禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人は何かを信じて生きる

2018-01-25 22:18:24 | 哲学

毎日のニュースを見ていると、どうしてこんな見え透いた詐欺話に人は引っかかるのだろうと思うことがよくある。また、いわゆるカルトと呼ばれるインチキ宗教をどうして人は信じたりするのだろうとも思ったりもする。

他人から見ればばかばかしい話でしかないが、当人にすれば正当な根拠があるということなのだろう。先日、「知識とは何か?」という記事でも取り上げたが、知識に対する「正当な根拠」というのが厳密には定義できないということがある。

つまり、人はほどほどの正当な根拠をもとになにかを信じるしかないのである。現実に存在する宗教はどれを見ても特殊な物語性を伴っていて、異教徒から見ればとても普遍性を備えているとは言えないものばかりである。それにもかかわらず、宗教を信じることそのものはどの民族にとっても普遍的である。

宗教なんて非科学的だから信じないと言っている人も、実は科学法則がなぜ成立しているかその根拠を知りはしないのである。突き詰めていけば、この世界がこのように成り立っている根拠というものはだれも知らない。そういう意味で、人が宗教を信じることの妥当性というのは確かにあると言える。無神論さえ一つの信仰なのだ。

デカルトは暖炉のそばに腰かけて紙を一枚手にしていた。そして自問する、「私は暖炉のそばに腰かけて紙を一枚手にしている、と私は知っていると言えるだろうか?」と。「暖炉のそばに腰かけて紙を一枚手にしている」そのありありとした感覚も、それが夢の中のできごとだとしたら、それを知っているとは言えないと彼は考えた。それを知っていると言えるためには、自分が夢を見ていないということを知っていなくてはならないと考えたのである。これを「デカルトの懐疑」という。

知識が知識であるためには「自分が夢を見ていないということを知っていなくてはならない」、というのはとてつもなく高いハードルである。もし、自分が夢を見ていないということを検証する手段があったとしても、その検証自体が夢の中のできごとでないことの保証が得られないと駄目だからである。つまり、私たちはどうしても「デカルトの懐疑」を克服できない。

というわけで、私たちはこの世界に関しては100%絶対の知識というものを得ることはできないという論理的結論を得る。だからどうだと言いたい気持ちになるかもしれないが、とにかく哲学者たちは膨大な知的エネルギーをこの問題に費やしてきて、今なお明解な結論には到達していない。

一つ言えるのは、この世界に対する信頼というものが必要なのだと私は思う。哲学者は論理による足場を欲しがりがちであるが、この世界の根源はどう考えてみても論理では割り切れない、とても神秘なものである。どう考えてみても、私たちが生きていくには信じるしかないのだと思う。

片瀬東浜 ( 神奈川県藤沢市 )

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語りえるものを語る

2018-01-18 12:11:33 | 哲学

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における語りえぬものとは、論理と倫理であると言われている。それは人間の根源に根差す所与のものだからだろう。ここで言う「所与」とは前提として与えられているもの、根拠をさかのぼることができないもののことである。

禅仏教で語りえないものといえば、真の自己ということになるだろう。それを「無」と呼ぶのは、それが所与のものであるからである。無は有の相対概念であるが、所与のものは無いということが想定され得ないにもかかわらず、有であるとされているので、あえて「無」と名付けたのである。

デカルトの「われ思うわれあり」の「われ」も所与のものである。「われ」は手あかがつきすぎて、所与のものを表現する言葉としてはふさわしくない。カントはデカルトより一層堅牢な理論装備をして、それを超越論的統覚と呼んだ。

カントと禅仏教の自己に対する問題意識は、私には非常に近いものに思えるのだが、あまりそういうことが言われないのは、カントは一人称から出発しているのに対して、禅仏教は無人称から出発しているためだろう。二元論と一元論という形式の違いが実質以上にかけ離れているような印象を与えているような気がする。

< 「私は考える」ということが私の全ての表象に伴い得るのでなければならない。>( 純粋理性批判」132)

結局、カントは「考える」を所与のものとして、主観が客観を認識するというデカルトの主客二元路線を踏襲した。

それに対して禅仏教においては、「私は考える」としてもそこには「考え」があるだけで、実は考えている「私」はどうしても見いだせないのである。禅では、山を見れば自分は山になる、木を見れば木になる、と言う。それは、私が山を見ているのではなく、そこには山の『見え』だけがあり、それを見ている『私』はいない、という意味である。

それで、禅においては「無我」あるいは「無」と言う。「考え」や「山の見え」が展開される場所、あるいは永井均流に「世界の開闢」と言ってもいいかもしれない、西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んだ。それは有るとも無いとも言えない所与のものである。

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杉原千畝の勇気ある行動を日本人は誇っていいのか?

