禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

哲学的懐疑論と禅

2014-07-25 12:50:34 | 哲学

テーブルの上にリンゴが置いてあると、普通は「そこにリンゴがある。」と私たちは言う。そして、「そこにリンゴがあることを知っている。」とも言う。しかし、こんな当たり前のことについて、哲学者という人たちは、「私たちは本当にそこにリンゴがあることを知っていると言えるのか?」と問うのである。

「そこにリンゴがある。」と言えるためには、「そこにあるのがリンゴではない」という論理的可能性がすべて排除されなければならない、哲学者はそう考えるのである。

リンゴだと思ったのが実はプラスティックの置物だった、と言うことはあり得る。が、まあその程度の論理的可能性は触れて確認すればすぐ排除できる。だが少し考えてみればわかることだが、それがリンゴでないという論理的可能性をすべて排除するというのはどうあっても不可能なのである。

デカルトが提示した例でいうと、「今私は夢を見ているのではないか?」という可能性を否定できないのではないかということがある。いかに目の前のリンゴがありありとしていても、これが夢でないという保証はない。残念ながら、自分が現(うつつ)であることを私たちは積極的に示す方法を持ちえないのである。

「いや、これが夢であるかどうかが私にはわかる、夢ならこんなにはっきりとしているわけがない。」とあなたは抵抗するかもしれない。

それならと、ヒラリー・パトナムという哲学者は「培養液の中の脳」というアイデアを考え出した。実は私は培養液の中に浸された脳で、高性能コンピューターと電極でつながれている。その電極を通して、今見ているビジョンを与えられているのではないか、という可能性があるのではないかということなのだ。仕組み的に、「夢を見ている」可能性と同型であって、これもなかなか排除できそうにはない。

この懐疑論というのは一見バカバカしい話なのだが、哲学においては結構大きなテーマで、天才たちが膨大なエネルギーを投じてきた問題なのである。いろんな『知識理論』なるものが発表されてきたが、いまだに哲学的懐疑を正面から乗り越えたものは誰もいない。

 

前置きが長くなったが、禅ではこの問題をどのように取り扱うのだろう?

 

答えは簡単である。問題は存在しない、ということである。
仏教ではもともと「一切皆空」と言っている。厳密な意味での「リンゴ」あるいは「リンゴの実体」というものはもともと存在しない。この世界のあらゆるものにその根拠を求めることはできない、という諦観が禅にはあるのである。華厳的にいうならば、「リンゴはリンゴに非ず、これをリンゴと言う」である。だから、初めから厳密な『知識理論』と言うようなことは問題にはならないのだ。

では、テーブルの上のリンゴをみつけても、「そこにリンゴがある。」と言ってはならないのだろうか?

そうではない。テーブルの上のリンゴ、それは空であるとは言っても、ありありとした現実であることに違いないのである。否、根底が空であると達観すればむしろ実体に対するこだわりはない、今見ているリンゴそのままが「実在」であるという思いは強くなるのである。西田幾多郎の「善の研究」における「意識現象が唯一の実在である。」という言葉もこのような文脈の中でとらえるべきである。

たとえ今自分が夢を見ているだとか、自分が培養液の中の脳で今見ている光景がバーチャルなものであるとかいうのは、自分のある世界を俯瞰してみて初めて分かることである。つまり自分(というものがもしあるとすれば)、自分を他者の目から見ないと判別できない。そのような視点は禅者にはない。禅者はあくまで実存的な視点しか持ちえないのだ。自分であるとか他者であるとか、あるいは今夢を見ているとか、これはバーチャルであるとか、それらの見解はすべて推論の上に成り立っているに過ぎない。

今見ている光景の背後に隠された「真実」を探るのが科学であると考えられるが、禅においてはそのような推論の上に構築された虚構を「真実」とは呼ばないのである。見たそのままが「真実」である。そこに何も隠されているものはない。師家が「特別なことは何もない。すべてがあらわになっている。」と言うのはそういうことである。

