禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

地蔵和讃考

2015-10-18 11:47:17 | 哲学

  これはこの世のことならず  死出の山路の裾野なる
  さいの河原の物語  聞くにつけても哀れなり
  二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬおさなごが
  父恋し母恋し  恋し恋しと泣く声は
  この世の声とは事変わり  悲しさ骨身を通すなり

  かのみどりごの所作として  河原の石をとり集め
  これにて回向の塔を組む  一重組んでは父のため
  二重組んでは母のため  三重組んではふるさとの
  兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども
  日も入り相いのその頃は  地獄の鬼が現れて
  ‥‥‥‥( 以下省略 )
  

地蔵和讃を御詠歌として聞いたことのある人は相当年輩の方だろう。若い方などは地蔵和讃そのものを御存じではないのではないだろうか。

年端もいかぬ子どもが不慮の死を遂げたら、未だなんの功徳も積まぬまま親に先立つという大きな親不幸をなすわけで極楽へ行くことはできない。生前は父母への孝養がかなわなかった子供たちは、その代償として賽の河原で石を積むことになる。その石の塔が自分の背丈の高さにまでなれば、その子の魂は救われるのであるが、毎夜出現する鬼がその石の塔を崩してしまうというお話である。つまり、その子は延々と毎日石を積み続けるという救いがたく哀しいお話である。

少し考えればわかることなのだが、これは仏教の教理とは何の関係もないことである。第一年端もいかない子供の死を本人の責任に帰してその罪とがを負わせるのは屁理屈もいいところで、あえて責任というなら親や社会の方にあるのである。無垢な子供の魂はそのままで天国に行ける、というのが筋であろう。

本当に救われたいのは親の方である。子供を死なせてしまったうしろめたさがある。本来ならもっと楽しい目を見せてやりたかった、幸せに人生を全うさせてやりたかった、せめてあの世では幸せになってほしい、そんな願いがこの唄には込められているのである。

先日「無記」という記事で、お釈迦様はあの世のことについては言及しないということを述べた。この和讃の最初に「これはこの世のことならず」となっているが、完成しない石の塔を延々と積みづけているのは、実は無常の世界に生きる私たちの姿そのものではないのだろうか。地蔵和讃がはるか昔から語り継がれているのはそれなりの普遍性を備えているからに違いない。そう、これは「この世」のことなのである。

先日、恐山を訪れた際にこんなことを考えた‥‥。

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けちくさい

2015-10-14 12:38:14 | 政治・社会

中国の「南京大虐殺」に関する資料が世界記憶遺産に登録された件に対して、政府はユネスコへの拠出金停止・削減などの対抗措置を検討するとの方針を固めたとの報道が流れている。この件については国内からも「大人げない」という声が出ているようだ。

どんな言い分があろうと、拠出金で圧力をかけるなどという手法は金権主義そのものである。そんな手法がまかり通れば、ユネスコは金持ち国の主観でコントロールされることになってしまう。今回の「南京大虐殺」の登録が中国によるユネスコの政治的利用である、という主張には一理あるのだろうと思うが、それが即拠出金削減に結び付けるところが情けない。

かねてからこの問題については、中国の「30万人の虐殺」という主張に対し、日本側には「30万」の数字の信憑性にこだわって、「南京大虐殺」そのものを否定するかのような態度が見受けられる。そのようなことでは国際的な信用と尊敬を得ることはむずかしい。多くの識者が指摘しているように、学術的な共同研究をもっと中国に働きかけるべきだろう。

安保関連法制を整備してこれからは日本の軍事的プレゼンスも拡大するとの自信からなのか、「安全保障常任理事国をめざす」というようにことも言いだした。けち臭い金権主義国でアメリカの属国が本気で安全保障常任理事国になれると考えている、そんな総理大臣のおつむの軽さが悲しい。

 

海上自衛隊 護衛艦「いずも」

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魂(たましい)とはなにか?

2015-10-08 12:13:32 | 日記

一か月ほど前横浜のカルチャーセンターで、恐山の院代である南直哉(じきさい)さんの講演を聞くことができた。南さんは曹洞宗の中でいま最も有名なお坊さんであろう。講演することに慣れておられるようで、メリハリのきいたお話はとても面白い、下手な漫談よりはよほど面白かった。演題は「魂のゆくえ」ということだった。恐山は日本三大霊場の一つで、死者の集う場所であることから、このタイトルで南さんは全国各地で講演しているらしい。

しかし、魂ってなんだろう。私たちは「魂」という言葉をよく理解しているかのように使う。「魂を込めよ」とか「魂に触れた」というふうに言ったりするが、込めたり触れたりする魂がどんなものであるかは、実のところよくわかっている人は少ないのではないかと私は疑っているのである。そもそも魂についての厳密な定義というのはあまり聞いたことがない。南さんも講演の中で魂がどういうものだというようなことは説明しない。聴衆もそのことについては不審がらずにお話を聞いているのである。

