禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ハエ取り壺のハエ - 思考のわな

2020-01-01 13:29:46 | 哲学
 前回記事では私たちの情動に盲点とも言うべきものがあると述べた。今回は思考について取り上げてみたい。「何のために哲学をするのか?」という問い対する、「ハエ取り壺のハエに出口を示してやること」 というウィトゲンシュタインの言葉というのは、もともと私たちの思考について述べたものである。

 私たち人間は他の野生動物に比べて肉体的能力はさほど優れているわけではない、と言うよりむしろ劣っている。ライオンや豹みたいに強くないし、馬のように速く走れるわけでもない。それでも彼らより生存という点において優位に立っているのは、言うまでもなく考えることができるからであろう。進化の過程で獲得した「考える」という習性が今日の人類の隆盛をもたらした。

 では、人はなぜ考えるのか? 疑問を持つからであろう。疑問が思考の動機となっている。ではなぜ疑問が生じるのか? それは、あらゆることに理由があると感じているからだろう。なんらかの現象を見れば、必ずその背後にその現象を成り立たせている力が働いているはず、と不可避的にわれわれは確信してしまうのである。当然のことだが、この疑問がすべて解消してしまうことはない。解明が新たな疑問を生み、その繰り返しは無限に遡及していくからである。それは科学においては正常な姿だと思う。

 思考による問題解決というのは何だろうか? 自然科学においては、現象の背後のメカニズムを解き明かすことだろう。数学においては、公理から論理を演繹していって問題となる命題に到達するということが証明すなわち問題の解決ということになる。では、哲学における問題解決というのは何だろう? 

 実を言うと、哲学において問題が解決されたというようなことは今まであまりない。哲学によって解明されたことがらの多くはおそらく、言語学や論理学や心理学や社会学というような学問に還元されていくべき性質のものになるはずである。現実には、哲学はものごとを解明するというより、問題を作りだす方が圧倒的に多い学問となっている。

 「なぜ私は私なのか?」、「なぜ何もないのではなく、世界は有るのか?」、あらゆることに理由があるのであれば、これらのことにも理由がなくてはならないはずである。しかし、少し考えればわかることだが、これらの問いには考えるべき糸口が与えられていない。自然科学や数学の問題には、解答は分かっていなくとも、それがどのような形で与えられれば解答になり得るかということだけは分かっている。しかし、世界が存在する理由というのはどう説明されても納得いかないのである。例えば。「ビッグバンがあったから」というのは答えにはならない。問題は、どうしてビッグバンが起きるような世界があるのかということを訊ねているからである。どのような説明をされても根源的な説明にはなりえないのである。

 しかし、問題がある限り哲学者は考える。手がかりのない、つまりハエ取り壺の壁面のようにつるつるした壁にぶつかりながら身もだえしているハエのように‥‥。ウィトゲンシュタインはこれらの問題については「言葉の誤用」であるとした。つまり、言葉としては一見成立しているように見えるが意味のない言葉である、としたのだ。私が自ら「なぜ私は私なのか?」と問う時、私はその言葉の意味を理解していない、いかなる形で回答が示されるかが皆目見当もつかないまま、ただその問いを発している。問いを発しながら自分が何を求めているかを理解していないのである。つまりそれは疑似問題であるというのである。これは禅仏教における視点と共通するものがある。禅においてはただ今即今現前しているものがそのまま真実である。その奇蹟性をそのまま受け入れるのが仏教であると教える。釈尊ははるか昔に、そのような問題が疑似問題であることに気づいておられた。それ故、形而上の問題は無記であるとされたのである。
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