空と言うのはいわば否定であるが、一旦否定を通してからこのありありとした現実を再評価するところに玄妙さが生まれる。「柳は緑花は紅」、「眼横鼻直」とは当たり前を強調するする言葉であるが、この当たり前が真実であるというところに仏教の妙味がある。

だから、テーブルの上のリンゴをみつけたとき、あなたは「そこにリンゴがある。」と言って良い。「そこにリンゴがある。」という言葉はまさにそういう時に発する言葉であり、その言葉の意味はそのような状況を指すものであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。

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賭ける宗教

2014-07-23 09:04:41 | 哲学

恐山の住職である南直哉さんは、禅僧にしては珍しく理屈を言う人である。私のようなアマチュアと違って哲学にも相当造詣が深い。数多くの著作をものにし、講演で全国を駆け回る忙しいお坊さんである。

不立文字を旨とする宗旨でありながら、これだけしゃべるとさぞ風当たりも強いのではないかと想像してしまうが、それだけお呼びがかかるということはそれなりのものがあるということだろう。特に感心するのは、話が全然抹香臭くないことである。常に自分が体感したことを自分の言葉で語っている。その斬新な語り口には常々敬服している。

その南さんがご自身のブログ(「恐山あれこれ日記」)に、「疑う人の信じ方」という興味深い記事を掲載されていた。「信じ方」を次のような類型に分別しているのである。

 ①「理解」または「了解」: まるで疑いを持たない人は、信じることはできない。彼は「理解」したり「了解」したりするだけである。

 ②「確信」: 説明可能な「根拠」を示して、その「疑い」を否定しようとする。いわゆる「知的」「学問的」と呼ばれる態度。

 ③「普通に『信じている』」:「根拠」を説明しないまま、あるいは説明できないまま、「疑い」を排除・無視する態度。

 ④「賭ける」: 「疑い」を当然の前提として「信じる」のです。つまり、否定も排除もせず、「疑い」を受容して「信じる」。これはもう「信じる」とは言わない。通常は、「賭ける」と言う。

 

「信じる」を以上のように分類したうえで、②と③が通常の「宗教を信じる」に該当すると南さんは言う。そして、その上でなお「疑い」を当然の前提として信じる態度があると言うのだ。それが④の「賭ける」である。言われてみて、なるほどと南さんの炯眼に唸ってしまった。

 これを親鸞聖人の場合に当てはめてみよう。

 親鸞は9歳にして天台座主・慈円のもとで得度している。それから20年にわたり比叡山で修行した。子供のころから毎日仏法修行に明け暮れていれば、たいていは「『普通に』信じてしまう」ところであろう。ところが親鸞は「普通に『信じる』」には知的に過ぎたのだ。いくら経典を学んでも、単にそれは言葉の操作に過ぎないということが透けて見えてしまう。いくら厳しい修行をしても、健康すぎる自分の身体から煩悩を遠ざけることはできない。湧き上がる肉欲に自分の浅ましさを認めざるを得なかった。

「仏教は人を救済することなどできないのではないか?」 自分の半生をかけてきた結論に絶望していたのだ。

 絶望の底にいる人間には、もうあとは「賭ける」ことしかない。

 ≪ 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。 ≫

まさにこれは「賭ける」と言うことだろう。賭けたからには、「浄土に行くか、地獄に行くか」ということは存知しない。賽の目がどうでるかあとのことは自分の知りうるところではない、と言うわけである。

≪ たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。≫

念仏してもだめならどのみちだめなのである。もし仏教に救済というものがあるのならば、(少なくとも私にとっては)念仏のほかはない。一旦「賭けた」からにはもう迷いはない。あとは賭けに身をゆだねるだけである。「身をゆだねる」こと、それが絶対他力と言うことなのだろう。


