禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

関係の絶対性

2018-02-22 12:09:25 | 雑感

ある人のブログで永田洋子の「十六の墓標」の書評を読んでいたら、「関係の絶対性」という言葉が浮かんできた。もし彼女が今の時代に学生時代を送っていたらどんな人生を送っただろうか、ということは誰しもが考えることではないだろうか。 

私の学生時代の頃、吉本隆明はとてももてはやされていた。私の周りには代々木系も反代々木系の学生もいて、特に反代々木系の人たちは吉本隆明をバイブルのごとく扱っていたように記憶している。が、その頃の私は政治には全く疎く、彼らの言っていることの内容は余りに難しすぎて全く理解できなかった。それでも何となく「関係性の絶対」という言葉は妙に耳にこびりついて残っていた。おそらく何度も繰り返し聞かされたからだろう。 

大学を卒業して三十年ほど経ってから、「関係性の絶対」という言葉が吉本の「マチウ書試論」という著作の中の言葉だと知り、それを読んでみた。私にはかなり難しかった。キリスト教について書かれているらしいが、私はキリスト教については何の知識もなかったからだ。でも最後の「関係の絶対性」の言葉が出てくる部分だけは強く訴えてくるものがあった。 

【 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。】(マチウ書試論からの引用) 

さすがに吉本は詩人である。当時の学生たちが吉本に惹かれたのも無理はない。吉本の真意をくんで、彼らがどの程度「孤独が自問」したかは疑問だが‥‥。 

この「関係の絶対性」という言葉は後にいろんな方面から批判されて、後年に吉本自身が「『絶対性』は言い過ぎかもしれない。『重要性』ということだな。」というふうに日和っていた。理屈を言ったらそれはその通りなのだけれど、「関係の重要性」では当たり前すぎて、この文章は生きてこないだろう。 

人は誰も思想の絶対性に取り込まれやすい。戦前戦中を通じて熱狂的な軍国少年であった吉本も皇国思想の絶対性を信じていたはずだ。が、国ぐるみの「転向」を通じて、思想の絶対性のもろさを骨の髄から思い知らされるのである。結局人間の状況を決定するのは思想なんぞではなく、その関係性だったのである。言われてみれば、それは当然のことのように思えるが、実はとても気づきにくい。 

私が大学に入ったとき、当時の全共闘の議長は舛添さんの前の東京都知事であった。舌鋒鋭く反体制を唱えていた彼がいつの間にか体制側に回っていた。口先の達者さは全然変わらないが言っていることがまるきり違う。たぶん彼にとって矛盾を断ち切ることなどたやすいことなのだろう。 

最近の若者は右がかっているとよく言われる。わたしには、日本会議の言うことを鵜呑みにして威勢のいいことを言っている連中とかつての過激派運動家は二重写しのようにダブって見える。ここはひとつ是非「じぶんの発想の底をえぐり出す」というような孤独な作業をしてもらいたいと思う。 

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反哲学入門(木田元 著)

2018-02-18 15:31:46 | 哲学

私は禅体験のほうから哲学の方にアプローチしたのであるが、勉強の仕方は我流そのもので一般的な知識は乏しい。この本は哲学者である木田先生が一般向けに書いたものであるが、私にとっては知識の乏しさを補うとともに、自分の考えていることを相対化できて、とてもありがたい本である。

木田先生がここで「哲学」と呼んでいるのは、プラトンから始まるいわゆる西洋哲学のことで、「超自然的な原理で世界を規定しよう」とする試みのことらしい。そのような「哲学」を乗り越えようとする哲学をここでは「反哲学」と称しているのである。「超自然的な原理」といきなり言われてもなんのことだか見当もつかないが、読み進めていくうちにどうやらそれは仏教の根本原理である「空観」と真逆のものを意味することが分かった。空観を理解するためにも、この「超自然的な原理」について説明したいと思う。

西洋式庭園と日本式の庭園を比較すると、「西洋式」の方は幾何学的な直線や曲線が多いのに対し、「日本式」は人工的なものを極力排除して、石の置き方一つにしても規則的にならないように配慮される。「西洋式」は幾何学的な美しさを理想としているのに対し、「日本式」はあくまで自然そのものを再現しようとしているかのようである。 

この幾何学的な美しさが西洋思想に超自然的原理を象徴している。彼らは自らを自然と対峙するものと位置づけ、超自然的原理に基づき自然を合理的なものに作り替えることができると考えるのである。日本式から見れば、この幾何学的美しさという「超自然的原理」は「不自然な作為」と見なされ、極力排除されるべきものとなる。このように庭園一つをとっても彼我の違いは大きいが、その根源をたどると西洋のプラトニズムと仏教の無常観の違いに行きつくのだろう。 

