禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

なんでも鍛えれば強くなるか?

2018-10-31 09:44:07 | 哲学

オリンピックで金メダルを獲得するには、われわれ常人の想像を超える精進をしなければならない。素早く正確に脚や腕を動かすには、同じ動作を何度も反復しなければならないし、強い筋力を得るためには負荷をかけて運動しなければならない。

強い肉体が生存競争に有利に働くのなら、訓練しなくとも強い筋肉と鋭い運動神経が自然と備わるようになっていればよいと思うのだが、そうはなっていない。それはおそらく我々の祖先が長らく飢餓の時代にさらされてきたからだろう。乏しい栄養は、まず生存に必須な脳や内臓に供給される、その残りが筋肉などに振り向けられるのである。限られた資源を不必要な部分にまわすわけにはいかない。そんなわけで使用頻度の低い部分の筋肉はやせ細ったままとなる。

何を言いたいかというと、ともすれば我々は「鍛えること」そのものに価値を見出したがるが、進化論の教えるところはかなりドライであることを言いたいのである。もともと我々の体には強くなる潜在能力が備わっている。しかし、その潜在能力を抑制する仕組みも備わっている。鍛えるというのは強さを直接引き出すのではなくて、その抑制を取り除くことによってもともとあった潜在力を開放するのだということである。つまり、我々は「鍛えれば強くなる」という性質を獲得しているのではなくて、「鍛えなくてはあえて強くはならない」という性質をもつことによって淘汰の網の目を潜り抜けてきたのである。

 

私は若い頃にアマゾン河口のベレーンという町に行ったことがあります。そこで、ある日本人のAさんと知り合いました。Aさんの娘さんは現地の日本語学校に通っていました。ある日、その学校の授業で先生が「生水は飲まないで、必ず煮沸してから飲みましょう。」と言ったらしいのです。そのことを聞いた、Aさんは早速学校へ抗議に行ったそうです。言い分はこうです。「先生たちはいずれ日本に帰って清潔な環境できれいな水を飲んで暮らすのだろうけれど、うちの娘はこのアマゾンで生きていかなければならない。そんなひ弱な事を云っていれば、ここの土地で生きていけない。余計なこと教えんで貰いたい。」とやったらしい。

 

結構説得力ありそうです。現に現地の子供もみんな生水を飲んでいて平気です。Aさんに限らず、私たちは環境に適応する能力があると考えているし、実際にそれはあります。風邪をひいたら免疫ができるし、毎日力仕事をすれば実際に筋肉が発達します。
でも、生水の細菌に対する抵抗力はどうでしょうか。私たちの先祖が生き抜いてきた環境を考えればある程度の抵抗力はあると考えてよいでしょう。鍛えれば強くなるのかもしれません。
でも、鍛えられる前に重篤な状態を招く可能性も十分あります。問題は日本人がアマゾンの水に鍛えられることではなく、Aさんの娘さんが生き残れるかどうかということです。日本は昔から水のきれいなところです。現地の子供に比べて生水には弱いと考えられます。確かに現地の子供はみな平気で生水を飲んでいるけれど、彼らは既に自然淘汰のふるいにかかって残った人の子孫なわけです。現地人でも胃腸の弱かった人は既に死に絶えてしまっているわけで、現地人の生水に対する耐性については、個人が鍛えられたというよりも、遺伝的に強い人間だけが生き残っていると考える方が理に適っています。

日本人が百人いて現地の生水を一生飲み続ければ、そのうちの一人くらいは赤痢なんかで死んでしまうような気がします。やはり、Aさんは娘さんに生水を飲ませないことが正解だと思います。もっとも、これはずいぶん昔の話で、今は現地ではみなミネラルウォーターを飲んでいると思います。

ナザレ大聖堂にて(ブラジル ベレーン)

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「善」は定義できるか?

2018-10-30 05:16:29 | 哲学

絶対善の定義を見つけたという人がいる。それは「種族の繁栄のためになることをする」ことだというのだ。確かに、われわれが「善し」とすることがらを一つひとつ検討すれば、それはことごとく集団の利益につながることと考えられないこともない。しかし、「現実にそうである」ことをもって、「そうすべきこと」としてしまってよいのだろうかという疑問はある。 

蜂や蟻ならばそれを絶対善の定義としても差し支えないかもしれない。彼らは常に巣を単位とする集団の為に尽くしている。必要とあれば自分の実を犠牲にすることもいとわない。その行為には一片のためらいもブレもないのである。彼らにとっては、「本能=善」である。進化論的に考えればそれも当然である。蟻も蜂も、同じ女王蜂から生まれた兄弟姉妹で巣を構成する。巣単位に淘汰圧にさらされるからである。 

人間も社会的動物であるから共同体単位で淘汰圧はかかるが、同時に個体単位でも淘汰のふるいにかけられる。集団単位の闘争になれば、犠牲的精神をもつ個体が多いほどその集団が生き残る確率が高くなる。しかし、その集団内では利己的にうまく立ち回る個体の生き残る確率が高くなるのである。ここにわれわれ人間の不幸がある。我々は皆、公のために犠牲になることを美徳としながらうまく立ち回ってきたものの末裔なのである。 

