禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

意味は言葉をすり抜ける?

2023-07-30 20:27:04 | 雑感
  前回記事では私の表現方法がつたなくて、記事を読んでいただいた人になかなか意味が伝わらなかったような気がするので、もう少し言葉というものについて掘り下げてみたい。言葉はわたしたちの思考を支えるものであるから、無意識に使用できるほどのものでなくてはならない。いちいち吟味しながら言葉を選ばなくてはならないようでは用をなさないのである。つまり逆に言えば、あたかも「言葉=思考」のごとくであるかのように言葉を使用している。

 つまり言葉を発した時には、既にもうその言葉は発言者にとって自家薬籠中のものであり、いささかの迷いもなくその言葉を使用しているのである。受け手側もそのような前提に立って言葉を受け取る。だから、「大谷翔平はまた新たな金字塔を打ち建てた。」と言われても、「金字塔って何?」と話の腰を折ったりしない。状況から見て、大谷選手の偉業を形容する例えであることは間違いない、「金字塔」の中味というかもともとの意味はそのまま素通りして通用してしまうのである。(ちなみに「金字塔」とは「金」という字の形の塔すなわちピラミッドのことである。)プライドを傷つけられた場合に、「俺の沽券にかかわる。」というような言い方をすることがある。おそらくこの「沽券」の意味を知っている人は少ないだろうと思う。私も最近時代劇を見ていて初めて知ったのだが、江戸時代の土地の権利書のようなものらしい。しかし現代では誰も「沽券」の本来の意味を問題にする人はいない。

 言葉はその用途からして円滑に使用されなくてはならない。だから「金字塔」や「沽券」の中身は素通りして、使用された状況から自然に言葉の意味が生じてくるというような事情があるのだろう。それが「金字塔」や「沽券」のような具体物である場合であれば、それほど問題がないだろう。使用される局面が限定的であるからである。もともとの言葉が抽象概念であるときは少し問題があるように思う。以前も取り上げたことがあるが、「ダイナミック」とか「ナイーブ」などという外来語にはもともと原産国における確定した意味があるわけである。ところが日本で使用されたとたん、その「使用された状況」に応じて新たな「意味」が生じてくるのである。英語の dynamic や naive は日本語の「ダイナミック」や「ナイーブ」とは別の言葉だとしてしまってもよいが、英語を勉強した人からすればそれは納得しがたいのではなかろうか。

 dynamic は動的なものを形容する時に使用される。ところが日本語の「ダイナミック」はどうも「スケールが大きい」というような意味で使われている場合が散見される。例えば、岬の先端の高台から海を見つめながら「なんてダイナミックな水平線だ!」などと言ったりする。もしかしたら、その人は水平線を見て地球の力動を感じているのかも知れないが、普通は静止しているものに dynamic という言葉を使用することは適切ではない。 dynamic はダメだが「ダイナミック」ならいいではないかと言われれば悩ましいが‥‥。
 
 「ナイーブ」という言葉は「ダイナミック」より大きな問題を有しているように私には思える。ちなみに「ナイーブ」をコトバンクで 検索してみると次のような意味となっている。
  
① 人の性格、感じ方、考え方などが、生まれつきのままで素直なさま。純真。また、感じやすい性質であるさま。
② 事物に手のこんだ飾りや技巧がなく、単純なさま。素朴。

「純真」とか「素朴」は問題ないが、「感じやすい性質であるさま」の部分に非常に大きな問題がある。日本語のナイーブはそこのところ重点が置かれて「繊細な」という意味で使用される場合が多いように見受けられる。ところが英語の naive は純真や素朴の延長線上としての世間知らずや無神経や無知というネガティブなニュアンスが含まれている。"He is naive." と言われれば、「彼は繊細」どころか実は正反対の意味で言われていると解釈すべき場合が多いのである。テレビで発言するような人は英語に通じている人が多いので、「ナイーブ」を naive の意味で使用する場合が多いように見受けられる。しかしそれを「繊細な」と解釈すると意味的にはかなり違っているにもかかわらず文脈的には矛盾が生じないために、発言者の意図とは別の受け止め方がされていると思われる場合が生じる。そういう場合に私はとても居心地の悪さを感じるのである。
 
