禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

百丈野狐(不落因果・不昧因果)

2016-06-29 10:25:33 | 哲学

無門関の第二則である「百丈野狐」の公案を「臨黄ネット」より引用します。

百丈懐海禅師が、講座上で雲水達に向かって説法する時、いつも雲水達の後で静かに坐って聞く一人の老人がいました。

 講座が終わると老人も雲水と一緒に退出しますが、ある時、老人は退かず一人残ります。百丈和尚は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。

 老人が答えます。「実は、私は人間ではありません。ずうっと昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代、この寺の住職でしたが、ある時、一人の修行者が質問しました。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』と。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えました。その答えのゆえに五百生(五百回の生まれ変わり)もの長い間、野狐の身に堕とされました。なにとぞ、憐れと思うて私に代わって正しい見解をお示し下さい」と懇願します。

 老人は威儀を正して、「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」と問いかけます。
 百丈和尚、即座に、「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えます。
 老人は言下に大悟して野狐の身を脱します。

 

悟りを開くと自在の境地を得ると言われています。「修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるか?」と問われて、老人は「不落因果――因果の制約を受けない」と答えて、狐にされてしまった。それで、その狐となった老人は百丈禅師にどのように答えるべきだったかを訊ねたところ、百丈は「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えた。それを聞いた老人はたちどころに大悟して野狐の身を脱したという。

では、老人は最初から「不昧因果」と答えればよかったのだろうか?おそらくそうではないでしょう。この問題の本質を理解せずに、「不落因果」と独断してしまった、それが問題です。

ここでちょっと西洋哲学の方に目を転じてみましょう。ニュートンが万有引力の法則を発見し、いわゆるニュートン力学を完成すると、西洋哲学は非常に大きな問題にぶち当たりました。すべての現象が物理学によって説明されるのではないかと考えられたからです。もし人間の精神活動も脳内で起きている科学現象に還元されてしまうとしたら、人間に精神の自由はなくすべては機械論的世界観の中に組み込まれてしまいます。

プロシアの哲学者カントは、理性の限界について論じるために、4つのアンティノミーというものを提示しています。アンティノミーというのはふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態のことです。カントは以下の4つのテーマについてそれぞれ背反するテーゼとアンチテーゼが同時に成立することを証明しています。

 ① 世界の時間的な始まりと、空間的な限界があるのかどうか
 ② 世界の究極的な構成要素としての最小単位があるのかどうか
 ③ 人間の自由に基づいた因果関係があるのかどうか
 ④ 必然的な存在者(神)は実在するのか

上記のうちの3番目のアンティノミーが百丈野狐と同じ問題をテーマにしたものです。そのテーゼとアンチテーゼを中山元先生の訳で以下に引用します。

(テーゼ) 自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。現象を説明するためには、自由(意志)に基づいた因果関係についても想定する必要がある。

(アンチテーゼ) 自由(意志)というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則によって生起する。

テーゼが不落因果、アンチテーゼが不昧因果に相当するものと考えれば、これはまさに「百丈野狐」の公案でしょう。ちなみに、カントは他の三つのアンティノミーについてはテーゼもアンチテーゼもともに否定的に考えていましたが、この第3アンティノミーについてだけは肯定的にとらえていたようです。

≪このようにして自由と必然は、同じ行為について、それを叡智的な原因と比較するか(その時行為者は自由である)、感性的な原因と比較するか(その時行為者は自然の法則にしたがう)によって、いかなる矛盾もなく、その本来の意味において両立するのである。≫(純粋理性批判第2版569頁=中山元訳「純粋理性批判5 P.248)

正直に告白すると、2年前から純粋理性批判の同じところを何度も読んでいるのですが、第3アンティノミーについては今のところカントの思索を克明にたどるには至っておりません。今回は禅仏教と西洋哲学が同じ課題に重要な関心を持っていたことを紹介するにとどめたいと思います。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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イデア論 VS 無常観(空観)

2016-06-17 09:16:18 | 雑感

前回の記事で、実存主義者の言うところの本質とはイデアのことであるというようなことをのべたので、今回はこのイデアについて考えてみたい。

昔から哲学では、真・善・美が主要なテーマとして論じられてきたが、プラトンは真、善、美がそのものとして存在すると考えていた。存在と言っても、それらは現実存在(existentia)としてではなく本質存在(essentia)として、形而上の領域に存在すると考えていたのである。

ローマの休日のオードリー・ヘプバーンは実に美しい。三保の松原から眺める富士山も美しい。ヘプバーンと富士山は全く違うものなのにともに美しいのは、その中に美そのものを宿しているからだ、とプラトンは考えた。真・善・美だけではない、あらゆる現実存在としての個物には本質存在としてのイデアが宿っていると考えられたのだった。例えば、現実に存在する人間はどの人もそれぞれ違う人間であるのに、どの人も人間であるとわかるのはそれぞれの人が人間のイデアを宿しているからだというわけである。

