孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

酉年に因んで、【鳥居強右衛門】の話

2017年01月04日 | 趣味の世界
昨年11月、思い立って越中五箇山の合掌造り集落の「塩硝の館」に車を飛ばした事があった。

種子島に鉄砲が伝わったのはいいが、火薬に使う硝石は日本で産出しない。ところが、白川郷などの合掌造りの家の床下で、塩硝を製造していたと知ったからであった。そして、それに関する資料館が五箇山の菅沼集落にあると分かって、すぐすっ飛んだのだった。

帰宅してから、改めてそれに関わる様々な疑問が生じてきて、「織田信長」とか「一向宗」とか「発酵」、「富山の薬売り」などの本を読む羽目になっているのだが(積ん読状態もあり)、その中で欠かせないのが、武田騎馬軍団を負かした織田の鉄砲隊の戦い「長篠の戦い」のあらましであった。

長篠城址といえば、愛知県新城市である。高速道路を飛ばせばひとっ飛び。さっそく出掛けてみた。どうも、思い立つとすぐに行動するタイプのようで、これが自分の長所であり短所でもあると半世紀近く思い悩んできた。

閑話休題。その時、「新城市設楽原歴史資料館」と「長篠城址史跡保存館」を訪れたのだがこのブログでは、今年の干支、「酉」に因んで、長篠の戦には欠かせない逸話である「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」を題材にしたいと思う。

  長篠城址史跡保存館


1575年は、種子島に鉄砲が伝わってから、わずか32年後の戦国時代真っ盛りである。父・武田信玄亡き後、武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が三河の国・長篠城をめぐって戦った合戦である。

信長軍30,000と家康軍8,000に対する武田騎馬軍団は15,000。

そのとき、武田軍の大軍に対して、長篠城は守備隊わずか500。徳川家康に託された奥平貞昌は長篠城の地の利もあって、武田軍の包囲に対してかろうじて持ちこたえていた。

しかし、城を包囲する武田軍から放たれた火矢が兵糧庫を消失させ、食糧を失った流しの城は一転落城の危機をむかえる事になった。

貞昌は、家康の居る岡崎城に使者を送り、援軍を要請することにした。しかし、城のぐるりを武田軍に包囲された状態で、使者を送ることは不可能かと思われたその時、自らその役目を買ってでたのが、鳥居強右衛門であった。

夜陰に乗じて城の下水口を潜って出発し、見事武田軍の包囲網を突破して、翌朝無事突破の連絡ののろしを上げるために、雁峰山に到達した。

同日の午後、岡崎城に着いて援軍を要請したところ、すでに家康が援軍を要請しておいた織田軍が3万の兵を率いて岡崎城に到着していたのだった。さらに、織田・徳川連合軍合わせて3万8千は、翌朝出発する手はずになっていた。

この朗報を知らせるべく強右衛門は即刻長篠城に引き返した。

  長篠城本丸跡

同じ雁峰山で合図ののろしを上げた後入城しようとしたところ、のろしが上がるたびに城から歓声が上がるのを変だと感じた武田の兵が警戒を強めていた為、見つかって捉えられてしまった。

取調べで、織田・徳川軍が援護に向かっていることを知った武田軍は、強右衛門を使って偽情報を城内に告げさせ、一刻も早く落城させる作戦をとった。

武田勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令したのだった。

勝頼の命令を承諾した強右衛門は、翌朝、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられ、城の前に磔りつけ柱が立てられ、そこに裸で縛りつけられた。

  強右衛門、磔の絵

しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「援軍はあと二、三日で来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。

強右衛門はその場で武田軍に槍で突き殺されたが、城兵の士気は大いに奮いたち、長篠で織田徳川連合軍が武田軍を撃破するまで、城を守り通すことができた。


援軍の総大将・織田信長も、自ら犠牲となった強右衛門の壮絶な最期を知って深く感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

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保存館の資料を見ていると、強右衛門のコーナーに【アラモ】の字が見えた。

何だろうと思って資料を読んでみると、長篠の戦いとアラモの戦いには共に類似点があるのだという。

愛知県岡崎市出身の志賀重昂(しげたか)という当時早大教授だった方が、1914年にテキサス州サンアントニオを訪れた際に、長篠とアラモの二人の兵士の心意気に感激して、漢詩を作り、アラモの砦に石碑を建てたのだそうだ。

   岡崎出身、志賀重昂   

「二人の兵士」というのは、鳥居強右衛門とジェームズ・ボーナムだった。

アラモの戦いというのは、Remember the ALAMO! の話を数日前のブログで書いた。メキシコからの分離独立を目論んで、当時メキシコ領だったテキサスのサンアントニオにあったアラモ砦に立てこもった200名ほどの入植白人たちが、戦いを起こし、数千名のメキシコ国軍に殲滅された戦いであった。

その戦いの最中、援軍を要請するために砦を抜け出したのが、ジェームズ・ボーナムであった。ボーナムは援軍を要請して砦に戻ったが、援軍は来ずテキサス軍は全滅したのだった。

しかも、さほど遠くないところには騎兵隊の軍隊が居たにもかかわらず、アラモ砦は見殺しにされたように全滅し、この結果を契機にして Remember the ALAMO! の合言葉で一気に世論をテキサス奪取の参戦機運に導き、メキシコから分捕ったのだった。

長篠城址の一角には、これが縁でサンアントニオ市から贈られたと言う「カシの木」が植えられていた。

  

新城市とサンアントニオ市との交流に水を指すつもりは毛頭ないが、双方の戦いの意味するところ、さらに援軍要請に命をかけた日米の兵士の最期のあり方と、そのときの援軍の活躍の違いなど、類似性が無いわけではない。だがしかし、双方を同列に見るわけにはいかないのではないか。

新城市には申し訳ないが、そんなことを感じたのだった。


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