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おざなりのことは言わない

2014-07-12 10:22:58 | 哲学

私は門徒の家に生まれ、小さい頃から祖母から親鸞聖人についてはよく話を聞かされた。そのせいなのかどうか、今でも親鸞聖人には親しみと尊敬の念をもっているし、日本が生んだ最大最高の思想家だとも思っている。
しかし、これは近親憎悪とでもいうのかもしれない、浄土真宗の教団に対してはどうしても意地悪な嫌悪感が湧いてくるのを抑えることができないでいる。

浄土真宗のお寺の門前にはよく黒板が掲げられている。大抵はそこに「今日の一言」といったような箴言めいた言葉が書かれている。ある日とあるお寺の前を通ると、次のような言葉が掲示板に書かれていた。

    ≪ 心をこめて生きておれば真実が見えてくる ≫

善男善女はこの掲示板を見て、「そうだな、心をこめて生きていこう」と、気持ちを新たにしながら通り過ぎるのかもしれない。しかし、自称「アマチュア哲学者」たる私の脳裏には、激しい疑問の渦が湧き上がるのである。

  ここでいう『心』とはなんだ? どうやったら『心がこもる』んだ? 『真実』とはなんだ? 

まともな人が聞いたら、揚げ足取りのいちゃもんと受け取るかもしれないが、アマチュア哲学者は何でも突き詰めないと気が済まないのである。

ご近所のおじさんが、「心をこめて生きなきゃダメだな」といったのなら、私も「そうだね」と相槌を打つ。しかし、お坊さんの言葉は一般人のものと同等に扱うことはできない。「あいつはプロだな」という時「プロ」の語源は  profession (聖職)である。いうなれば、お坊さんはプロ中のプロでなくてはならない。自分の修行なり宗教体験から得たものを人々に伝えるのがその使命であろう。言葉には実質が伴っていなくてはならない。『真実』などという言葉は少し突き詰めて考えたことのある人間にはなかなか口にしづらい言葉である。あっさりと「真実が見えてくる」などと言ってのけることができる人というのは、本当に悟った人か全然修行などしたことのない人かどちらかであろう。本当に悟った人ならば、その言葉のなかに真実がどういうものであるかということをうかがわせる何かがなくてはならないと思うのである。

 

好意的に受け止めれば、「心をこめる」という言葉は「真剣に」とか「誠実に」に解釈できる、「真剣に生きよ」ということは別に悪いことを勧めているわけではない。しかし、大抵の人はそんなにちゃらんぽらんに生きているわけではないと思う。一見いい加減なように見える人間でも、一人になれば自分と向かいあって真剣に自分の人生について考えている、そんなものではないだろうか。生きにくい世の中をみんな必死で生きていると言いたいのである。そういう人々にあえて「心をこめて生きよ」などというのは、いかにも上から目線というものだろう。

門徒の方々は大体において純朴な人が多い。「ありがたい」「もったいない」の精神にあふれている。みんなハッピーなら私が横から口出しするのはおせっかいというものだろうが、なにか「気持ちが悪い」ものを感じて仕方がない。おざなりの言葉でも好意的に解釈してくれるような楽な顧客を相手に商売している坊主こそもっと心をこめて生きるべきではないのか。「心をこめて……」の文言は、少なくとも私には心のこもったメッセージとしては受け取れない。

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人は何のために生きるのか?

2014-07-07 12:41:19 | 哲学

「人は何のために生きるのか?」と問われると、へそ曲がりな私は、目的がなきゃ生きていてはいけないのか?と問い返したくなる。

以前の記事でも述べたが、言葉には機械的に運用されるという欠点がある。ことばが意味をもつためには文法にかなっているだけでは駄目である。自分が何を求めているかがわかっていなければ、問いは本来発することはできない。意味のわからないまま問い発したい場合は、改めてその衝動がどこから来ているのかを問い直さなくてはならない。

多感な若者が、自分の欲望の正体を見極めることができず、ただ焦燥感にかられる時、この言葉を発するのだろうということは理解できる。しかし、この問いに対する解決の糸口はつかめないのである。こんな時、若者は大抵思考停止に陥っているとみて間違いない。

