禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

狗子仏性(趙州無字)

2016-02-17 10:42:18 | 哲学

( この記事は 2016.12.02 に訂正されています。)

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道徳の源泉について

2016-02-08 14:34:55 | 哲学

う20年くらい前になるだろうか、あるテレビ局の視聴者参加番組の中で、高校生の「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という質問に誰も明解な回答をすることができなかった。それ以来、この問題は日本中のいたるところで論じられ続けているように見受けられる。このような現象は、道徳の源泉としての宗教をもたない日本固有の問題かもしれない。

 

カントは自由な理性の判断により、普遍的な道徳律に到達できる、と主張する。そのための基本法則はというのは次のようなことである。

≪それが普遍的な法則となることを君が同時に意志することができるような、そういう格率(※注)にしたがってのみ、行為せよ≫

カントはこの基本法則にしたがってどのような道徳律が導きされるのか具体的な例は挙げていないが、各自の自由な理性によってしかるべき道徳律に到達するというのである。いわばそれは数学の定理のように与えられる自然法則と同じようなものであると考えられる。

それは自然法則と同等のものであるから、その道徳法則を守る効用あるいは非効用とは無関係に、我々は無条件にそれに従わなくてはならない。そのような観点から見れば、カントの「嘘論文」はある程度理解できる。

我々が持つ本能としての「必然の論理」は、明らかに決定的な道徳律を欲しているように思える。論理的にものを考える人にとっては、カントの提示は非常に魅力的なものに見えるのではないかと思う。カントは、形而上の領域にモーゼの十戒を記した石版が存在し、理性によってそれを見出す方法を示したのである。もし普遍的な道徳律が存在するなら、カントの示したようなものであるしかないような気がする。しかしそれはあくまでも、もし普遍的な道徳律というものが存在するならならばという話である。

仏教的視点から見るならば、この世界に通底する「普遍」とか「絶対」と言うようなものは存在しない。すべては縁起の中から生じる一時的なものである。道徳も、たまたまこの世界に出現した人間という、特殊な動物の習性から生まれたものにすぎない。人間の欲望や妬みといった感情、それと価値観のないところに道徳は存在しないはずだからである。

道徳律というものについて決定的なものは存在しないとなると、やはり自分の内なる声に慎重に耳を傾けながら、ある程度功利的な考えも導入するしかないのではないかと、私は考えている。

 

(※注) 「格率」というのは行為の主観的原則のことである。たとえば、「おれは女はなぐらねぇ主義だ。」といったたぐいの自分の行動の原則である。

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「嘘」に見る東西道徳観の違い

2016-02-03 07:00:04 | 哲学

「うそつき」という語感について、日本人と西洋人の語感はずいぶん違うらしい。若い日本人のカップルがデートしているとする。男性がなにか冗談を言ったとき、女性は笑いながら、「んもぅっ、哲のうそつき!」とか言って、男の上腕をたたく。こんな情景はいかにもありそうである。しかし、この男がもしアメリカ人だったら、「うそつき」と言われた瞬間顔が少しこわばるかもしれない。女性は「もうっ、ジョーったらジョークばっかり」とでも言った方がいいだろう。西洋人に対して「うそつき」と言うのはかなりの罵り言葉である。

「うそをついてはいけない」というのは洋の東西を問わない普遍的な戒律である。不妄語戒はキリスト教の十戒にも仏教の五戒にもちゃんと含まれている。しかしその受け止め方はずいぶん違うように見受けられる。どう考えてみても西洋の方が厳格である印象が強い。

やはりそれは、一神教の戒律は神から与えられた絶対的なものであるのに対し、仏教における戒律は人間の定めたものであるという事情があるのだろう。(お釈迦様も人間である。)日本では昔から「嘘も方便」と言う言葉がある。ちなみに「方便」も仏教用語として輸入された言葉である。

キリスト教において戒律に背くことは絶対悪であるが、仏教においては一切皆空である、そもそも究極的な善悪というものはもともとない。すべては縁起の中で相依的に生じるものにすぎないとされる。だから、状況によっては嘘をつくことが善行となる場合もあるのである。

カントが著した「うそ論文」というものがある。正式には『人間愛から嘘をつくという,誤って権利だと思われるものについて』という題の論文である。内容は、どんな場合でも嘘をつくことはよくないということを論じている。たとえば、悪者に命を狙われている友人を自分の家にかくまったとする。そこへ悪者が訪ねてきて、その友人が来ていないかと問われた時にでも嘘を言うのはよくないことだ、とカントは主張する。カントは決して悪者に友人を差し出せと言っているわけではない。この場合、出来る限り友人を守ることと嘘をつかないことを両立させる努力をしないといけない、と言うのである。

大抵の日本人ならカントの考えは余りにも硬直しているように感じるに違いない。このような場合にはむしろ積極的に嘘をつくべきであるとする人が多いのではないかと思う。

カントは善悪を仏教におけるように相対的なものであるとは考えない。数学の定理は手順さえ間違わなければ誰もが同じように到達できる。それと同様に、カントは人間が理性的であればだれもが普遍的な道徳律に到達できると考えたのである。つまり、それは人間が恣意的に決めたのではない。数学の定理のように厳然と実在する道徳であり、我々は無条件にそれに敬意を払わねばならないとしたのである。
カントは道徳の源泉をいわば神から理性に移したのであるが、私にはこれが名目上のものに思える。無条件に従わせるという絶対性はなにか超越的なものを措定しないと導入できないことのように思えるからである。やはりカントも一神教の世界に育った人のように思える。

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