禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的無常観

2016-05-30 09:48:14 | 仏教
「無常観」と聞けば、多くの人は平家物語の冒頭の「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり‥‥」を連想するでしょう。ウィキペディアの説明には「日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。」とまで書かれています。今では無常を文学的詠嘆を表す言葉となってしまったようです。しかし、そもそもの仏教における無常観は少し違うのではないかと思うのであります。
仏教は絶望の宗教であると言われます。何に絶望するのかと言うと、無常に対する己の無力さに絶望するわけです。鎌倉時代は日本で最も仏教が興隆した時代でありました。武士という新しい支配階級が現れて、人々がより強く荒々しい力の支配にさらされた時代です。困難の極致におかれた人々が最後にすがるよすがが仏教であったわけです。

家物語には「盛者必衰の理をあらわす」という一節があります。無常は変化することだから「盛→衰」というのは一見筋道が通っているように見えます。無常とはこの世界のそこにルールがないことを言うのであります。「盛者必衰の理」というものがあるのならそれは無常ではありません。もし神様や閻魔様がいて、我々の苦しみや悲しみをテイクノートしてくれていて後で帳尻を合わせてくれる、というのならそこには「常なる」ルールがあると言える。

無常とはそういった超越者によってこの世界が差配されているのではなく、我々の思惑とは無関係な「偶然」によって支配されているということです。だから、盛者は衰亡することもあるが盛者であり続けることもあるし、善行を行い続けてきた人が悲惨の極地に追い込まれることもあります。要は、この世界においてはなんらの保障も無いということであります。

無常は無情に通じます。そこには絶対者の差配が行き届かない。我々の感情は一顧だにされない偶然の世界、つまり無情であるということです。仏教的無常観ということは、世界が無情であることを知ることであります。世界に私たちの願いが届かない。そこに絶望があるのです。本来は、日本人の美意識云々とは関係のない概念であります。

無常の辞書的意味は不断に変化し続けるということでありますが、しかしそれでは仏教的無常観というには不十分です。

幸せな家庭に生まれた子供は、両親の深い愛情に包まれてそのまま幸せであり続けたら、多分その子は無常を感じません。周りの環境が変わり続けることを知っていたとしてもです。自分が幸せであることを「当然」と思い、暗黙のうちにそれが保障されていると感じるのです。

ところがある日、お父さんが事故で亡くなり過程が没落しはじめます。
家は経済的に没落し、お母さんはやくざな男の後妻になり自分も引き取られます。そこで、そのこが前妻の子に毎日いじめられる様な事態に至った時、初めてその子は無常を知るのです。

そのまま平和で温かい家庭が保障されていると漠然と信じていたが、実は何も保障はされていなかった。この「保障されていない」という感覚が無常観の底にあるわけです。私たちは何も保障されていない。この世界に予定調和的な約束事はなく、世界は私たちの気持ちや思惑を無視して動いていく、それが仏教的無常観です。

それゆえこの世は怖ろしい。苦に満ちていると言えます。だからと言ってそれらを避けるすべはない。
仏教においては、起きてしまった事柄に対してはすべて受け入れるしかない。それが仏教的諦観です。執着を断ちすべてを受け入れる、そのような境地に立ったときに無常の中に妙を見出すのではないかと思うのです。
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「あるがままをみる」と西田哲学

2016-05-28 10:11:48 | 哲学
哲学というものがない時代は人は「あるがまま」のものを見ていたはずである。目の前のリンゴ、机、それらは目の前にあるがもののごとくある、と信じられていた。このようなものの見方を「素朴実在論」という。しかし、素朴実在論を前提に知識を蓄えていくと、素朴実在論を否定しなくてはならなくなるのである。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは次のように言う。

≪素朴実在論は物理学を導く。しかし物理学が正しければ素朴実在論が間違っていることが分かる。だから、素朴実在論が正しければ、素朴実在論が間違っていることになる。故に、素朴実在論は間違っている。≫

物の存在を前提として、それらの秩序を表現するための物理学というものが発展してきた。ここでいうところの「物理学」は自然科学全般を指す。化学や生物学もミクロにみると物理学によって支えられているからである。それで物理学が進歩すると、人間そのものも物理学の対象として含まれるようになり、様々なことが明らかになってくる。

目の前のテーブルにリンゴがあるとする。この状況を物理学的視点からみるとどうだろう。太陽から出た光が部屋の中に散乱している。その中の一部がリンゴの表面に当たり、赤色に相当する波長の光が反射されて私の瞳の中に入り網膜に到達する。網膜に移された光の像によって視神経が刺激され、その刺激が私の脳に届いて、意識下にリンゴの像が映し出される。

