禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

信じることなしに疑うことはできない

2020-02-25 12:23:23 | 哲学
 最近は警察からよく電話がかかってくる。「おれおれ詐欺が流行っているので、注意してください」とのこと。我が家は年寄世帯なので、警察もいろいろと気を使ってくれているようだ。これだけテレビで詐欺について報道されているのに、この手の犯罪は一向に衰える気配はない。どうしてあんな見え透いた話に引っかかってしまうのだろうとはよく言われるが、現実にたくさんの人が今も騙され続けているのである。
 つくづく思うのだが、「信じる」ということが吾々の心の中の根幹の中にあるのではないかと思うのである。なにもかもを疑うことなどできない。まず何かを信じるという土台があって、初めて疑うことができる。でなければ、我々は底なしのニヒルに落ち込んでしまうだろう。だから我々は無意識のうちになにかを信じているのである。そう、大抵のことを私たちは無意識のうちに信じている。意識的に「信じているということを信じている」ということと、「信じている」ことは別のことである。問題はその知識となるものの根拠に絶対的な基準がないということにある。絶対的な基準がないという上に、その人の生まれてからの経験にを通してその人自身が築き上げるしかないものである。
 生まれたときは親の言うことを信じるしかない、学校に上がれば先生の言うことに耳を傾ける。成長するにしたがって、知識の根拠というものを多角的にとらえなければならないということをわきまえるようになる。しかし、自律的に判断する根拠というものが相対的であるということは変わらないということは重要である。テレビで詐欺事件のニュースを聞いた時、「あんな見え透いた話を信じるなんて馬鹿だなあ」というようなことがよく言われるが、本当は誰もそのことを笑うことはできない。見え透いた話にだまされるのは騙される人の事情というものがあるのである。
 私は今テレビドラマの「テセウスの船」というのを見ている。主人公が31年前にタイムスリップするストーリーなのだけれど、主人公が自分は未来からやってきたあなたの息子だと打ち明けるシーンがある。父親は最初はそれはヨタ話であると拒絶するのだが、最終的には信じるようになる。もし、現実に、ある日知り合った若者が「私はあなたの息子で30年後の未来からやってきました。」などと大真面目に言ったとしたら、彼は詐欺師であるか精神に障害のある人と考えて間違いない。しかし、ドラマを見ている私はすんなりそのストーリーを受け入れているのに気がつく。どこかにこの話を受け入れる要素が私にもあるのではなかろうか。もし、大勢の人が私をだますための大規模なプロジェクトを組み、その青年が私の息子である証拠や映像をねつ造して私に見せたとしたら、私は騙されないと言い切れるだろうか? なんであれなにかが真実であるという絶対的な基盤というものはどこにもない。 我々は何かを信じないという訳にはいかないのである。
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不立文字 再考

2020-02-22 12:18:23 | 哲学
 「はじめにことばありき」というのは聖書(ヨハネによる福音書1章1-14節)の中の有名な一節だが、ここで言う「ことば」はギリシャ語の「ロゴス」の翻訳である。その「ロゴス」をコトバンクで引いてみると、「理性,言語,理法(法則),比例,定義などさまざまに訳されるギリシア語で,古代哲学,神学における重要な概念。 」となっている。単純に「ことば」と訳するだけでは十分ではないような気もするが、西洋人の発想として、この世界を規定するものとしての理性=言語というものがあるのだろう。その延長に永遠不滅の「イデア」というものがあると考えられる。だから、西洋哲学には言語に対する信仰のようなものがあって、「言語によってすべては表現出来る」と考えている向きがある。

 一方、仏教によれば、「世界は無常なるもの」である。固定的な実体というものはなく、つねに変化・流動している。あらゆるものは過程的であり完成ということがない。個物というものも単に比較的安定しているパターンという程度の意味しかない。川の流れの中にはよく渦が発生する。しかし、よくよく考えてみれば、渦というものの実態は存在しない。元の水は流れ去り、次から次へと流れてくる水が一定のパターンを繰り返すことで、そこに渦というものがあるかに見えるのである。そこに渦の本質というもの存在しない。これは人間についても言えることである。いろんな原子が複雑に絡み合い、偶然にたんぱく質というものができた。最初はアメーバーのようなものであったものが、おびただしい偶然の組み合わせが、一見組織だった繰り返しと淘汰により最後には人間となったと考えられる。しかし、人間と人間以外の境界は実は存在しない。そして、人間も多少複雑で組織立ってはいるが、基本的に水の中の渦と同様である、外部から栄養や空気を取り込み排出しながら一定のパターンを保っているだけである。「人間」の本質は存在しないのである。

 だから、仏教的世界観に立てば、言葉はその本質を持ちえない。言葉は必然的に抽象的であり、固定化を招く。だから、言語と無常的世界観つまり仏教的世界観とは一致しないのである。どのような命題も仏教的観点から見れば恣意的で偏ったものとなる。だから何事も言葉では断定できない。仏教でいう中庸の概念が極めて難しいのにもそういう理由があると考えられる。

