禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

進化論は科学ではない?

2018-11-27 12:30:14 | 雑感

有名な脳学者である養老孟子先生が「進化論は科学ではない。反証不可能だからだ。」とどこかで述べているのを知って、驚いたことがある。私にとってダーウィンの進化論は科学の神髄である。これが科学でなかったら科学というものはない、くらいに思っていたし、今でもそう思っている。養老先生は素晴らしい科学者だが、これは暴言だとしか思えない。 

しかし、「反証不可能」と言われれば、確かにすっきりしないものがある。なかなか反証の例が思いつかないのだ。もう何年も養老先生に対してスマートな反論をしてやろうと考え続けているのだが、現在のところは次のように考えている。 

反証が難しいのはあまりにも当たり前のことを主張しているからだろう。自然に適応していなければ子孫を残すことができない。子孫を残さなければその形質を引き継ぐものが無くなってしまうのは当たり前だからである。ダーウィンの言っていることは大体次のようなことだと思う。 

①親から子へは基本的に親の形質が遺伝する。 
②遺伝形質は変異することもある。 
③生存と繁殖に適さない形質は受け継がれる可能性は低くなる。 

このうち①と②は経験によって確認することができる。つまり反証可能である。③は論理であるから、反論すること自体がおかしい。 

私の子供の頃は、スピッツという犬をよく見かけた。白くて毛の長い犬種である。見かけがきれいなので、飼っている人がとても多かったのである。しかし、最近はとんと見かけることがない。スピッツは見かけは良いのだが、キャンキャンとうるさい犬であった。うるさく吠えるという形質が人間に嫌われたため、繁殖の機会が奪われてしまったのだ。 
最近は犬を連れて散歩する人が多い。それも私の子供の頃には見たこともない犬種が多い。 
これって進化論の検証にならないだろうか? 人為的な淘汰圧により、種の分岐と滅亡を発生させていると言えないだろうか?

横浜 大桟橋

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進化論はなぜか目的論的に解釈されやすい

2018-11-26 13:53:06 | 哲学

進化論について語る際に、「高い木の葉っぱを食べるためにキリンの首は長くなった」式の説明がされることがままある。しかし、これではダーウィンの思想は捻じ曲げられてしまう。

「~のために」というのは背後になんらかの意思が働いているかのような表現だが、もちろん自然界にはそんなものが見いだされたためしはない。進化論というのは結果論であり、なるべくしてこのようになっているというような当たり前のことしか言っていないのである。

一般的に言って、進化論を目的論的に解釈する人は自然適応というものを過大評価する傾向があるような気がする。現在生存している人類は、既に種族保存を至上命題としているかのような存在にまで到達している、と見ているのではないかと思えるのである。そうすると、「善とは種族繁栄のためになる行為である」などと言い出す人もいるわけである。

確かに、なん百万年もの自然淘汰をくぐり抜けてきた結果、現在生存している生物の本能は種族保存という視点から見れば相当洗練されているのは間違いない。だから、自分の欲望とか価値観を反省していくと、それらを種族保存に結び付ついていると結論づけるのも、ある意味では無理のないことである。正直に言うと、私も中学生の頃そのようなアイデアに取りつかれたことがある。

しかし、そのような考えは所詮こまっしゃくれた子どもの思いつきに過ぎない。デイビッド・ヒュームも言っているように、「そうである」ということからは「そうであるべき」ということは導き出せない、というのは哲学的な鉄則である。我々の本能が種族保存に適していたとしても、それは結果的にそうであるだけのことで、種族保存という目的のために我々の本能がそのようになっているわけではない。もちろん、種族保存に価値を見出す人はそれに向かって励んでいただければ、それはそれでいいのだけれど、それを「善」と定義づけて他人にまで押し付けるのは行きすぎだろう。そのような考えは優生思想にも結び付きかねない危険性があると思う。

養老渓谷(千葉県)

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シマウマは白地に黒縞か、黒地に白縞か?

2018-11-25 12:23:22 | 雑感

スティーブン・ジェイ・グールドは世界的な古生物学者でもあるが、素晴らしい科学エッセイの書き手でもある。約30年前くらいから私は彼の大ファンで、彼の著書はほとんど目を通している。私が推薦委員なら、間違いなく彼をノーベル文学賞に推薦した。全世界の子供たちに彼の著作を読んでもらいたいと願っている。

最近は哲学関係の読み物しか手にしなかったのだが、昨日久し振りに、彼の「ニワトリの歯」という本を手にした。二十年以上前に読んだその内容はほとんど記憶に残っていなかった。あらためて新鮮な気持ちで「シマウマの縞」をテーマにした部分を読んだ。

シマウマと呼ばれる種は3種あって実はウマよりロバの方に近いらしい。その3種の縞模様はそれぞれかなり違うので、それぞれの種が別個に自然適応してできたものか、それとも種が分岐するまえの祖先が獲得した形質であるのかということもかなり議論されたらしい。

かつては、シマウマの下腹部は白いので、白っぽい胴体に黒い縞模様があると考えられていた。グールド博士もそう教えられてそれを信じていたと言う。ところが実はそうではないらしい。イギリスの発生学者J.B.L.バードがすべての哺乳類の体色に関するモデルという広い観点からシマウマの縞模様を分析した結果、3種のシマウマの縞模様は同一の発生基盤をもつと結論付け、同時にその模様は黒地に白の縞であると決着づけた。文字通り白黒をつけたわけである。

