手の手が廻り、一緒に捕らえられるのではと考え、「ここは、国へ帰って親の帰りを待つのが良い」と諭し、心を鬼にして返すことにするのだった。

お弓は、引き出しの奥から小銭をかき集め、懐紙に丸めて、「これを路銀にすれば良い。金さえ出せば宿に泊めてもらえる。」と言っておつるに渡そうとする。

  路銀に・・

しかし、おつるは、「ありがとうござりまする。しかし、お金は小判というものを、たんと持っております。もうおいとまいたします。」



 両手をついて


丁寧に辞退するおつるに、それでもお弓は無理やり持たせ、おつるを抱き寄せて泣きながら別れを惜しむのだった。

お鶴は心惹かれるのだが、帰ることにして次第に遠ざかっていった。

泣き崩れるお弓は、やはり諦め切れず、お鶴の後を追って家を飛び出すのだった。

ここで、八段が終わるのだが、私はこの時もう胸に込み上げてくるものがあって、嗚咽を抑えるのに必死であった。

幼い娘が路銀を持っていけという施しを丁重にお断りする場面には、日本的なつつましさ、奥ゆかしさがよく表れていて、感動の極みであった。

おつるが、「お金は、小判というものを持っておりますから・・」と断るところは、実は、善意を丁重にお断りする口実であったのではないだろうか。

この私の疑問が数分後に、資料館にいたボランティアガイドのお爺さんとの、口論に発展したのだった。








「傾城阿波の鳴門」のモデル

2017年06月26日 | 趣味の世界
徳島駅の近くの農村風景は、私の故郷とは明らかに違って見えた。

特産品の蓮根を取る大きな蓮の葉が生い茂った蓮根畑や、鳴門金時で知られるサツマイモ畑があちこちに存在していた。どちらかと言うと、徳島は米作りには向いていない土地柄なので、蓮根やサツマイモ、それに藍染めの藍の産地として知られるようになっていった。

そして、この藍という植物は多肥作物で、超えた土地でなければならず、徳島県を横断する吉野川が氾濫して、上流の肥えた土を運んでくれるお陰で、良質な藍の生産を担ってきたということらしい。

そのため、近くを流れる吉野川は昔から意識的に堅固な堤防とはしなかったようで、それだけ百姓たちも、自らの生活を犠牲にしてまで良質の藍生産を追及してきたとのことだった。

今では、吉野川の氾濫を防ぐ堤防が造られているが、当時は藍と塩くらいしかめぼしい産業は無く、実在の板東十郎兵衛も苗字帯刀を許されて、藩主から米を仕入れる担当を仰せ付かっていたようだ。

しかし、当時は米は貨幣と同じ。幕府は米や兵器を他国から買い集めることを硬く禁じていた。

この阿波藩の米の密輸が幕府にばれてしまったため、阿波藩はその罪をすべて担当の板東十郎兵衛に押し付け、挙句の果て彼ら一族を皆処刑してしまい、その後、妻のお弓や娘のお鶴も後を追うように病死してしまった。

 妻、お弓

この実際に起きた話を題材にして浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」にしたのが、浄瑠璃作家の近松半二とその仲間たちだった。

『傾城』(けいせい)とは、遊女のことで、藩主、玉木の若殿が遊女に夢中になっているのをいいことに、藩を乗っ取ろうと企てたが小野田郡兵衛だった。

この騒ぎの最中、老桜井主膳のあずかる玉木家の重宝、国次の刀が何者かに盗まれた。桜井は、十郎兵衛に盗まれた刀を探すよう指示した。

十郎兵衛は、盗賊銀十郎とかえて、大阪に夫婦で住んでいた。

妻お弓が針仕事をしているところに、巡礼姿の娘、おつるがやってくるところから舞台は始るのだった。

 巡礼姿のおつる

小さい頃、理由は分らぬが、お婆様に私を預けて、父母はどこかへ行ってしまった。今はこうして西国巡礼をしながら父母を捜し歩いているのだという。

名前を尋ねると、「あーいー。父の名は十郎兵衛、母はお弓と申しますー。」と言う。お弓は、この娘は間違いなく自分の娘「おつる」だと確信する。

しかし、夫が追われる身であるため、娘にも危害が及ぶため、お弓は路銀を紙に包んで持たせ、泣く泣く追い返すことにしたのだった。

この場面は、一番ジーンと来るところで、私も危うく嗚咽をこぼす寸前であった。

『巡礼歌の段』はここまでだが、続く『十郎兵衛住家の段』は意外な展開になるのだった。