  人はなにかのために生きるものではない、人は本来生きるために悩み苦しむものである。

ま、こんなことを浅薄なアマチュア哲学者ごときが申し上げてもあまり説得力を持たない。ここは偉大な先達フランクルの名著「夜と霧」の言葉を借りることにしよう。

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。私たちが生きることからなにかを期待するのではなく、むしろ生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとは決して漠然とした何かではなく、つねに具体的な何かであって、したがって生きることが私たちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。 
(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房)

誰よりも真摯に人生に向き合った人の言葉である。そこにはいささかの曖昧さもない。過酷な運命を通り抜けた精神の結晶がある。我々は人生に対し問う立場にはない、われわれが人生から問われているのである。人生からの要請に対し、具体的に悩み具体的に行動する、それが生きるということであるとフランクルは言っている。漠然とした問いを投げかけている場合ではないということだろうと思う。

「夜と霧」新版の池田香代子さんの訳はとても読みやすくて素晴らしい。どなたにも一読を是非々々お勧めしたい。

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仏教者は集団的自衛権を支持してはならないのではないか?

2014-07-06 11:20:41 | いちゃもん

政治向きのことはあまり言いたくはないのだが、この件についてはどうしても黙っておれなくなった。
今回の解釈改憲に関する決定に基づいて、関連法案の法制化は必至の情勢であるが、このことの意義は改憲派・護憲派いかんにかかわらず、すべての方々がわきまえておくべきことであると思う。 

  日本はすでに、立憲主義でも民主主義でもない。

ということだ。

憲法9条は明確に戦争放棄を謳っているのであって、本来は個別的自衛権さえも明らかな憲法違反である。過去の自民党政権は現実的脅威に対する処置の名のもとに、何とか屁理屈をつけて警察力の延長としての自衛隊を増強してきた。しかし、まだその屁理屈のなかに一応憲法への畏敬の念からくる苦悩が感じられた。だが今回の解釈改憲にはそのような遠慮が感じられない、九条は空文化してしまうだろう。政権が日本を守るための「必要最低限」の処置と判断すれば、自衛隊は地球の裏側へ行って戦うこともできるのだ。権力者をしばる憲法が機能しないのなら、もはや日本は立憲主義国ではない。

なんでも多数決を取れば民主主義にかなっていると考える人々がいるようだが、そうではない。できる限り個人の声に耳を傾け、より広範な合意形成をするための努力をする姿勢がなければ、それは民主主義ではない。
間違って勝ちすぎた選挙によって獲得した議席数を背景に、世論の半分が反対している集団的自衛権を一挙に法制化しようというのは民主主義とは言わない。民主主義とは国民が主権者であるということであって、一部の権力者が自分の思い通りに国を動かすということではない。

なぜそんなに急ぐのか? 日本の安全保障に対する脅威がそれほど切迫しているというのか?

それほど差し迫った軍事的脅威があるというのなら、なぜ原子力発電所を撤廃しようとしない。人口の密集した国に原発をいくつも抱えたまま戦争ができるという考えにリアリティはない。言っていることのことごとくにリアリティが感じられない。戦争ができる法整備をそれほど急がねばならない、もしそんな状況であるならば、もっと切迫感を持って外交努力をするべきだろう。
戦争を避けるためにはどんな努力も惜しむべきではない。あえて屈辱外交の汚名を甘んじて受けるぐらいの覚悟をすべきだと思う。いたずらに威勢のいいことを言って他国を刺激するというようなことを避けるべきなのは言うまでもない。