2018-01-17 10:40:00 | 政治・社会

安倍晋三首相が「杉原千畝の勇気ある行動は日本人の誇り」と言ったらしい。 

 【 安倍首相の発言の詳報 

杉原さんが偉いのは日本政府・外務省にたてついたからだということを、どうやら安倍さんは忘れているのだろう。政府側の人間としては、松岡洋右外相による訓令に違反したかどで彼を外務省から追い出したことを先ず恥ずべきだろう。つまり、そのときの日本政府が人道的立場に立っていたならば、杉原氏の行為は美談でもなんでもなかったということをころっと忘れてはならない。 河野外相がこのことを謝罪し正式に名誉回復が図られたのは1991年になってからのことである。 

 【 千畝の名誉回復 】

つまり、祖国日本は杉原氏の行為に対して長い間冷淡であった。つまり、日本政府を支えていたわれわれ日本人が彼に冷淡であったことを意味するのである。ところが、彼に救われ生き延びたユダヤ人が彼を探し当て、イスラエル政府が彼のことを顕彰すると、手のひらを返したように、彼の功績をまるで日本人全体の手柄であるかのように勘違いする。頓珍漢な話である。彼の功績に対する栄誉は彼一人のものであり、日本人たる私たちのものではない。ある意味、日本人の一人として恥じねばならぬ性質のものでもあるのだ。

 もし、杉原氏の行為を称揚するのであれば、助けを求めてやってくる難民に対して、日本は一貫して冷酷であったことの説明がつかない。

 【 日本の難民認定の厳しさ 】

難儀をしている人々がいたら、杉原氏のように手を差し伸べる。それでこそ正義人道というものだろう。シリア難民を危急から救うために、カナダはチャーター機を飛ばして2万5千人もの難民を受け入れた。ドイツはもっと大勢の難民を受け入れている。だが日本だけは一貫して知らんぷりである。 

そんな国日本の宰相が安倍さんである。「杉原千畝の勇気ある行動は日本人の誇り」とは、どの口で言えるのか。

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間違っている(と私が考えている)仏教の教説 ( その2 )

2018-01-14 11:42:51 | 仏教

昨日は、離人症のような空観に注文をつけたが、もう一つ気に入らない教説が輪廻説だ。明らかに迷信と分かるような言説がどうしてこのようにはびこるのだろう。たぶん、誰かの単なる思いつきが無責任なうわさ話として広まったのだろう。もしこの手の話が意図的に広まったとしたら、最初に言い出した人間が詐話師であるか思い込みの激しいトンデモさんであるかのどちらかにちがいない。 

六道輪廻という考えからしておかしい。「行いによって、どの世界に生まれ変わるか」だと言うが、一旦餓鬼道に陥ったら善行など行いようがない、二度と人間界に復帰する見込みなど立たず、永遠に地獄めぐりをしなくてはならなくなるというものだろう。 

ある人は、「来世というものがなければ、現世での行動に責任が無くなってしまう。」というが、現世で善行を積めば来世に恵まれるというのは、そこらの新興宗教と変わらぬ安っぽい考えである。仏教の無常観にそのような予定調和的な考えはなじまない。無常は将来のなにものも保証したりしない。善因必ずしも善果を招くとは限らない。たとえ、報酬を得られようと得られまいと、善行を積むというのが釈尊の教えではなかったか。 

そして何より気に入らないのが、「前世の因縁で‥」と無辜の人々に罪科を負わせるという考え方だ。人を脅迫しながら、善根を積めというのは釈尊の教えではない。 

東日本大震災の折に、「これは天罰だ。」と言い放った政治家がいた。彼の発想は「前世の因縁」的思考と同根のものである。なにをえらそうに、なにを根拠にそんなことが言えるのか。自分が神の高見に立っているとでも勘違いしているのだろう。根拠など無い。無責任な方言である。この世に「前世の因縁‥‥」などといえる人間はいないのである。 

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間違っている(と私が考えている)仏教の教説

2018-01-13 11:18:53 | 仏教

一般に仏教の空観は、「すべてはまぼろし」のようなニュアンスで受け止められていることが多い。「世の中を陽炎と看よ」という言葉をそのように受け止めれば、どのようなことがあっても心の静寂が得られるというのだ。このことは仏教に対するもっとも大きな誤解ではないかと私は考えている。 

私に言わせれば、そのような「心の静寂」にどのような価値があるのだと言いたい。龍樹の言葉だからといってなにもかも鵜呑みにしていいはずはない。仏教の教説には多くの人々がかかわっている。手っ取り早く信者を獲得するためにはいわゆる方便も言うし、中にはでたらめな言説も混じっているとみるべきだろう。空観が世界のリアリティを損なうようなものであるなら、仏教にも人生にももともとリアルな価値はないということになってしまうだろう。 

あくまでこの世界の喜び悲しみはリアルなものであるべきだ。空観はそれらリアルさを否定するものではない。その絶対性を否定するのである。世が無常であるからには、絶対的なものは存在しない。愛する人ともいつか別れなければならない。それがいかに不条理なことであっても、受け止めなければならないという諦観をもつ、ということが釈尊の「執着を断て」という意味である。 

どれだけ修行しても悲しいものは悲しい、それが事実である。鈴木大拙居士のように修業を積んだ方でも、親友の西田幾多郎が亡くなったときには、傍目も気にせず子供のように泣きじゃくったという。しかし、大拙居士はいくら悲しくとも、キサー・ゴータミーのように愛する人を生き返らせようとはしない。悲しみは受け止めるしかないのである。悲しみながら、親友のために泣けるということが自分の幸せであったということをかみしめているはずである。それが仏教的諦観をもつということであろうと思う。

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