プラトニズムにおいては、個々の人間は一人一人違っても人間であるとみなされるのは、人間のイデアというものがあるからだと考えられる。つまり、イデアという範型に従って人間が作られていると考えるわけである。暗黙の裡に、人間を作る側の超自然的な主体を前提しているのである。それに対し仏教は、この世界における質料の分布は偶然的であり常に流動していると見る。それが無常ということである。いかなる固定的なものも認めない。したがってイデアというような完全で理想的なものも存在しないと考える。すべては偶然的であるから、微細に見れば完全で理想的なものは自然の中にはあり得ないのである。 

もう少し、人間のイデアというものについて考えてみよう。人間のイデアが存在するということは、人間の本質というものが存在するということと同じである。なにが人間を人間たらしめているのかということに行きつく。ここで考えてみよう。もともと地球上には人間はいなかったと考えられる。ならば、この地球に出現した最初の人間がいたはずである。だとしたら、その最初の人間は人間以外の動物から生まれたことになる。また進化論によれば、現在の人間も何万世代も経れば、現在の人類とは似ても似つかぬものに枝分かれしていくことも十分考えられる。人間が人間以外の親から生まれ、人間が人間以外の子を産むと考える時、そこに客観的な境界を設けることができるだろうかという問題がある。もしイデアというものが実在するのなら、誰が見ても明らかな境界がそこに無くてはならないはずである。 

仏教はそのような超自然的な境界は実在しないと結論づける。人間を厳密に定義づけるのは不可能である。自然は常に流動的であり、連続的に変化しており厳密な意味では個物さえも生じない。いわゆる個物というのは比較的安定したパターンという程度の意味しかないのである。一人の人間というものに着目してみても、常に外界から栄養や酸素を取り入れて老廃物を排出している開放系であり、常に新陳代謝を繰り返し不断に変化し続けていることが分かる。いわば水中の泡や渦と同じようなものと見ることができる。アワや渦に比べて複雑でかつシステマティックに安定しているというだけのことである。 

龍樹は「すべてを陽炎と見よ」と言ったらしい。その真意を「有るように見えていても、実は無いんだよ」などというふうに受け取る向きもあるが、仏教はそのように神秘的なものでない。陽炎とは水中の泡や渦と同じようなパターンであって、いずれはかなく消えていくものである。この世界にあるものは安定度の違いはあってもすべて陽炎のように消えていくパターンに過ぎないと言っているのだ。 富士山のように偉大な存在でも、見れば確固たる存在に見えるが、微細に見れば常に変化し続けている。

言語というものは必然的にものごとに固定的なイメージを与える。しかし、自然界に固定的なイメージに対応するものは実在しない、というのが龍樹の言いたいことであろう。そういう意味において、「机も山もない」ということは言える。しかし、それは「机も山も見えているけれど本当は無いんだよ。」という意味ではないのである。 
われわれはそれを机と呼んでいるけれど、単に木を切りそろえて組み立てたものをそう呼んでいるに過ぎない。それはシロアリから見れば美味しいご飯にしか見えないだろう。普遍的な机というものは実在しないのである。山から一掴みの土か石を取り出しても、山は依然として山であろう。しかし、それを繰り返していけば、それはいつかは山とは言えなくなる時が来る。山が山でなくなるその境界は有るのだろうか? そんなものはないはずである。山の本質というものは実はどこにもない。「山は山に非ず是を山と名づく」というのはそういうことである。

明神ヶ岳

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この世界はあくまでリアルである

2018-02-09 09:18:26 | 仏教

龍樹の「すべてを陽炎のごとく見よ」という神秘的な言葉を真に受けて、「この世界はまぼろしのようなものだから執着するな」と解釈する向きが多いようだ。まるで感受性が鈍いことが良いというふうなニュアンスで語られているのが気にかかる。空観に対して大きな誤解が敷衍されているような気がする。私は仏教において神秘的な言説というものはないと信じている。神秘的なのはこの世界であって、仏教自体はちっとも神秘的ではないのである。