憲法第9条は決して非現実的でもなければ、押し付けられた恥ずべきものでもない。同胞300万の尊い犠牲と引き換えに得た日本の宝というべきものである。日本人はかつて戦争の悲惨さを完膚なきまでに味わった。いったん戦闘行為に入れば正義などそこにはあり得ないということを身をもって知ったのである。「もう過ちは二度と繰り返しません」という決意が昭和20年代の日本には確かにあったのだ。そこには国民国家のくびきを脱して新たな市民社会を目指すという理念があったはずなのである。
そのような理念をここで翻すというのなら、それはそれで「憲法改正」という新たな決意表明が必要であろう。決して、閣議決定などという小手先の手続きで済ませられるべき筋合いのものではない。

あるお坊さんがブログで、「素直に日本は戦争する権利を自ら認め、外交上の問題を解決していくための選択肢を増やしていくべきだと考えています。‥(中略)‥宗教者のくせに、戦争に賛成するのか?とかいわれそうですが、政教分離なので、一応…」 と述べていた。

政教分離というのは、宗教団体の組織に関する話である。個人においては、その宗教的信条は当然政治的態度決定にもかかわってくる。むしろかかわってこないのはおかしいのである。

仏教では「一切皆空」ということがよく言われる。それは、「固定的な日本という国は存在しない」というような思想である。もちろん、「固定的な中国」や「固定的なアメリカ」も存在しない。それはつまり、人々を日本人であるとか中国人であるとかいうレッテルで差別しないということなのだ。これこそ仏教の根本中の根本原理で最も重要な視点である。

必然的に真の仏教者であるならば戦争には絶対賛成できないことになる。たとえば中国と戦争をするということは、「日本人を守るためならば、中国人を殺すことはやむを得ない」ということに他ならない。レッテルによって人の命に優先度をつけることは仏教徒にはできないはずなのである。

日頃、「色即是空」だとか「本来無一物」だとか高踏的なことを言っている同じ口で、「素直に日本は戦争する権利を自ら認め、‥」などと生臭いことを平然と言えるのには著しい違和感を感じる。

人はとかく国家や民族の意思といったものが存在するかのように錯覚する。共同幻想とはよく言ったものである。一口に日本人といってもいろいろあるのだ。その中には、たとえ自分は殺されるとしても他人を殺す側にはなりたくないと考える人もいる。しかし、そういう人々もひとたび国家が戦争をすることになれば、自動的に「殺す側」に組み入れられてしまう。交戦権を持つということはそういう不合理を人々に強いるのである。

もう少し現実的な話をしてみよう。日本が集団的自衛権を結ぼうとしている当の親密な国である米国は、ベトナムやイラクやアフガンで何をしてきたかを思い起こしてみよう。

安倍首相は、軍事的専門家が非現実なケースと評価する奇妙なパネルを持ち出して、日本が米艦船を守る必要性を訴えた。しかし、世界最強の米艦船が他国の先制攻撃を受けたことはない。むしろトンキン湾事件のように実は米国からの挑発であったというような実績がある。のこのこと米国からの要請を受け入れたりすれば、大義なき戦いに引きずり込まれる可能性が多分にある。ベトナムでは結局、大勢の人々を殺戮しただけで、何の成果もなく撤退した。集団的自衛権により米国に従ってベトナムに出陣した韓国軍は、当時の非道な行為を今も非難されている。同じ轍を日本が踏まないという保証はあるのだろうか。

イラク戦争ではフセインを倒し、一応戦争には勝利した。しかし、大量破壊兵器は見つからず、大義なき戦いであったことが戦後に発覚してしまった。米兵4500人と(少なくとも)6万人のイラク人の犠牲の上に獲得したものは、より大きな内乱状態を招いただけで、結局手に負えなくなって逃げ出してしまった。アフガンからも同じような状況のまま撤退しようとしている。

第2次世界大戦後のアメリカの世界戦略を顧みれば、結果的に軍産複合体に引きずられた跡がまざまざと見える。結局は、アイゼンハウアーが大統領辞任時に警告した通りになっている。

自分の祖国が正義の国であると信じていたいのであれば、集団的自衛権に関してはよくよく考えてみる必要がある。

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