禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人の命を畏(おそ)れよ

2021-05-22 05:27:26 | 政治・社会
 JOC理事の山口香さんは立派な見識を持った方であると思い、以前からこういう人に日本の指導者になってもらいたいと願っている。その山口さんの言うところによれば、日本はもうオリンピックをやるしかないらしい。開催可否の判断をしないまま、「もう時機を逸した。やめることすらできない状況に追い込まれている」 というのだ。さらに彼女はこうも言う。

「国民の多くが疑義を感じているのに、国際オリンピック委員会も日本政府も大会組織委も声を聞く気がない。平和構築の基本は対話であり、それを拒否する五輪に意義はない」 
 
 そもそも、国民から集めた税金を不明朗な賄賂に使い、福島原発は「under control である」という嘘をついてまで、自国開催にこだわるようなオリンピックには、もともと五輪本来の意義などあろうはずはない。そこにあるのはナショナリズムを高揚するお祭り騒ぎである。気分を盛り上げたところで衆議院の解散、そして選挙に持ち込めば圧勝というような計算があった、と考えるのはうがちすぎだろうか。

 まあしかし、オリンピックをこのまま実施したとしても、なんとか「それなりに」やりおおせるのではないか、という気がする。高齢者へのワクチン接種が順調であれば、コロナによる死亡は減少していくだろうし、高温多湿な日本の夏はウィルス抑制には有利なはずだ。昨年夏に実施したGotoトラベルの代わりにオリンピックを実施するのだと考えれば、なんとかやり過ごせるのではないかという気がする。それに日本選手が活躍すれば、みんな盛り上がって憂さも晴れるだろうし‥‥。

 しかし、私はそれでよしとしたくないのである。大阪や東京ではおびただしい数の自宅療養者がいる。その中には入院加療が必要であるにもかかわらず、病床の空きがないために自宅に留まることを余儀なくされている方も少なからずいる。当然、そのまま病状が悪化して亡くなられる方もいる。つまり、手を尽くせば助かるはずの人が、手当されずに死んでいく、そういう事態がこの日本で起こっている。医療資源は限られている、現場では命の選別を神ならぬ人間が行うという過酷な選択が課せられている。

 ある政府要人は「欧米諸国に比べれば、日本のコロナ禍はそよ風さざ波のようなもの」と言ってのけた。数的比較をすれば、その通りかもしれない。政治家にはその種の割きりがある程度必要なのだろう。しかし、その言葉には人の死に対する畏怖の念が決定的に欠けている。「助かる命を見殺しにしているかもしれない」ということへの鈍感さを感じる。そう、入院加療を訴えているにもかかわらず、病床不足でそれに応えられない。そしてその人は死んでいく。そういう人を横目で見ながら、オリンピックというお祭りの準備は着々と進行させる。その冷淡さが気になる。政治家には、コロナ化を少しでも食い止めるために、あらゆる手を尽くしたのか? とあらためて問いたい。
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言語と思考の関係

2021-05-09 09:13:17 | 哲学
 あるSNSにおいて、「言語は思考の最小単位ですか?」と問いかけた人がいる。なかなか難しい問題だと思う。一般に、思考は言語によってなされるもの、と考えられているからそのような問いが出てくるのであろう。少なくとも、思考は言語によってしか表現できない、したがって言語以上の思考が表ざたになることは決してない。ヴィトゲンシュタインは彼の生前における唯一の著作「論理哲学論考」の序文で次のように述べている。

≪‥‥ およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない。
 かくして、本書は思考に限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してというべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。 ‥‥≫
 
 私たちは自分の思考の限界について考えることは出来ない。思考可能なことしか考えることができないからである。「思考に対してではなく、思考されたことの表現に対して」限界を引くというのは、例えば、円い三角というものについて考えてみる。私たちは「円い三角」という言葉を発することはできる、しかし、それがどういうものであるかを思い浮かべることは出来ない。つまり、「円い三角」という言葉を通じて、われわれの思考が及ばない領域があることを知ることができる。「円い三角」に限らず、「全知全能の神」とか「永遠の魂」であるとか「存在そのもの」というような、形而上の概念は無意味で「語りえない」ものであると、ヴィトゲンシュタインは言うのである。

 以上のような事情から鑑みれば、言語の方が思考を上回っているというような印象を受ける。少なくとも言語以上の思考を表現する手段がない以上、「思考が言語以上である」という表現は語りえない、つまりそれは無意味な表現であるということになってしまう。

 しかし単純な私は、人間が言語以上のことを考えることができないのであれば、言語は永久に固定されたままで、新しい概念など生まれようがないのではないか、と考えてしまうのである。私はもう10年以上もブログを書き続けているが、未だに思うように記事が書けたためしがない。言語に尽くせぬすごいことを考えていると言いたいわけではないが、思考にはいろいろな情動や具体的状況が含まれているにもかかわらず、言語は抽象的過ぎて、一旦言語化されると思考の方向性が限定されてしまって、本来言いたかったことからはかなりずれてしまう(ような気がしている)のである。そんなわけで、私は個人的には、言語は思考以上ではないと考えている。 

 ヴィトゲンシュタイン自身、「語りえぬことには沈黙すべし」と言いながら、「論理哲学論考」において、実は語りえる領域から逸脱しているのではないかと思われる部分がある。そして、その出版に当たって、ある編集者に対して次のように伝えたことが知られている。
≪私の仕事は二つの部分から成っている。一つはここに提示したこと、そしてもう一つは、ここに書かなかったことの全てだ。そして、重要なのはこの第二の部分である。≫
 第ニの部分とはもちろん「語りえぬこと」のことである。彼は形而上学を語りえぬものとしたが、決して否定したわけではなく、まさにそれこそが重要であるということを指し示したかったというのである。

「竹の秋」
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