空観を得て執着を断つというのは、単に無常の理をわきまえるという以上の意味はない。なにごとも永続しないから諦観が必要であるという当たり前の理屈である。 

愛する息子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言った。キサーは一日中駆けずり回ったあげく、そんな家は一軒もないことを悟る。彼女はようやく息子の死を受け入れなければならないことを知るのである。命あるものはいつか死ぬ、それは当たり前理屈だが、その理屈がなかなか受け入れがたい。それをうけいれるためにはある程度の修業が必要なのだろう。だから釈尊は彼女に対し一つの修行を課した。「死人が出たことのない家」を探すことは言わば一つの公案と言ってもいいだろう。ゴータミーは一日中その公案に取り組んで、心身共にへとへとになった結果、ようやく無常の理を骨の髄から知らされるのである。 

悲しみは悲しみとして受け入れねばならぬものは受け入れる、それが仏教的諦観であろうと思う。「みんなまぼろしだから、なにが起こってもへっちゃらだい。」というようなことではない。 

この世界が無常であるならば、すべてははかないということは本当である。しかし、はかないからこそ美しいという見方も成り立つ。栂ノ尾の明恵上人は、あるとき野原に咲く一輪のすみれを見つけて落涙したという。はかないほど小さなスミレに妙を感じたのだろう。この感受性が仏教的慈悲につながっている。

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『見える』ということは単純にそれだけで驚くべきこと

2018-02-03 11:29:39 | 哲学

【大森が哲学者として偉かったのは――変な言い方だが――本当に驚いていたからだ。眼球も視神経も大脳も物質にすぎない。なのに「見える」とは驚くべきことではないか? 大脳の中に「意志」など発見できない。だが、私が腕を上げることができるとは何とグロテスクなことか?】

上の文章は哲学者で有名な中島義道先生の著書『哲学者とは何か』からの引用である。「大森」というのは中島先生の師である大森荘蔵先生のことだろう。

「見える」ということは本当に不思議なことである。そのことに驚くのは良いとして、「眼球も視神経も大脳も物質にすぎない。なのに『見える』」から驚く、という言い方は、哲学者の言葉としては少しおかしいような気がする。

 まず「見える」ということが先にあるのであって、眼球も視神経も大脳という物質もそこから推論されたものに過ぎない。「視神経があるから見える」というのはあくまで虚構に過ぎない。『見える』から視神経が働いているという推論を、私たちはしているのである。 

『見える』ということは単純にそれだけで驚くべきことなのだと思う。仏教ではそれを「妙」という。ウィトゲンシュタインの「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」という言葉も同じ主旨だと思う。

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生死一如

2018-02-02 09:05:44 | 哲学

禅は不立文字というが、実際はものすごく饒舌である。言葉で表せないことをなんとか表現しようとするので、かえって言葉が多くなるのだろう。もともと表現できないことを表現するのだから、いきおい言葉の本来の意味からは大きく逸脱することもある。だから禅語は日常的な感覚からすると異常な言葉使いである。だから不用意にそれを口にしたりすると鼻につく、いわゆる「禅臭い」ということである。

基本的に、禅語はそれを創作した人だけのものであると私は考えている。非日常的な言葉を他の人が模倣して使用することが健全であるとは思えない。その言葉とぴったり一致する境涯に達したときにのみ使用すべきで、やたら軽々しく連発するものではない。禅者は表現者としてもクリエイティブでなくてはならないと思う。

「生死一如」とは常識的に考えて不可解な言葉である。生と死は対称概念である。生は死でなく死は生でないことはだれでも知っている。昨日まで私と話していた人がある日を境にものを言わなくなり動かなくなる。私と話していた時その人は生きていたのであり、動かなくなったその人は死んでいるのである。

ただし一つ重要な問題がある。私がここで了解している生と死は他人についてのものであるということである。しかし、禅者というのは常に己事究明を目指しているものであって、「生死一如」における生死も自分自身のものについてでなくてはならない。もし、他人について「生きているのも死んでいるのも同じ」と言ったとしたら、それは暴言というものである。

あらためて、「生死一如」の生死が自分の生死であるとすると、そこに新たな問題が立ち上がってくる。生と死は前述したとおり対称概念であり、生があって死があり、死があって生があるのである。私たちは他人の生死を通じて自分の生死についても周知していると思いがちであるが、決してそれは自明な概念ではない。そのことはこのブログでも以前に述べたことがある。(==>「死は人生のできごとではない」)

死が経験することのない概念であるなら、私たちは決して死を知ることがない。死が分からなければ、なにをもって生というかもまた分からないのである。もったいをつけて「生死一如」などという言葉を振りかざすのは、禅に対し神秘的なイメージを帯びさせるためには効果的かもしれないが、しかし、それは禅の精神から遠ざかることではないか。真理は常に現前していると主張する、禅はもっと素朴なはずのものである。

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