これだと、私の目の前にあるリンゴは実は私の脳の中にあることになってしまう。リンゴだけではない、私はあらゆるもの(こと)を感官を通じて認識しているのであるから、あらゆるものは私の脳の中ということになってしまう。実在論に対して、すべては私の観念であるという見方を観念論という。このような事情で実在論というのは哲学的にはかなり旗色が悪い。

では観念論の方は問題がないのかといえばそうでもない。すべてが脳の中というなら、脳の外というのは一体何なんだ、という疑問がわいてくる。「外」があって初めて「中」が意味を持ってくるのであって、すべてが「中」ならそれは中でも外でもないわけである。一体、「外」はどこへ行ったのだろう。

西田幾多郎はこのようなパラドックスが生じる原因が主客二元的なものの見方にあると見抜いていた。「私(の脳)が対象を認識する」という構図そのものが間違っているとして、それは「英国にいて英国の正確な地図を描く」ようなものであると考えたのである。

英国にいて英国の正確な地図を描こうとすると、その地図の中に今描いている地図も書き込まなくてはならない。さらに書き込んだ地図の中にも‥‥というふうに無限に小さい英国の地図まで書き込まなくてはならなくなる。

そこで西田は、「私(の脳)が対象を認識している」という構図を捨てる。有名な「善の研究」の中で彼は「意識現象が唯一の実在である」と述べている。

≪ 我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。すなわち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのにすぎない。≫(岩波文庫「善の研究」P.72)

物体現象というのは目の前の物理空間に実在するとされているリンゴであり、意識現象というのは見えているままのリンゴのことである。同じことではないかというかもしれないが、前者には暗黙の裡に「<私>もその中に存在している物理空間」というものが前提されており、その結果「私がそのリンゴを見ている」という主客の図式が既に織り込まれている。物体現象が「各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのにすぎない。」というのは、そのような図式が推論によって構成されたものであるという意味である。

西田が西洋の観念論者と違う点は、認識する「私」というものを措定しないことにある。「見えているままのリンゴ」があるだけなのである。「リンゴを見ている私」というのも推論によって構成されているものに過ぎない。世界は「見えているままのリンゴ」、「見えているままのテーブル」、「見えているままの○○」‥で構成されているのである。それらすべてが意識現象ならばもはやそれを「意識現象」という言葉で呼ぶのはふさわしくない。それは意識現象でも物体現象でもないものだからである。西田はそれを「純粋経験」と呼ぶことにした。

  「個人あって経験があるにあらず、経験があって個人があるのである。」

西田のこの有名な言葉は、経験を積んで人格が出来上がっていくというような意味に解釈する人もいるが、そうではない。ここでいう経験というのは純粋経験のこと、つまり「見えているままのリンゴ」のことである。まず「見えているリンゴ」があるのであって、それに先立って「見ている私」があるのではないというのがこの言葉の真意である。それは仏教的な視点にも通じるものである。

残念ながら、善の研究は西田の若書きの論文であり、純粋経験は定義の段階から錯綜して結局は破綻してしまっているように見える。西田自身これ以降「純粋経験」の言葉は使わなくなってしまったが、純粋経験によって「あるがままの世界」を哲学的に表現しようとしたことは大いに評価されてよいように思う。
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匹夫不可奪志

2016-05-20 05:32:24 | 雑感

「法論はどちらが負けても釈迦の恥」とはよく言われることである。一般的に、「宗派間の争いは釈迦から見ればどちらが勝っても負けても、最終的にはみんな釈迦自身の恥になるという意味です。」というふうに解説されているようだが、このことは仏教的にはすごく重要なことであるように思う。

「一切皆空」というのは仏教の根本原理であるとされている。「絶対」ということはないということを意味する。だとすると、自分を絶対の高みにおいて相手を非難することはできないことになる。仏教においては、真善美なるものも縁起の中で相対的に浮かび上がってくるものでしかない。自分を是相手を否とする絶対的根拠も見いだせないからである。だから、仏教においては、自分の論を主張する論争というものは本来ありえないのである。

小林秀雄のエッセーに、「匹夫不可奪志」というのがある。論語の「子曰'三軍可奪帥也,匹夫不可奪志也。」という言葉からきているとのことだが、「大軍の大将をとらえることはできても、小人の志を奪うことはむずかしい」というような意味らしい。