私の伯父は特攻隊の生き残りであった。特攻隊に選抜されたところで終戦になったのである。伯父が言うには、クラス全員が特攻隊に自由意志で志願したのだそうである。「死にたくない」などと言う臆病者は一人もいなかったらしい。なるほど全員が同じように献身的であれば、誰が生き残っても献身的な遺伝子の減少は防げるので問題はないはずだが‥‥。特高志願した伯父は「心底純粋な気持ちで志願した。」と胸を張って言ったのだが、しかし、彼の母である私の祖母の見方はもっと現実的である。「選抜されたのは皆貧乏人の子供ばかりやった。あのときの教師の顔は死んでも忘れへん。」  

人間は犠牲的精神だけをもっているのではなく、自分だけ生き残りたいという利己的な意志やそれをけん制するセコイ精神も併せ持っている。私達はそういうアンビバレントな存在であるから、「公のために尽くすことが絶対善である」と言っても、それは偽善である可能性が多分にある。そもそも、つくすべき「公=集団」の本質というものを規定できるかが疑問である。戦時中は国家という公のために命を差し出すのが最高善とされていたけれども、それは人類全体という公のための貢献にはなっていない。 

そして、時には罪を犯した肉親や友人ををかばったりすることも美徳に見えたりする。人間は一筋縄ではいかない複雑さをもっている。絶対善はそう簡単に定義できるものではないだろう。

上賀茂神社

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「世界」という言葉

2018-10-29 05:30:37 | 哲学

「なぜ世界は存在しないのか」という本のタイトルが以前から気になっていたが、読みかけの本がたくさんあるので、なかなか手が回らない。で、先日本屋で頭の50頁ほど立ち読みしたのだが、なかなか面白そう。「新実在論」とやらについては皆目見当もつかないが、とりあえず、不思議なタイトルの謎については大体理解できた(と思う)。 

われわれは何気なく「世界」という言葉を使用しているが、その言葉の意味はそれほど明晰ではない。それはあらゆるものを含む言葉とされているが、論理の世界においては、この「あらゆる」というのはかなり問題含みの言葉である。というのは、未だ遭遇したことのないもの、考えたこともないものまで含んでいるとされるからである。端的に言うと、「世界」には私の知らないものまで含まれている。厳密に言えば、私は「世界」という言葉をその指示対象がなんであるかを分からないまま使用しているのである。 

「あらゆる盾をつきとおす矛」と「あらゆる矛を撥ね返す盾」は明らかに両立しない。それぞれ単独であれば概念として成立しているかのように見える。しかし、「あらゆる」は私の想定外のものまで含めてしまうので、「あらゆる盾をつきとおす矛」という言葉が意味するところを、実は私は知らないのである。 

「世界」という言葉もそのような類の言葉である。つまり、私が口にする「世界」というようなものは実は存在しない。 

ウィトゲンシュタインは、「世界とはものではなく事実の総体である」と言っている。彼の言う「事実」というのは真なるものという意味である。真であるためには論理的に明晰であらねばならない。論理的に経験可能でなければ真偽を問えない。しかし、日常語としての「世界」は論理的に不可能なものまで含んでいると考えられるのである。

当該本については今年中に読んで、その内容についてもご報告したいと考えている。

先週久々に冠雪の富士を見た。


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クォリアって何?

2018-10-26 09:29:04 | 哲学

今朝、妻が唐突に「クォリアって何?」と訊ねてきた。最近、妻は恐山の南直哉さんのブログを読んでいる。そこでその言葉を見つけたらしいのだ。

私は、「今、君が見ているもの感じているもの、例えば、そこにある赤い包装紙のそのありありとした赤さを実際に観ているでしょ。その赤そのものがクォリアだよ。」と答えた。 
すると妻は、「うーん、ちょっとわからないわ。それなら、ただ『赤』と言えばいいだけじゃないの、わざわざクォリアなどという必要はないのじゃないの?」 
それで私は、「私達の見ている空の青さは、物理学では説明できない」式の説明をしたのだが、妻は「分かったような気もするけれど、やっぱりわからないわ。」と言う。 

クォリアが分かりにくいのはあまりにも身近過ぎるからだと今まで思っていた。だからあえて、「この赤」というふうに、その身近さを気付かせようと「この」をつけて表現することが多い。 
しかし、「それなら、ただ『赤』と言えばいいだけじゃないの?」という妻の言葉がここで、ちょっと引っかかってきたのである。よくよく考えてみれば、われわれが経験について述べている場合、すべては「クォリア」について言及しているのである。そもそもクォリアの「身近さ」を気付かせる必要などあるだろうか? 

