禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ハエ取り壺のハエ - 本能のわな

2019-12-28 10:49:09 | 哲学
 スーパーの通路で子供が寝っ転がっている。猛烈な勢いで手足をばたつかせながら泣きわめいていた。傍らに立っていた母親が鬼のような形相で「なんであんたはそうなのよっ、なんたらかんたら‥‥」とヒステリックに叱っている。叱られた子供はさらに甲高く「びぇーっ」と泣き、手足を地べたに叩きつける。双方がもう無我夢中である。はたから見れば、たぶん発端は子供のたわいもないおねだりだったのだろうと察しはつく。子どもがしつこくねだらなければ叱られることもなかったし、母親がやんわりとたしなめておればこんなに泣き出すこともなかっただろう。元の原因からすればなにもこのような大騒ぎになるほどのことではなかったはずだ。ところが、今はもうお互いに引っ込みがつかなくなってしまっている。

 私たちはめくるめくほどの長きにわたって自然選択の網の目をくぐり抜けてきたものの子孫である。当然のことだが、その本能は自分が生存すること、自分の子孫が生存し続けることにおいてはかなり洗練されている。だから、われわれの情動というものは我々の生存のための価値観にほぼ直結していると言って間違いはない。しかし、洗練と言っても所詮それは偶然の積み重ねに過ぎない。すべて合理的に出来ているかと言えばそうでもない。今まで生存するに足るだけ合理的でさえあれば事足りたからである。

 子どもが泣くのは親の気を引くためである。なにか欲求が起こるとそれを親にかなえさせるために泣く。本来は欲求の切実さ応じて激しく泣くのが合理的なのだろうが、多少われわれの情動は多分必要以上に利己的に出来ているのだろう。なにがなんでも自分の欲求を満たすために切実さを偽装するようになっている。母親の方も、何でもかでも子供の欲求を受け入れていては身が持たない。そこでより強い言葉で威圧して一挙に黙らせようとする。どちらも、利己的な情動から出ている直接的行為なのでデッドロック状態となってしまうのである。

 「何のために哲学をするのか?」という問いに、ウィトゲンシュタインという哲学者は「ハエ取り壺のハエに出口を示してやること。」と述べています。(「哲学探究」309節) ハエ取り壺というのはつねに出口が開いているのに、一旦そこに入るとハエは出られなくなってしまう。問題解決の出口はすぐそばにあるのに、私達は見当違いのもがき方をすることがよくある。たぶんわれわれの理性や情動には盲点と言うべきものがあるのである。 「ハエ取り壺のハエ」は絶妙な例えだと思う。ウィトゲンシュタインという人の生活様式は全然禅的ではないが、その言葉は不思議と禅的様相を帯びている。

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夢のこと

2019-12-25 11:10:11 | 雑感
 時々妻から見た夢の話を聞かされる。「私は箱根に行ったのだけれど、そこは見た事も聞いたこともない不思議な場所なのよ。それでね、私の幼馴染の○○ちゃんと、学生時代の友人の××さんとが縄跳びしていてね‥‥、ね、面白いでしょ。」 聞かされている私は面白くもなんともないのである。一般に、夢は見た本人にとってはとても不思議で奇妙なものであるが、なかなかその不思議な奇妙さというものが他人に伝わりにくい。この不思議感が他人にも伝わるように文章で表現出来たら、一流の作家にもなれるような気がする。

 日本語では将来の夢も寝床の中で見る夢もともに「夢」だが、英語だと前者はdream 後者はnightmare と別の言葉になっている。これは興味深いことである。昔の日本人にとって将来の「夢を語る」という様なことは、文字通り夢物語で nightmare のごとく儚い行為であったのかもしれない。日本では長い間封建制度が続いてきために、dream もnightmareもどちらも現実とはかけ離れたものとして、同じ概念の中に閉じ込められてきたということか。大多数の庶民は、奴隷的な身分制度の中に固定され続けてきたということなのかもしれない。だとすると、将来は dream に対応する日本語が生まれてくるのかもしれない。

 さて、本日はクリスマスであるが、このところ毎年クリスマスになると毎年悪夢のようによみがえる思い出がある。4年前の今頃は妻とともにアメリカのシアトルに住む息子の家で過ごしていた。それで、クリスマスの街の様子はどのようなものかと思い、妻と二人でダウンタウンに出かけたのであるが、アメリカのクリスマスというのは半世紀前の日本と同じで、営業している店というのはほとんどない。マーケットは全面的に閉鎖されているし、そこで自然的欲求が催してくると非常に困った状態になる。絶望的な思いでトイレを探しまわった記憶が今も鮮明に脳裏にこびりついている。
ことの顛末はこちらをクリック==>「クリスマス・デイの街角」
かつての悪夢も今では笑い話になっているのが救いである。



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ニワトリが先か卵が先か?