 自分の発する言葉については、(主観的には)常に言葉と意味は不可分に結びついている。またそうでなくてはわたしたちは滑らかに思考することもしゃべることも出来なくなるであろう。しかし言葉と意味の関係性を保障するものは実はどこにもないのである。言葉と意味に絶対的な関係性は無いという意味である。言葉は公共のものでありながら同時にその運用は常にある程度は恣意的なものとならざるを得ないという矛盾から逃れることはできないということである。この記事のタイトルを「意味は言葉をすり抜ける?」としたが、もしかしたら「言葉が意味をすり抜ける」のかも知れない。言葉は常に浮遊しているのである。

 レストランに行けば、ウエイターが「こちらハンバーグになります」と言う。私は思わず「何がハンバーグになるんですか?_」と訊ねたい衝動を飲み込む。実際に聞き返したりしたら、彼はけげんな顔をして「このじいさん一体何を言ってるんだ?」となるだろう。言葉とその意味を結びつける絶対的な関係というものは存在しない、にもかかわらず主観的には「言葉=意味」なのである。そういう意味において人は自分の言葉を疑うことが出来ない。そういうところから世代間、集団間の相互の言葉に対する違和感は必ず生じる。

 さて前回記事の「愛を愛を・・愛して・・」 に話題を戻そう。問題は「愛」がきわめて抽象的な概念であることである。何度も繰り返すが、人は自分の話す言葉は(無意識の内に)意味そのものであると信じている。だからいったん言葉を口にしたら、何かを言えた気分にはなる。しかし「愛」という言葉は抽象度の高い言葉である。色々な局面でいろいろな意味で使用されうる言葉である。ただ漠然と「愛を、愛を・・」と連発されると、私は「愛っていったいなに?」と問い返したくなる。これが、「ビフテキを、ビフテキを、ビフテキを食べたい。」というのなら話は分かる。その人はビフテキが好きでビフテキを渇望しているのだろう。しかし、「愛を、愛を・・」と「愛」という言葉に意識を集中すればするほど、その意味が分からなくなるような気がする。

 「彼のことを本当に愛していたのかどうか、今となってはよく分からない。」と言った人がいるとする。しかし、私はその人が「愛していた」という言葉をどういう意味で使用していたのかを先ず問題にすべきだと思う。抽象的な言葉は漠然と放たれていることがあるからである。学術用語などについて考えれば理解しやすいと思うが、一般に抽象的な言葉はできる限り限定的に使用することが望ましいということは言えると思う。

空青し 他郷の蝉も 同じ声 (御坊哲)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛」が多すぎる?

2023-07-16 06:45:11 | 雑感
 「らんまん」は植物学者・牧野富太郎先生の伝記をもとにした物語である。私は毎朝NHKでこのドラマを見ている。 が、少し気になるのはその主題歌のことである。やたら「愛を愛を・・愛して・・」と「愛」が多過ぎるのだ。楽曲そのものは悪くない。才能のある人が作っているのだろう。だから私がつけるケチに対して反発を感じる人も多いかも知れない。しかし、実際にその歌を傾聴すればするほど「いったい何を歌っているのだ?」と言いたくなるほど意味が分からなくなり、連発される「愛」に対して反発したくなる。

