何年振りか分からないが、久し振りに映画を観に行った。中原中也と小林秀雄を題材にした映画が一体どのようなものかと興味を覚えたのだ。はじめからあまり期待はしていなかったが、見終わってやはりこんなものだったかという気がした。ストーリーは泰子=中也=小林秀雄の三角関係だけに焦点が当てられている。この三人以外はほとんどが通りすがりの人々で、富永太郎が少し顔を出す程度で、大岡昇平も河上徹太郎も一切登場しない。中也の人物像を最も顕著に表しているはずの友人たちとの文学談義も一切出てこない。もっぱら焦点は広瀬すず演じる長谷川泰子に当てられている。
これは映画を観る前から気になっていたのだが、私の中では長谷川泰子と広瀬すずは全然重ならない。長谷川泰子は大柄な(中也より背が高い)美人で男好きのするタイプではあるが大部屋女優である、それに引き換え広瀬すずはわりと小柄で大部屋女優というにはどこかシャープすぎる印象がある。「海街diary」で彼女は地のままで伸びやかなとても良い演技をしていたが、今回の作品では大人の女を意識的に表現しようとしてか、かなり力みが感じられた。それとストーリーを円滑に進める為なのか、泰子の母親譲りの狂気が強調され過ぎているように思える。泰子には確かに神経症の傾向があったようだが、57歳から12年ほどビルの管理人をして堅実に暮らしていたというから、決して病的な人ではないと思う。小林が泰子の執拗な絡みに辟易して逃げ出したのは間違いないだろう。後に泰子自身が(彼をしつこく責めたのは)「愛情を確かめるための甘えだった」と述懐している。若い性欲に駆られて友人の恋人を寝取ったものの、帝大出のエリート坊ちゃんには生身の女はあしらいかねたということではないのだろうか。小林は後に次のように語っている。
「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」 (Xへの手紙)
以上のような感想は私の勝手な想像ではないかと言われてしまえばそのとおりで、映画は実在の人物からインスピレーションを取り入れた創作であると考えねばならないのだろう。人間関係を分かりやすい図式に当て嵌めて簡潔に描く、見せ場は正統派大物女優の広瀬すずの妖艶な本格演技である。それでエンターテイメントとしての映画は成功するということなのだろうか。私にはそれが成功しているようには見えなかった。あくまで個人的感想であるが‥‥。
それにしても小林にとって中原ははたして友人と言えるような存在だったのだろうかという疑問が私にはある。小林も大岡昇平もその作品中で中原のことを「友人」と記しているが、彼に対する好意というようなものが一向に感じられないのである。周囲の誰もが中原の才能は認めていた。しかし、誰もが彼に対する哀れみは感じていても好意的な表現は見当たらない。おそらくまわりの誰もが中原にはうんざりさせられていたのだろう。誰彼となく口論を吹っ掛けて、言い負かすまでおさまらない。自己中心的かつ執拗なワガママ坊ちゃんてきな性格だった。対等な友として人と付き合う術を学ぶ機会が無かったのだろう。純粋な心情を詩に託そうという心は人一倍強かったのであろうから、他人に対する愛情や思いやりが決してなかったわけでもあるまいが、その表現の仕方を学ぶ機会が無かったのだろう。小林が泰子と同棲するようになってからも中原は小林のところに頻繁に通っている。自分の恋人を寝取った男に通う、中原はそれを恥ずかしいと感じるような神経をもっている男ではなかった。小林から見れば決して愉快なことではあるまい。泰子からも中原を拒絶するよう責め立てられる。常識的には小林は中原に「帰れ。もう来るな。」と怒鳴れば良かったような気がする。だが知性の人はそのような修羅場を避けるようにして奈良へ出奔した。小林が逃げ出した際、友人たちは彼の身の上をみな心配したが、中原は康子が自分のもとに帰ってくるとでも思っていたのだろうか、かなりはしゃいでいたらしい。その様子を大岡昇平は「おたんこなす」と表現した。彼らの中原に対する友情は一筋縄ではいかないものなのだろう。
映画のストーリーはともかく背景はとても美しかった。臨済宗の大本山妙心寺の境内でローラースケートをするシーン、そして京都の古い家並みは一部スタジオが使用されていたらしいがそれらしく自然に映っていて雰囲気がとても良かった。それと鎌倉の妙本寺で海棠を小林と中原が眺めているシーンもあったが、小林秀雄の「中原中也の思ひ出」を読んで以来、私も毎年花の季節に必ず比企谷(ひきがやつ)妙本寺を訪れている。花海棠がとても美しいからである。

2023年3月鎌倉妙本寺にて