2019-12-24 11:58:48 | 雑感
 ニワトリは卵から生まれる。しかし、その卵はニワトリがなければ生まれない。因果関係が循環しているものの例えとして、よく言われる言葉である。約半世紀前、私達暇な学生はこのような議論をよくしたものである。 一般に、理系の学生は卵派、文系はニワトリ派に大別できるかもしれない。私は卵派だった。

 大昔はニワトリなどいなかったはずである。だとすると、最初にニワトリと呼ばれた鳥があるはず。その最初のニワトリが鳥である限り、それは卵から生まれたはずである。だから、「卵が先」という理屈である。私はそれで決まりだと思っていた。

 しかし、その理屈を納得しない人もいる。「その卵はニワトリの卵ではない。まだ『ニワトリ』という概念はその時なかった。その卵はニワトリじゃない鳥が産んだ卵に過ぎない。つまり、『ニワトリではない鳥』の卵である」というのである。

 よく考えてみれば、これは言葉の問題である、両派とも事実認識は一致している。一致していながら、「卵が先だ」いや「ニワトリが先だ」と言っている。哲学者は、「人は言葉によって世界を認識する」というが、この件に関して言えば、「卵が先」でも「ニワトリが先」でも同じことである。単に遺伝子を優先するか、概念の成立を優先するかという問題にすぎない。言葉というものは重要だが、決して幻惑されてはならないと思う。
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言葉に意味があるとは限らない

2019-12-16 11:50:04 | 哲学
 ある人がこんなことを言った。「神は二律背反を超える。そこで一つの事柄上に完全なAと完全な反Aを両立させ実現させる。」 例えば、テーブルの上に大福があるということと、テーブルの上に大福がないということを、同時に実現させることができるというのだ。
 
 しかし、どうだろう。いくら頑張ってみても、テーブルの上に大福が有り、そして同時に無いという事態を想像できるだろうか? 少なくともこの私にはそのような芸当はできない。おそらく神ならぬ人ならだれもできないはずだ。つまり、「神は二律背反を超える。」と言葉では簡単に言えるが、そういった事態を思い浮かべることはできない。
 
 ということは、「神は二律背反を超える。」という言葉は発することはできる、私たちは言葉を機械的に組み立てることもできるからだ。そして、組み上がった言葉には意味があるものと思い込む。が、決して我々は直観の伴わない言葉の意味を知ることはできない。つまり、その言葉を発した人は、その意味を知らないまま発しているのである。

 ある人が、「私は今嘘をついている。」と言ったとする。はたしてこの人の言っている言葉は嘘なのだろうか? もしその言葉が嘘であるとしたら、「私は今嘘をついている。」という言葉は本当のことだということになる。逆に、本当だとしたらその言葉は嘘だということにななってしまう。これがいわゆる「嘘つきのパラドックス」である。
 ウィトゲンシュタインはこのことについて、「真偽より前に言葉に意味があると思うことにより、パラドックスになるのだ。」と述べている。どういうことかと言うと、人はまず言葉に意味があって、その意味と現実を突き合せて一致しているならそれは「真」であり、現実と一致していなければ「偽」であると考える、というのである。しかし、ウィトゲンシュタインはそうではないという。その言葉の真偽条件そのものが言葉の意味だというのだ。例えば、「雪は白い」という言葉が真であるのは、雪が白い場合である。そして雪が白くない時、その言葉は偽でであることを私たちは知っている。どういう場合にその言葉が真でありまた偽であるという、その条件こそがその言葉の意味であるというのだ。

 そういう観点から見れば、「私は今嘘をついている。」という言葉は、真または偽となる条件をもたない。そもそも意味をもたない、ということになる。はじめから何を言いたいのか、伝えるべき内容のない空疎な言葉でしかない。
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「少年時代」と「長い道」

2019-12-14 05:10:17 | 読書感想文
 井上陽水の「少年時代」が篠田正弘監督の同名の映画作品の主題歌であることは多くの人に知られている。また、その映画も藤子不二雄A氏による同名のマンガ作品をもとにつくられたことも、年配のマンガファンならご存じだろう。しかし、その藤子不二雄Aの「少年時代」の原作が柏原兵三による「長い道」であることを知っている人は少ないのではないかと思う。

 映画もマンガも素晴らしい作品だったが、やはりそれは原作の良さに支えられている。

 子供が純真で素朴であるというのは大人の思い込みに過ぎない。大人の目の届かない子供の世界は、一種の野生状態であり力と駆け引きがもの言う世界である。いじめ事件関連のニュースが報道されるたびに、「昔はこんな陰湿ないじめはなかったね」と言っているお父さんやお母さんには特に読んでもらいたいと思う。いじめが陰湿なのは周囲から見えないからである。ある意味、いじめはいじめられている本人の中にしかないと言えるかもしれない。いじめている本人からも周りの人間からも単にじゃれあっているように見えても、はかり知れない屈辱をいじめられている側は受け取っている場合があるからである。

 もしかしたら、それは本当に犬や猫がじゃれあっているのと同じ性質のものかもしれないのだ。人というのは所詮思い通りには生きていけない。子供の世界というのは、他者との緊張関係の中で、互いの力を推し量り合い牽制しながら、身の処し方を学ぶところなのだろう。その中でいじめは必然的に発生する。教育現場で事件が発生するたびに、関係者の「いじめはなかったと信じる」みたいな発言をよく耳にする。「なかったと信じる」では教育者として失格である。いじめは先ずあるという前提で臨むべきだ。

 100%平等でみんな仲良しな学校生活が可能などという幻想を抱いていると、「私どものところにいじめはありません」という小役人的な物言いになってしまう。
いじめは根絶できない。人間は不条理な生き物だからである。いじめいじめられながら、生きていくのはある意味「当然」なのだ。悲しいことだが、それが事実である。

「長い道」は作者の疎開という実体験によるものだという。凄絶ないじめを体験しながらも、その少年時代をある種の懐かしさのようなものにまで昇華させた(と、私は読んだ)傑作である。是非多くの人々に読んでもらいたいと願う。
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