 「愛」というのは本来の日本語つまり大和言葉ではない。もともとは仏教用語として伝来したものに対して、明治時代に "love" の翻訳語として転用されるようになったのである。仏教用語としての「愛」は愛欲すなわち煩悩の一種であり、歌に歌われるようなポジティブなニュアンスではない。一般に外来語は大和言葉のように実感の伴う言葉ではないので、それを使うとどうしても抽象的な話になってしまいがちなのである。難しい漢語やカタカナ言葉を多用した文章は、それなりになにか語っているように見えても実質的な意味に乏しい場合が多いのである。「あなたを愛しています」と手紙には書けても、直接面と向かって声に出して言うことは(普通は)できない。抽象的な外来語は手紙という実感から少し突き放した文語文には適用できても、直接相手に実感を伝える口語文には適用しづらいのである。

 件の主題歌では「愛を愛を」とまるでそれが掌にある具体物であるかのように謳っているが、もともと抽象概念をそのように扱うことに無理があるような気がする。ある意味、それはそれで何かを伝えようとして格闘しているともとれるが‥‥。まあ、所詮歌は歌である。なにもそんなしゃちこばった理屈で文句をつけんでもええやないか、と言われればその通りである。

スターバックス1号店前で(記事本文とは関係ありません)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

著しく正義に悖る

2023-07-10 06:29:42 | 政治・社会
 いわゆる「袴田事件」の再審公判において、検察側は有罪立証する方針であるらしい。本日(7/10)中にもその方針を再審公判が行われる静岡地裁に伝えられるものとみられている。

 この事件についてはいろんな人がその研究結果を発表しているが、それらを読む限りこれは冤罪以外のなにものでもないとしか思えない。なぜ袴田さんが事件の容疑者として浮かび上がったか? それは、元プロボクサーだったから。「ボクシングやるような粗野な奴だから‥‥」というイメージによる思い込み以外に、彼を犯人と決めつける要素は何もなかったのである。彼にとって有利な証拠をすべて避けるような不自然なストーリーがでっち上げられ、そのストーリーに沿って証言を誘導していった。そうとしか考えられない。そして唯一の決め手となる物証がなんと逮捕から約1年後にみそタンク内で見つかった「5点の衣類」で あった。しかし、それも今年の三月に東京高裁によって、逮捕後に捜査機関によって捏造された証拠の可能性が「極めて高い」と指摘されたのである。

 もはや有罪判決が出る見込みはあるはずもない。検察は一体どうやって有罪を立証するつもりなのか? 有罪立証へのモチベーションがどこから出てくるのかが外部のものには皆目分からない。「組織の惰性」というしかないようなものの仕業としか思えない。検察は半世紀以上も前の事件について新たな証拠を揚げることができるのか? 袴田さんはすでに87歳である。このままずるずると時間切れを狙っているとしたらそれは罪深いことである。
 
 もしねつ造した証拠によって無実の人を罪に陥れたなら、それは立派な犯罪である。半世紀以上に渡るその人の人生を奪うという、金品を奪うなどというのとは比べようもない重篤な犯罪である。2014年の静岡地裁による再審決定の際には次のような意見が付け加えられていた。
 《5点の衣類という最も重要な証拠が捜査機関によって捏造(ねつぞう)された疑いが相当程度ある。国家機関が無実の個人を陥れ、身体を拘束し続けたことになる》
 《拘置をこれ以上継続することは、耐えがたいほど正義に反する。一刻も早く身柄を解放すべきである》

 裁判所がここまで踏み込んだ意見を付け加えているのである。検察が裁判に負けることを恐れて、いたずらに審理を引き延ばそうとしているのならば、それは他人の人生を奪うという犯罪に加担しているのと同じであって、著しく正義に悖る行為であると言わねばならない。 2011年9月に最高検察庁が策定し公表した『検察の理念』なる文書がある。検察の使命と役割を明確にし、検察官が職務を遂行する際に指針とすべき基本的な心構えを示したものだが、その中に下記の一文が含まれている。

 ≪ あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処罰の実現を成果と見なすかのごとき姿勢となってはならない。≫

このような自戒を規定しているにもかかわらず、依然として「有罪そのものを目的」としているかの如き姿勢が見受けられるのはなぜだろう。その動機の源泉となっているものを私は知りたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする