禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

あなたはどちらか?

2015-06-27 12:23:30 | 政治・社会

先日図書館へ行ったら教科書展が催されていた。それで中学校の歴史をざっくり眺めたのだが、「なるほど教科書も時代に応じて変化していくのだな」という感慨をあらためて持った。

特に印象的だったのは、私たちの教科書では触れられていなかった、坂本竜馬と杉原千畝について記述されていることだった。今回は杉原千畝について思うところを述べてみたい。( 杉原千畝についてご存じでない方はこちらを参照していただきたい=>「杉原千畝と『いのちのビザ』 ~東洋のシンドラーと呼ばれた外交官~」 )

この「いのちのビザ」というテーマが教室でどのように教えられているかが私にはものすごく気になる。ともすれば日本人が成し遂げた人道的な偉業という意味合いで受け取られがちだからだ。

少し考えればわかることだが、日本が人道的で素晴らしい国であったならば杉原の行為は大したことではない。当時の日本(外務省)が人道的国家ではなかったからこそ彼の行為は偉大だということになるのである。

何年か前に杉原のことがテレビで取り上げられたことがあった。その時に外務省の若い官僚が、「後輩として誇りに思う。」と述べていたのを記憶している。エリート官僚としては実に無思慮なコメントであったと思う。外務省には杉原のことを誇る資格はないからである。

現在では教科書にも取り上げられるほどになったこのことも、戦後24年間は一般にはほとんど知られることがなかった。1969年にイスラエルから勲章を授与されることになってからマスコミにも大々的に取り上げられるようになったのである。これほどの偉業も外国に評価されて初めて理解できるようになる、この日本の情けない鈍さをわれわれは認識する必要がある。

ここで言う「日本の鈍さ」というのは外務省の杉原に対する冷淡さのことである。当時日本はドイツと同盟を結んでいた。だからヒットラーに気兼ねして、ユダヤ人に対するビザの発行をやめさせようとしたことについては理解できる。だが、終戦二年後に彼の意志に反して外務省を退職させられた。その理由が「訓令違反」であることは直接次官から告げられているのである。すでに戦争は終わっている。彼の行為については外務省内部で改めて評価されてもよかったはずである。

彼のビザによって生き延びたユダヤ人は戦後彼を探し続けていた。外務省に「スギハラセンポ」という名で彼の消息を問い合わせたところ。「該当者なし」の答えが返ってきたというが、妙な話である。リトアニアに赴任していた「スギハラ」は杉原千畝に違いないし、日本人なら、「センポ」が「千畝」のことであることは簡単に分かるはずだ。
一般企業に外国人が「お宅の企業に勤めていた私の恩人を探してほしい」と訊ねてきたら、かなりの熱意をもって対処するのが普通であろう。この辺に外務省の彼に対する態度が伺えるのである。

杉原夫人の述懐(「6000人のいのちのビザ」)によれば、「杉原はユダヤ人に金をもらったのだから、金には不自由しないだろう。」といううわさもあったようである。

  体制に飲み込まれた人間は、自律の人をねたみ憎む。

自主的に人道的な判断を下した杉原を肯定すると、凡庸な小役人である自分を否定しなくてはならない。そんな潜在意識が現在の日本の官僚の中にも巣食ってはいないだろうか?
先述の若い外交官が杉原のことを安易に「誇りに思」ってはならないことが理解していただけたと思う。彼のことを誇りに思うには彼と同じ場所に立たなくてはならない。このことは我々自身にも言えることである。外務省が彼を冷遇したということは、日本が彼を冷遇したということでもある。日本人である我々は忸怩たる思いでこのことを噛みしめなくてはならない。

ここで少し「君が代不起立」問題に目を転じてみよう。

≪ 卒業式などの君が代斉唱で不起立を繰り返し、停職処分を受けた元都立学校教諭ら2人が、都に処分取り消しなどを求めた訴訟の控訴審判決が28日、東京高裁であった。須藤典明裁判長は、1人の訴えのみ認めた一審東京地裁判決を取り消し、2人に対する処分を違法と認定、都に計20万円の損害賠償も支払うよう命じた。(時事通信) ≫

ほんの半世紀前にはほとんどの教師は「君が代斉唱」には反対であったように記憶している。そのことを想えばまさに隔世の感がある。今では「不起立」側の教師はよほどの変わり者扱いである。まず最初は、「君が代斉唱」に不熱心な教師は教頭や校長にはなれないという圧力から、徐々に教師間に君が代肯定感が浸透していった。今では「不起立」教師はほぼ絶滅状態にある。

5月28日には東京高裁にて、「不起立」教師に対する処分が違法である旨の判決が出た。それにもかかわらず、世間一般の目は「不起立」教師に対して冷たいような気がする。「民主的かつ正式に国歌として制定された歌を頑として認めない過激な主張をする人たち」というような受け止め方をされているのではないかと思う。そのような意識の下には、やはり自律する人々へのねたみと嫌悪が潜んでいるような気がする。行き着く先は、一億総「小役人」のヒラメ社会である。

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