禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」

2024-03-06 07:43:00 | 哲学
 NHK「100分de名著」という番組の2月のテーマはリチャード・ローティの「偶然性・アイロニー・連帯」であった。私はローティという哲学者のことは全然知らなかったのであるが、朱喜哲先生の説明を聞いて、とても偉い人であると思った。と同時に、その根底にある思想は仏教に通底しているとも感じた。

 ここでローティの言う「偶然性」という言葉について考えてみよう。随分前の話になるが、あるテレビの番組における若者の投げかけた「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが大きな波紋を呼んだことがある。結局決定的な結論には至らず今も問題は宙に浮いたままである。しかし、どう考えてみても「人を殺してはいけない」という結論は理屈では導き出せない。現実に人類は正義の名のもとに盛大な人殺しを繰り返してきたのだから、「人殺しは必ずしも悪いとは決っていない」と言い得るのではないだろうか。 しかし、おそらくそれではこの問題を提起した人は納得できないだろう。

 なぜ納得しないのか? それは人々が倫理に対して、例えば神が決定したというような必然的根拠に基づくものであるべきである、というような思い込みがあってのことではないかと思う。それと同様に人々は、自分や日本などについてもかくあるのは必然的根拠をもってにあるべくしてあると思いがちである。例えば日本という共同体や自己などについても考えてみよう。私たちはなんとなく日本や自分というものは初めからあるべくしてあるものだと思いたがる。日本はかくあるべしまたは自分はこういう人間であるという本質、すなわち必然的な根拠によって、日本も自分も現にこのように存在しているのだと思いがちである。倫理もまた必然的根拠に基づいて実在しているものと思いたいのである。ギリシャ人は真・善・美というものがイデア的に実在するものだと考えていた。それらをもっとも的確な言葉で表現するのが西洋哲学の目的であったとさえ言える。ローティはそのような思い込みを一掃する、それらはみな必然的根拠をもたない。あくまで偶然的なものであるだけに過ぎず、ある意味「言葉によって発明された」とまで言ってのけるのである。これはかなりラディカルなことを言っているようだが、無常や空を根本原理とする仏教的立場から見れば受け容れにくい考えではない。仏教では、全ては変化し続けておりなにものも留まるところはないと説く。一瞬たりとも止まることはないのだから、特定の形とか状態というものを抽出することもできない。だから仏教ではそれだけで独立し存在する基体とか本質というものを否定する。それが空ということである。仏教の空とローティのいう偶然性は真理や倫理の絶対性とか必然性というものを否定するという意味で通底しているのである。

 真理や倫理がもし必然的なものであるならば、論理をつくせばその究極に到達できるはずである。かくて必然を信じる人はやがてファイナル・ボキャブラリー(究極の言葉)と言うべきものに到達する。それはその人にとってはまさに究極であるから、それに反することは全く受け入れられない、そこで対話は途切れてしまう。シオニストにとってイスラエルの存続は絶対である。だから、イスラエル自衛の為であれば何をやっても正義となる。そのように考えれば、ガザにおけるイスラエル軍の蛮行も納得がいく。言葉や論理の必然性を信じる人はたやすくドグマに陥ってしまうのである。ローティはファイナル・ボキャブラリーもまた偶然性の重なりに過ぎず、単に世界の一側面に過ぎないというのである。やがてそれは変わりゆくものであり、私達は世界がいろんな側面を持つ豊かさを意識しながら、対話を閉ざさないようにしなければならないと説くのである。

 ローティが訴えていることは、仏教の教えである中道思想と同じ趣旨であると言っても差し支えないと思う。禅仏教では不立文字と言い、この世界を言葉で記述することを禁じている。一切は空であり、世界を言葉(概念)で規定することは不可能であるからである。だから修行することによって、世界をあるがまま把握する目を養うのである。一旦世界を言葉で切り取ると人はその言葉に制約される。ガザのイスラエル兵は「イスラエルの自衛」の名のもとに病人や女子供まで機関銃で撃つ。素朴な目で見ればただの野蛮な行為であるとたやすく分かるはずなのに、「イスラエルの自衛の為」という文言が彼らの正当性を保障する。言葉によるイデオロギーが、彼らから世界を「あるがまま看る」目を奪っているのである。 

 仏教の中道思想というのは、言葉によるイデオロギーにたやすく安住してはならない、ということである。そういう意味でローティの言う「偶然性」を意識するということと通じているのである。

朝の散歩中、近くの団地で太陽の周りに大きな光の輪が広がっているのを見た。

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