( 参考記事 )  「不立文字」
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生きている奇跡

2020-02-20 19:57:47 | 雑感
 昨夜の報道ステーションで池江璃花子さんのインタビューを見ていて、なんてまっすぐなお嬢さんなんだろうと感心してしまった。水泳の日本記録をどんどん更新して、世界の頂点が見えてきたというそのタイミングで、いきなり白血病によってどん底に落とされてしまった。今では不治の病ではないとは言うものの、髪の毛が全部抜けてしまうような闘病生活を強いられるのだ、若い女性にとっては容易なことではない。病気について説明を受けたときはさすがに大泣きしてしまったという。しかし、「大泣きしたけど、部屋に戻ったらもう頑張るしかないという気持ちになっていた」 という。普通はなかなかこうはいかない。すべてをかけて東京オリンピックに向けて精進していたのだ、それがオリンピックどころか命さえ危うい状況匂い込まれたのだ。自殺したくなったとしても不思議ではない。ところが、池江さんはとても素直で前向きな性格のようだ。「もう頑張るしかないという気持ちに」 という切り替えが素晴らしい。

 「ここにいることが奇跡。生きていることが奇跡。自分の人生にとって大きなターニングポイント」 

なかなか19歳の人が言える言葉ではないと思う。もう少しでオリンピックのメダルに手が届きそうだった。なのに、いきなり白血病にその道を断たれた。順風満帆の人生に突然無常の嵐が立ちはだかったのだ。おそらくこの世界の様相が一変し、実存の不安に襲われたことだろうと想像する。「生きていることが奇跡」とは無常の嵐をくぐり抜けたことの実感だろう。これは一つの悟りである。彼女は自身の実存を強く実感することにより、この世界の絶妙を知ったのだ。本当に素晴らしい女性だ。彼女のしなやかな心に触れて、私まで幸せな気持ちになった。ありがとうと言いたい。
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事実と実感

2020-02-19 11:43:54 | 哲学
 私はこのブログを通じて、禅的哲学というものを標榜しているのだけれど、「禅的哲学とはなにか?」と問われるとなかなか適当な言葉が見つからない。あえていえば、「事実と実感を重視する考え方」と言えばいいのかもしれない。例えば、「強いものが勝つのではない、勝ったものが強いのである」というようなものの見方である。我々が事実として知ることができるのは勝ったか負けたかという結果しかない。「強さ」というのは勝負の結果を通して、我々が推論して構成したものである。決して「強さ」という概念を否定するわけではないが、それは我々の思考が生み出した一種の架空の概念であると言いたいのである。
 「強さ」に似た概念に「力」がある。これもまた我らの目には見えない。ニュートンが万有引力の法則を発表するまでは、誰も地球と自分が引き合っているとは考えなかった。ただ単に物は下へ行きたがるとしか考えなかったのである。科学は現象の背後に働いている力というものを探り当てるのが使命である。しかし、その「力」というのは推論によって構成したものである、ということを忘れるな、というのが禅的哲学である。 「リンゴが下に落ちる。」ということと「万有引力がある。」ということは、同じことを違う言葉で表現したに過ぎないと見るのである。

 哲学では自由意志ということがよく問題になる。ニュートン力学によってあらゆる現象が物理現象に還元されるというアイデアが生まれたからである。我々の精神も脳内の電気的な発火によるものだとされるようになった。しかしそれが一体どうだというのだろう。座りたいときに座る、立ちたいときに立つ、もともとそれを我々は自由と言っていたはずだ。それ以上の理屈がどうして必要だというのだろう。脳に関する生理学が進歩すれば、私が座ろうとするとき脳内でどのような発火現象が起こっているというようなことが明らかになってくることも考えられる。しかし、それは私に言わせれば、「リンゴが下に落ちる。」という事実を「万有引力がある。」と言い換えたのと同じに過ぎない。あくまで現実にあるのは「座りたいから座る」という事実であって、「脳内の発火現象によって座る」という推論ではない。

 禅僧に関わる逸話には、いきなり「喝!」と怒鳴ったり、相手を殴りつけたりと結構暴力的な行為が多い。それは原事実としての現実を強く意識・実感させるための行為であると私は解釈している。
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常識などというものはない?

2020-02-17 11:07:35 | 雑感
 ある人のブログを見ていたら、「腹上死に労災認定」というような記事があったので、まさかと思いgoo検索をかけたところ、事実だった。

 どうやらフランスの話らしい。この男性は出張先で見知らぬ女性の部屋に誘われ、そこで心筋梗塞に襲われて絶命したらしい。会社側は当然、「この男性は女性のホテルの部屋に招かれた際、業務には当たっていなかった。」と主張したが、 フランスの最高裁は、「出張中の従業員はいかなる状況にあっても、任務に当たっている期間を通し社会的保護下にある 。」とし、勤務中の事故であることを認めた。つまり、裁判所は、男性の死を労働災害と判断。遺族は雇用主に損害賠償を請求できるとした。 

 日本ではまずこの判定は出ないだろう。というか、日本人ならこういうケースで労災認定を求めるという発想自体が思いつかないし、もしそういう訴えを起こしたりしたら、その家族はまわりから白い目で見られてしまうに違いない。あらためて、日本人とフランス人では性行為に対する感覚が随分違うものだと思い知らされる。フランスでは性行為は「シャワーを浴びたり食事をするのと同じ」、普通の活動らしい。人間生きていればセックスもすると言われれば、たしかにそのとおりである。むしろ、芸能人の不倫問題について無関係の人々がああだこうだと騒ぎ立てる日本人の方がおかしいのだろう。

 あらためて思うことは、常識というものは同じような生活形態と文化をもつ集団の中でしか通用しないものだということである。
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