わざわざ「クォリア」と言うのは、私の意識の中にあるものは私秘的なものである、ということを改めて提示したいからであろう。つまり、私達は無意識のうちに自分の意識も他人の意識も同じようなものだと考えているが、実は私は他人の意識の内には入れないし、他人は私の意識の内には入って来れない。そういうことから、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である」というようなことがあり得るのではないかという想定が可能になる。だとしたら、私の今見ている「赤」は単に公共の言葉である「赤」で表現するだけでは不十分で、やはり「この赤」とか「赤のクォリア」というふうに表現したくなるのである。 

しかし、ウィトゲンシュタインは「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である。」ということを言う人はその言葉の意味を理解していない、というややこしいことを言い出した。一般に有意味な命題というものは真かまたは偽のどちらかでなくてはならない。そして、その命題の意味を理解しているということは、どういう場合に真であるか、どういう場合に偽であるかということを知っているということでなくてはならない。例えば、「雪は白い」という命題が真であるとは、雪が白い場合であることをしっていれば、「雪は白い」という命題を理解していることになる。 

ところが、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である。」という言葉の問題点は、私が「他人の見ている『青』」にアクセスできないというところにある。私には、「他人の見ている『青』」という言葉がなにを指しているのかということが根本的に理解できない。「他人の見ている『青』」と言いながら実は「自分の見ている『青』」に置き換えながら想像してしまうのである。つまり、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』かもしれない」というような想定が一見成立するような気はするが、その言葉がどのような事態を意味しているかは誰も知りえないのである。 

恋人たちが海辺で夕日を眺めているとする。彼氏が「夕日が赤いね。」と言う。そして彼女が「そうね、本当に赤いわね。」と答える。この時二人は、同じ世界にいて、同じものを見つめていることを確信しあっている。そして、言葉を通じて、夕日が赤いことの客観性をも確認しあっているのである。この時一方の「赤」が他方の「青」であるというようなことはあり得ない。二人とも間違いなく「赤い」夕日を眺めているのである。公共言語における「赤」の意味はそれ以上でもそれ以下でもありえない。 

以上のように考えてみると、「クォリア」という言葉の存在論的価値というものがかなりあやしいものと言わざるを得ないような気がする。

横浜 大桟橋からみなとみらい21を見る

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小林秀雄の歴史観について

2018-10-22 04:30:43 | 雑感

【 上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かつて飴のように延びた時間といふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思へる。( 無常といふ事) 】  

歴史というものを事実を年表に書き込んだものと考えるというのは確かに浅薄というものだろう。しかし小林自身がのべているように、上手に思い出す事は非常に難しいのである。「蒼ざめた思想」を拒否するということと、主観的になりすぎるということは全く別のことである。  

 小林秀雄に戦争を追随するような発言があったことはよく言われているし、そのいくつかは私も承知している。しかし、誰にとってもその時代精神を乗り越えることは易しいことではないし、自分の属する共同体に忠誠をつくすということは一概に否定しきれるものではない。戦後育ちの私が当時の彼を批判するというのはフェアーではないと思うが、中にはそのまま見過ごすという訳に行かないものもある。

【 日本の歴史が今こんな形になって皆が大変心配している。そういう時、果たして日本は正義の戦いをしているかという様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。 (歴史と自分) 】

日本人でありながら「日本は正義の戦いをしているか」という問いをもつ、真に歴史を知るにはそのような視点をもつことはむしろ必須である。自分自身をも相対化することなしには評論だって成り立たないのではないかと思う。「~という様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。」という発言は明らかに言い過ぎである。 

【 僕は、終戦間もなく、或る座談會で、僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいゝだろう、と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。‥‥    自分の過去を正直に語る爲には、昨日も今日も掛けがへなく自分といふ一つの命が生きてゐることに就いての深い内的感覺を要する。從って、正直な經驗談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である。(月刊「サロン」昭和24年6月号) 】

敗戦後、手のひらを反すようなことを言い出した知識人に対する反発は理解できる。私も小林に転向して欲しいなどとは思わない。うすっぺらな偽善は小林秀雄には最も似つかわしくないものである。ただ、他人に対して「歴史が分かっていない」と大言壮語したことは反省して欲しいと思っている。戦争を支持したものとしては、日本の敗戦を自分の敗北として受け止めて欲しいのだ。「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」と居直ったりしないで、もっと彼には敗北に打ちひしがれて欲しかった、そしてそのことには口をつぐむ。それがインテリゲンツィアとしての矜持というものではないか。小林秀雄の一ファンとして、私は切にそう願うのである。

【 僕が論理的な正確な表現を軽蔑していると見られるのは残念な事である。僕が反対して来たのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである。 (中野重治君へ) 】

 論理を装ったセンチメンタリズムがくだらないものであるには違いないが、非論理的なロマンチシズムもまた有害である。一部の小林ファンには、まるでカルトを信じたがるように小林の非論理的な部分に惹かれる面が無きにしも非ずである。小林秀雄はある講演の中で、大野道賢(道犬)の処刑の際のエピソードを信じていると述べているが、明らかに当時の軍国主義にあおられた精神主義と批判されても仕方がないような内容である。(=>『小林秀雄とリアリティについて』) あえて、非論理的なものを信じたがる風潮を助長するべきではないと思う。

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