この縞模様を発現させる基盤はロバや家畜ウマを含むウマ族は共通してもっている。シマウマ以外のウマ族はその発現を抑制する形質を獲得したものと考えられる。だからシマウマ以外のロバやウマを親とする子の体に縞模様が現れることもあるのである。

シマウマの縞模様は何のためかという問題はずいぶん議論されたらしい。最近は「ツェツェバエが縞模様を嫌うから」という説が有力らしいが、決定的な結論には至っていないようだ。

しかし、「何のため」という目的論的な表現は進化論には本来馴染まない。生存のための理想的な形質をもたなかったとしても、十分生き残る可能性はあるからである。馬族の祖先がツェツェバエの多い所に生まれ、そしてツェツェバエが縞模様を嫌うということであれば、縞模様をもった個体が生存に有利なことは事実である。しかし、縞模様であろうとなかろうと生存にはあまり関係なかったという可能性もあるのではないか、という考えを残しておくことも重要なのではないかと私は考える。

大雄山最乗寺 (南足柄市)

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新実在論を禅的視点から批判する

2018-11-23 06:07:34 | 哲学

存在を「世界」という絶対的地平でとらえるのではなく、それぞれの「意味の場」においてとらえるというのは一見説得力がありそうに見える。そうすると、大抵のものはなんらかの「意味の場」において、確実に存在すると言えるようになる。問題としたいのは、どんな「意味の場」もさらにそれを包摂する意味の場における対象であるとしていることである。つまり、意味の場は無限の階層を構成する。(それがまたすべてを包摂する基底となる意味の場〔すなわち「世界」〕が存在しないことの理由にもなっている。)それでいいのだろうか? どんな意味の場も本当に対象化されるのだろうか? 新実在論によれば、「竜宮城は存在する」ということがある意味の場では確実に言える。この場合、その意味の場は「浦島太郎の物語」ということになるだろう。「浦島太郎の物語」は初めから対象化されているのでこれについては分かりやすい。

では、街で友人の鈴木君とばったり出会った時、鈴木君はどういう意味の場に現れているのだろうか? 「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という意味の場ということで良いだろうか? では、「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という言葉で対象化されたものは、どの意味の場に現れているのだろう? 

「11月21日午後5時の御坊哲の視野」というのは、その時の自分では対象化できない。私の視野を対象化するためにはその時の私を俯瞰する架空の視点が必要となる。だが禅的視点というのは、「ただ今即今、ここ」にしかない。その時の私の視野には、鈴木君や街の様子がある。しかし、私の視野そのものは私の視野の中には無いのである。実存的な視野は決して対象化されることはない。

実存的視野というものを、あえて西田幾多郎の言葉を借りて表現すれば「無の場所」ということになる。それは決して対象化されない。有るとか無いとか言えるものではない、哲学的に言えば存在者ではないからである。鈴木君は、どんな意味の場でもなく、ただ端的に現れただけなのである。

神鈴の滝遊歩道 ( 山梨県西桂町 )

 

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新実在論

2018-11-22 08:24:12 | 哲学

何年か前から哲学界では新実在論というものが流行っているらしい。それで私も今、マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」という奇妙なタイトルの本を読んでいる。

デカルトはすべてを疑うということを徹底した結果、とうとう「今自分は夢見ているのではないか」という疑いを払拭することはできないという結論に到達した。「考える私」以外は何一つ確実ではないということである。確実な基盤がない以上、実在を語るわけにはいかない。西洋哲学は、「考える私」を唯一の足場として観念論を展開するしかなかった。 「世界が存在しない」というのは、すべてのものが存在する絶対的な基盤というようなものは無い、ということをセンセーショナルな言葉で表現しただけに過ぎない。

しかし、いろんな事物を実在として語りたいというのは哲学者の本能である。ガブリエルは、「存在すること=なんらかの意味の場に現象すること」と定義し、事実の地盤を様々な存在領域に分割すれば、「事物たる対象はその意味の場に確実に存在する」と言えるのではないかと提言する。どのような視野も特定の視点からのパースペクティブを帯びていることを考えれば、彼の言っていることは理に適っているように思える。

ある対象は一つの意味の場だけでなくさまざまな意味の場に存在し、またそれらの意味の場もまた対象であるという。つまり、どの意味の場もまた別の意味の場の対象であるというのである。結局、意味の場のネットワークは無限の構造をもつことになる。意味の場はどこまで掘り下げて行っても限りなく続いている。即ち、最終的な基盤としての「意味の場」=「世界」は存在しないということになるというのである。

いちおう、シンプルな理論で理解しやすく説明されているが、ガブリエルの言っていることは、「夢なら夢でもいいではないか、それは夢の中に確実に『存在』する。」と言っているようにも聞こえる。私にはそれほど革命的な理論とは思えないのだが、それは私の理解が足りないせいでセあるかもしれない。

(登山中に霧が濃くなってくると世界のリアリティが疑わしくなってくることがある。)

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