≪ 自分は悧巧だと己惚れたり、あの男は悧巧だと感心してみたりしているが、悧巧というのは馬鹿との或る関係にすぎず、馬鹿と比べてみなければ、悧巧にはなれない。実に詰まらぬ話であるが、だんだんと自分の周囲に見付かる馬鹿の人数を増やすというやり方、実に芸のないやり方だが、ただやり方一つで世人はせっせと悧巧になる。したがって、馬鹿とは、多かれ少なかれ悧巧に足りないものだという安易な考え方から逃れることがむずかしい。 ≫

よくよく考えてみれば、馬鹿と悧巧の間に境界などないのである。比べてみれば、比較的利巧と比較的馬鹿があるだけに過ぎない。なのになぜか人は自分を悧巧だと思いたがる。他でもないこれは私のことである。自分を悧巧だと思い、時に若者を上から目線で説教したりする。小手先の言葉で匹夫の志を奪うことができると勘違いするのである。

先にあげた一節に続いて、小林秀雄はこうも言っている。

≪ つまり、馬鹿は馬鹿なりに完全であって足りない人間ではないという簡明な事実を合点するチャンスに他ならないのだが、チャンスは逸するのが普通で、すぐ元の無意味な悧巧に立ち戻る。 ≫

「馬鹿は馬鹿なりに完全」という言い方は乱暴だが、要するに、人は誰でも自分の信念や格律に従ってものを言い行動している、という単純なことを言い表しているのである。それはその人が馬鹿であるとか悧巧であるかとは全く関係ないということなのだ。実はこれは当たり前のことだが、その当たり前のことを分かるのがむずかしいと小林は言っているのである。

自分に少しばかり学識があるからといって、相手を見下して匹夫の志を奪おうなどと考えてはいけない。相手もそれなりに信念に基づいてものを言っているのだから、小林の言葉で言うと「完全」なのである。自分も「完全」で相手も「完全」なら、深刻な信念対立となって抜け道はなくなってしまう。

争いを避けるため仏弟子は自分を絶対化してはならないのである。


※ ちなみに、大乗仏教の祖とされる龍樹は「中論」という論争の書を著しているが、この中では龍樹は一切自分の論を主張はしていない、あくまで説一切有部という学派の論理矛盾を指摘することに終始している。


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禅的視座について

2016-05-07 11:03:31 | 哲学

私はこのブログで禅的哲学というものを標榜していおりますが、これは禅的視座から哲学というものをしてみようという趣旨からなのであります。では、禅的視座とは何かというと、「何の偏見もなくものを見ること」を私が勝手に「禅的視座」と呼んでいます。禅宗のお坊さんは坐禅を通して自己を内観する、その過程を経て、ものごとを素朴に見ることができる。そういう視点を「禅的視点」であるとして、偏見を排除して哲学をしてみようというのが「禅的哲学」の主旨であります。偏見を排除するのは哲学としてはあたりまえのことなので、あえて「禅的」と銘打つのは変といえば変なのですが、今のところどこからもクレームはついていないので、このままでいこうと考えています。

今回はこの禅的視座という意味において、最も洞察力に優れていた西洋哲学者のデイビッド・ヒュームを紹介したいと思います。

ヒュームは日本ではその名を知っている人は少ないですが、西洋哲学ではデカルトやカントと並ぶほど重要な人物です。『有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (前篇)』という記事の中で「ヒュームの懐疑」として取り上げましたが、「因果律は理性によって根拠づけることができない」ということを初めて指摘した人です。これ以降の西洋哲学は大きな変革を遂げたのです。

以下に彼の主著である「人性論」から「人格の同一性について」論じている部分を引用します。

≪ 哲学者のなかには、「自己」とよばれるものを、われわれはいつでも親しく意識しているのだと思っている者がいる。つまり、自己の存在、およびその存在の持続を我々は感じており、また自己の完全な同一性、完全な単純性について、論証による明証性以上に確信しているのだと思っているのである。
しかし不幸なことに、これらすべての肯定的な主張は、それを裏付けるために引き合いに出されるまさしくその経験に反しており、そこに説明されるような仕方では、自己のいかなる観念も我々は持っていないのである。
' ------------ ( 省略 )-------------
私だけについて言うと私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのはいつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である。どんな時でも、知覚なしに私自身をとらえることは決してできず、また知覚以外のなにかに気づくことは決してありえない。 ≫

後半の部分は、「人間は知覚の束」であるということを述べています、このことは五蘊によって人間が構成されているという仏教とほぼ同じといってもよいでしょう。

西洋はデカルト以来の主客二元による機械論的思想に支配されている、と考えられがち(私も最近までそう思っていました)ですが、近年はそうでもないようです。ヒュームの影響を受けていない西洋哲学者は皆無であると言ってもよいでしょう。

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