禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

輪廻転生について

2017-05-23 08:12:34 | 仏教

元外務官僚の佐藤優さんはとても頭のいい人で話も面白い。「ゼロから分かるキリスト教」というのを読んだのですが、内容は結局というかやはりというかさっぱりわからなかった。キリスト教の知識がゼロなのに、シュライエルマッハーがどうのカール・バルトがどうのと言っても分かるわけがない。 分からないのに面白いのはやはり語り口が巧みだからだろう。

それはそうと、仏教について次のように述べられていたのがちょっと引っかかってしまった。 

《 仏教の場合は原罪観はないけれども、中観においても、とくに唯識においても、人間は悪に傾きやすいという人間観を持っています。われわれは輪廻転生を何度も繰り返しているわけです。もしかしたら前世はサソリだったかもしれないし、その前はミミズだったかもしれないし、或は仙人だったかもしれない。天女だったかもしれない。いろんな輪廻転生がある。でも、私がかつてミミズだった時の記憶、皆さんがかつてトカゲだった時の記憶は今残っていない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」とかいう記憶は残念ながら残っていないのだけれど、それはわれわれが思い出せないだけで、大きなわれわれの無意識の中には残っているんだと、仏教は考えるわけ。》 (P.114) 

輪廻転生ということはよく言われるが、おそらくそれは仏教本来の考え方ではない。釈尊の教えはそのような超越的な物語とは相いれない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」という記憶が大きなわれわれの無意識(阿頼耶識)の中には残っていたとして、誰がそのようなことを確かめたのか疑問だし、そのようなことから生産的な思想が生まれてくるはずもない。 このようなヨタ話から仏教を語り、ひいては日本人の精神文化まで語ってしまうことには問題がある。

世界は有限であるが無限か、肉体と霊魂は一つのものか別のものか、悟りを得たものは死後に生存するかしないか、それらの問いに釈尊は答えなかったと言われている。このことを指して「無記」と言う。このことと輪廻転生説は明確に背反している。

あるところで上記のような話をしていると、「禅定を深めてゆくなら、一切の前世の記憶を思い出す能力が開発されるのだということが、原始仏典の『沙門果経』に説かれています。」ということを教えてくれた人がいた。率直に言って、仏典というのはこのように矛盾だらけなのだ。

充足理由率というのは「なにごともこのようであって他のようでないことの理由がある。」という原理のことである。「無記」という概念は仏教にとって極めて大切な概念であるにもかかわらず理解しにくいのは、われわれが無意識のうちに充足理由率を受け入れているからだろう。その一方で、輪廻転生説のようなある意味荒唐無稽と言ってもいいような言説も、図式的にはシンプルであるためやすやすと受け入れてしまうのである。

もともとこの世界は訳の分からない世界である。そのわけのわからなさをそのまま了解し受け入れよ、と釈尊は言うのである。そのような視点に立てば、輪廻転生説というのはいかにも荒唐無稽である。禅定を深めて「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」と言う人がいたら、たぶんその人は詐話師であるか、良く言って思い込みの激しい妄想家に違いない。


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カラスが飛び立ち梨が落ちる( 韓国のことわざ )

2017-05-21 11:11:15 | 哲学

「誰も知らない世界のことわざ」(エラ・フランシス・サンダース著)より引用します。

≪カラスが飛び去るから梨が落ちる? それとも、梨が落ちるせいでカラスが飛び去る? このことわざは、いかにも関係がありそうな2つのことがらの間に、必ずしも因果関係があるわけではないことを表しています。けれども、2つのことが同時に起きるとき、私たちの頭の中では、気軽に「意味あり」と結びつけられてしまうのです。関係性の判断ミスは、経済や政治、それに哲学の上では大問題。哲学では、このことにapophenia(アポフェニア)≫という洒落た名前をつけています。一言で言えば、私たち人間には、意味のない情報から、意味のあるパターンを見出そうとする傾向があるのです。≫

[カラスが飛び立った時に梨が落ちる確率] が [カラスが飛び立たない時に梨が落ちる確率] より大きい場合には、「カラスが飛び立つ」ことと「梨が落ちる」ことの間になんらかの因果関係があると考えられる。しかし、このことわざはそういう統計情報に基づいた話ではなく、近接した事象を関係づけたがる我々の傾向性を指摘しているのだろう。 

「アポフェニア」を検索してみると、「無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用のことである。」という意味らしい。「無意味なノイズや偶然の存在を信じてしまうこと」という説明もあり、どちらかと言うとネガティブなニュアンスがある。 

しかし、われわれに与えられる情報というのは、もともとすべて無作為で無意味なのではなかろうか? アポフェニアというのは、視覚で言えばゲシュタルトを模索する操作に相当するものだろう。 