人間のイデアはどの個別の人間とも違うが「人間そのもの」ともいうべき人間の範型である。それは時空にかかわらず存在するものであるから、人類が出現する以前からあり、人類が滅亡しても存在し続ける。このイデアの永遠不滅性が大乗仏教の無常観と相いれない。

仏教は無常と空を根本原理とするが、抽象観念においては永遠固定性を認める諸派もある。しかし日本に伝わった大乗仏教においては、始祖である龍樹(ナーガルジュナ)の空観は徹底していて、いかなる固定観念も認めない立場をとっている。イデア論とは真っ向から対立するのである。

世界は常にダイナミックに流動しているのであり、一瞬も同じ形をとどめることはない。龍樹の世界観では、現実存在としての個物というのは、流動する世界の中に現れる比較的安定的なパターンというようなものでしかない。たとえて言えば水の中の渦のようなものである。渦の中の水は絶えず入れ替わっており、渦の実体と考えられるものは本当はないのである。人間も実は同じようなものである。人間は外部から空気や水や栄養を取り入れ、内部に循環させて排出する。人間を構成する物質は絶えず入れ替わっており、固定的な実体と言えるものはどこを探してもないのである。水の中にできる渦より多少複雑で安定はしているというだけのことでしかない。

龍樹の固定観念を排する視点は物質的なものにとどまらずあらゆる観念に及ぶ。例えば「走る」という言葉などもその実体はないと考える。我々は「人が走る」、「馬が走る」、「稲妻が走る」と「走る」を同じように使うが、それらの状況は実は全然別のものである。「人が走る」ということについても、交互に片足ずつジャンプしながら前に1センチずつ進んでいくさまを普通「人が走る」とは言わない。1センチではなく1メートルなら「走る」と言ってもよいかもしれないが、「走る」と「走ってはいない」の境界がどこにあるのか判然とはしない。同じ人が走っても、微細にみればその時々によって実は全然違う動作をしているのである。

龍樹は言葉を一種の方便だと考える。他者に何かを伝えるには言葉しかないのであるが、それは社会生活を営む上での最低限のことしか伝わらない。言葉はしょせん言葉でしかなく、それに頼りすぎると本当の世界を無理やり定型的な範型に押し込めることになってしまう。本当の世界は言葉では表現できないほど玄妙であり充実している。そういう視点からみれば「不立文字」ということも当然のように理解できるのである。「あるがまま」とは世界の玄妙さを、概念のフィルターを通さないでそのまま受け止めるということである。「柳は緑、花は紅」というのも、あえて凡庸な表現によって世界の充実を暗に示しているのである。この世界の玄妙さはしょせん言葉では伝わらない。

「始めに言葉ありき」のロゴス的世界観と大乗的世界観は全く違うのである。

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実存は本質に先立つ

2016-06-11 10:18:30 | 哲学

今回は実存主義というものを仏教との関連において考えてみようと思う。実存という言葉は"existentia"の訳語である現実存在を短縮したものであるといわれ、本質(essentia)に相対する概念である。

本質というのは、「あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質」とされている。人間についていえば、個々の人間は誰をとっても違う白人と黒人では見た目も大きく違う。しかし、どの人間を見てもそれが人間だとわからしめる、それが人間の「本質」だということなのである。つまりそれはどの個別の人間でもない普遍的な人間であるもの、プラトン流にいえば「イデア」のことである。

古代の哲学はものごとの本質、つまり普遍的な真理を追い求めていたのであるが、実存主義というのは現実に存在する〈私〉にとっての真理を求めようというものである。それはものを見る視点を客観視点から実存視点への切り替えを意味する。

実存視点を主観視点と言わないのは、「主観」という概念自体が客観世界の中に位置づけられたものだからである。主観に徹すれば客観も主観もそこにはない、所与のものとして未既定の実存があるだけである。

未既定の実存が〈私〉であるならば、〈私〉は何者でもないものである。そこに何者かとしての「本質」はない。〈私〉が何者であるかは具体的に生きることを通じて決定されるのである。

実存主義者は「本質」というものの存在を全く無視するか、少なくとも重視はしない。概念というものはすべて関係性の中で恣意的に決められるものだからである。このことは龍樹以来の大乗仏教と大いに通底する。龍樹はあらゆる固定観念を否定する。「すべては空である」というのは普遍的な「本質」というものが本来はあり得ない、という意味であり西洋的な本質追及主義=プラト二ズムとは真っ向から対立する。

ボーボワールの「人は女として生まれるのではない。女になるのである。」という言葉もこのような視点からみるとよく理解できる。女という概念も恣意的に決められた固定観念に過ぎないからである。華厳的に表現するなら次のようになる。

「女は女にあらず、これを女という」

※関連記事 「私は男でもありまた女でもある」
「お釈迦様は実存主義者」


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