しかしどうだろう、あらためて魂とは何かと問われたら、たいていの人は戸惑うのではないだろうか。誰もがある程度了解しているがその厳密な意味を知っているわけではない、「魂」という言葉はそんな言葉ではないかと思うのである。

定義がはっきりしないのは、「これ」と指差してお互いに確認することができないからだろう。確認することができないのなら、そんな概念は不要ではないかということにならないのはなぜだろう。

もし魂という概念がなかったとしたら、私が私であるということの説明がつきにくい。意識というものが脳という機械に還元されてしまうものなら、この世界がどうして、よりによってこの私(御坊哲)の視野から開かれているのかということの根拠が見いだせない。世界には70億もの人とそれこそ無数の動物がいるのであるから、その中の私がどうして特別なのかということが問題になる。それで身体とは別の霊魂というものを措定する。〈私〉の魂が私(御坊哲)に宿るという心身二元論を採用すれば、「私は私の世界である」ということの説明は(かろうじて)つくということなのだろう。もし〈私〉の魂が犬のジョンに宿っていたら、この「私の世界」はジョンの世界となっていたわけである。

これはこれで整合性のある一種の科学的仮説であるということができる。しかし、依然として魂がなんであるかということが分かったような気がしないのはなぜだろう。とりあえず、南さんのお勧めにしたがって来週は恐山に行ってみよう。行けば何かわかるかもしれない。

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マインド・タイム

2015-10-03 08:39:39 | 哲学

最近の脳科学では、私たちの意識は実際よりも0.5秒遅れているというのが定説になっているらしい。つまり、お茶を口に入れて「あちっ」と感じた出来事は、0.5秒前に起こったことだというのである。

0.5秒というのはかなり長い時間である。空手の試合で、相手の突きを0.5秒も待っていれば確実に入れられてしまう。脳科学者の言うには、相手の突きの気配を感じてとっさにかわす、そのような自分の働きも0.5秒前に済んでいて、あとから自分は意識するのだという。

彼女と二人きりになってロマンチックなムードになった、彼女がぼくの方を向いて目を閉じたので、ぼくは彼女にキスをした。このようなシーンもすべて0.5秒遅れで繰り広げられているという。すると、ぼくが彼女にキスをしようと意思決定した(と見える)ときにはすでにキスしていたことになる。

感覚も意思決定も0.5秒遅れで意識に登ってくるとなると何が問題になってくるかというと、自分は彼女にキスしたくなってしたはずなのに、無意識下でぼくの物質としての脳がすでにキスすることを決定してしまっていたことになる。つまりぼくは自由に意思決定したのではなく、キスすることは脳内の科学的作用により機械論的に決定されたということになる。意識の中の自由は見せかけの自由であるということになる。

禅的視点から見た場合は以上で述べたようなことが問題になることはない。禅者にとっては直接感じている世界こそが真実の世界である。それに対して、科学者の世界はいろいろな観察を通じて、それらを整合的に説明できる推論から成る架空のモデルに過ぎない。つまり、実存的世界観が科学的世界観に優先するのであって、この実存的世界観の中では立つも座るも自由であることは間違いないことである。それを科学者がどのように説明しようともそれは科学者の自由である。

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百尺竿頭進一歩 (無門関第四十六則)

2015-10-01 23:46:33 | 哲学

今日ニュースを見ていたら防衛装備庁発足に関連して、中谷防衛大臣が訓示かなにかで「百尺竿頭進一歩」と書かれた色紙を掲げていた。禅の公案を使うというのは衒学趣味としてもあまりスジがよくない気がする。なんとなく見ていて気恥ずかしいものがある。

この公案は、百尺の竿の先からさらに一歩進めという意味である。それで世間一般には、さらに一層の奮励努力しなさいというような意味でつかわれているようだ。

禅の悟りは一度すればよいというものではなく、悟後の修行を積んでさらに高みを目指さなければならない。ところが悟りはそれぞれがそれなりに完全性を帯びているため、万能感に陥りやすい。その境地が最高の高みであるかのような独断に陥ることもままある。それでこの公案では、その最高の高みからさらに一歩進めと命じるのである。

百尺の竿の先に立てば、もうそこからは一歩も進めない。進めないはずのものを進めという、無茶ぶりだが不可能を可能にせよというのが公案である。

百尺の竿の先から一歩進めば落ちて死ぬ。公案はたとえ話ではない。本当のこととして取り組まねばならない。早い話が、死ねと要求している。本当に死を覚悟しなければならない。死中に活を見出せというのがこの公案の主旨である。

うろたえながら意味不明な答弁を繰り返しているような大臣の手におえるような言葉ではない。

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