【大森が哲学者として偉かったのは――変な言い方だが――本当に驚いていたからだ。眼球も視神経も大脳も物質にすぎない。なのに「見える」とは驚くべきことではないか? 大脳の中に「意志」など発見できない。だが、私が腕を上げることができるとは何とグロテスクなことか?】
上の文章は哲学者で有名な中島義道先生の著書『哲学者とは何か』からの引用である。「大森」というのは中島先生の師である大森荘蔵先生のことだろう。
「見える」ということは本当に不思議なことである。そのことに驚くのは良いとして、「眼球も視神経も大脳も物質にすぎない。なのに『見える』」から驚く、という言い方は、哲学者の言葉としては少しおかしいような気がする。
まず「見える」ということが先にあるのであって、眼球も視神経も大脳という物質もそこから推論されたものに過ぎない。「視神経があるから見える」というのはあくまで虚構に過ぎない。『見える』から視神経が働いているという推論を、私たちはしているのである。
『見える』ということは単純にそれだけで驚くべきことなのだと思う。仏教ではそれを「妙」という。ウィトゲンシュタインの「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」という言葉も同じ主旨だと思う。
西田幾多郎の「意識現象が唯一の実在である。」という言葉も同じ趣旨であると私は考えています。
物があって光があって視神経が働いているから物が見える、と考えがちですが、実はそうではなく『見える』ということが先ずあるのであって、「物があって光が‥‥」というのは後付けの理屈であります。
禅者はまず素朴にあるがまま「見る」ということが肝要であろうかと思います。
今回の記事に関しては(禅とは関係なく)同意します。
おそらくですが、永井氏と大森氏は、
(1)経験そのものが現れているということへの驚き
(2)因果関係が成立していることへの驚き
とを混同しているように思えます。
(文章のみをそのまま見れば純粋に(2)への驚きのように受け取ることもできますが)
(2)については御坊哲さんの言われているように、(因果的)推論が入り込んでいると思います。
ウィトゲンシュタインが、「視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない」と書いていたのを、昨年知りました。(推論されない、というのは言い過ぎだと思いますが)
よくよく考えてみれば、大森先生は「立ち現れ一元論」の提唱者であり、「眼球も視神経も大脳も物質にすぎない。なのに『見える』とは驚くべきことではないか?」という言葉も、物質現象から実存的な経験を説明をすることはできない、ということの強調であるような気がします。「物と心」というエッセー集を読むと、とっくに二元論的な物の見方は克服されているようで、この記事については大変失礼な書きようをしてしまったと反省しています。