ルビンの壺の図というのはご存知だと思う。見方によって壺に見えたり、向かい合っている人の顔に見えたりする。どちらが正しいという根拠を持つわけではない。この図形を見ることを通してわかるのは、われわれが無意識のうちに全体を、部分の寄せ集めとしてでなく、まとまりのある構造として見ようとしていることである。それがなければ私たちの視野はカオスになってしまい、ものを視認することができなくなってしまうだろう。 

それと同様に、もしアポフィニアというものがなければ、われわれは因果関係というものに実感を持てないような気がするのだがどうだろうか? 我々はこの世界の事象について思考を巡らせる場合には、すでに無根拠ななんらかの文脈に拘束されていると見るべきだろう。また、そうでなければ我々はこの世界を解釈できなくなってしまうだろう。

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私は意志を意志できない

2017-05-20 10:15:23 | 哲学

自由意志の有無ということが昔から哲学上の問題となってきた。どうしても自分が機械人形ではないかと疑いたがる人がこの世にはいるのである。私などは、立ちたいときに立ち、座りたいときに座る、それが自由意志という言葉の意味で、そこには何の紛れもないと考える。それは自分が自動機械であるかどうかとは関係なく、言葉の意味としても実存的な実感としても間違いのないことのように思える。

「我々はなにかをしようと意志することはできる。だが、なにかをする意志を意志することはできない。」 ( ヴィトゲンシュタイン ) 

なるほど、この言葉はとても深い意味をもっているようだ。のどが渇けば私は水を飲む。私は間違いなく自分の自由意志で水を飲んだのだが、「水を飲もう」という意思は渇きにつられて自然に湧いてきたのである。つまり、私は外的な要因に突き動かされているということになる。

外的な要因に突き動かされているならば、私は機械として反応しているだけなのだろうか? そうではあるまい。それはむしろ「自然(じねん)」の一言で片が付くような問題ではないだろうか。

弥勒菩薩の摩崖仏 ( 横須賀市 )

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身体障碍者への偏見と性

2017-05-10 11:05:47 | 政治・社会

 

先日の朝刊に「性を大事にしたい」というタイトルのコラムがあった。身体障碍者でありコラムニストでもある伊是名夏子さんの記事です。その冒頭の部分を引用します。

≪ 先日、一人で映画館を訪れたときのこと。長い階段があり、車椅子の私は劇場に入れません。入口の男性スタッフに「私を抱っこして、階段を移動していただけませんか?」とお願いすると、彼は「私でもいいでしょうか? 女性にしましょうか?」と聞いてくれました。
 その一言に、とても嬉しくなった私。だって障害のある私を女性扱いする人は、ほとんどいないからです。そんな心遣いのできる男性になら安心して身を預けられます。!…… ≫ 

ある人々が肩身の狭い思いで生きている。そのことに気づかないとしたら、それは恥ずべきことではないだろうか。 

一般的に言って、身体障碍者の人々は謙虚である。「けなげでひたむき」というのが望ましい身障者像なのだろう。それに沿っているかぎり、人々は「えらいわねぇ。」と称賛してくれたりもするのだが、実はその裏に、「一丁前面をするな」という本音が隠されている。

昨年、「五体不満足」で有名になった乙武洋匡さんの不倫問題が世間に公表された。それ以来インターネット上ではバッシングの嵐である。試しに「乙武」で検索してみれば、人々のこの問題に対する関心がいかに高いか分かる。おそらく彼が健常者であればこれほど騒がれることはなかっただろう。同時期に不倫問題が持ち上がった落語家は、「船で東京湾を出たところ、そのこころは『航海(後悔)の真っ最中』でございます。」ダジャレの一言でけむにまいて済ませてしまった。ところが乙武さんの方は一年以上もたった今でもたたかれ続けている。

そもそも不倫問題は当事者だけの問題である。もちろん褒められたことではない。時には非常に深刻な問題にもなりうる。しかし、第三者にはなかなか実情の計り知れない問題でもあるのだ。この問題一つをとって乙武さんの人格を全否定するのは間違っている。「五体不満足」が世に出た時、今までのけなげでひたむきな身障者像に納まり切れない彼を見て、このような破格の人物を生み出した日本は先進国になりつつあるのでは、という感慨を私は持ったものである。身障者の枠を超えて前向きに生きる彼を社会はもっと大切にすべきだと思う。彼を正当に評価できるようになった時、日本は初めて成熟した文化国家であると言えるようになると私は思うのである。

週刊誌が不倫問題を取り上げるのは、それだけ人々の性への関心が高いからだろう。なぜか人は他人の性に関心を持つ。それは性が嫉妬というものを常にはらんでいるからに違いない。だから自分の利害得失に何ら関係のないことに口を出す。しかし、その正義面の裏には「障碍者が一丁前にセックスなんぞするんじゃない。」という邪悪な偏見が潜んでいることに気がついていない。

言っておくが、障害を持って生まれたことについても、性欲があること自体についても、本人には全く責任のないことである。偽善面したパリサイ人には、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言っておこう。

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