禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ロゴス中心主義と仏教的無常観 (前回記事のつづき)

2023-10-25 14:50:44 | 哲学
 「言葉には指示対象としての意味はない」と言われても、大概の人はすんなりそれを認める気にはならないだろう。それは無理もないことである。誰もが「赤」という言葉に夕焼けの真っ赤な色という意味を込めているからである。その言葉を受け止める方も「赤」と聞けば、みごとに紅葉したもみじの色を思い浮かべるだろう。問題は各人が各々自分の私秘的な感覚(クォリア)を「赤」という言葉の指示対象であると思い込んでいることである。お互いに自分の「赤」のクォリアを照合しあっているわけではないということに留意しなければならない。その場で使用される「赤」という言葉の正当性を支えているのは、お互いがめいめい勝手に思っている意味としての赤のクォリアなどではなく、同じ赤のクォリアを見ているという思い込みだけである。決して秘私的な各人のクォリアが本当に同じかどうかは全く関係ない。赤を赤と決定しているのは、「夕焼けが赤いねぇ」、「そうだねぇ、真っ赤だねぇ」というやり取りそのもの、つまり、その言葉が使用されている状況だけでしかないのである。その言葉が使用される前後の文脈に関する情報ならば ChatGPT は膨大な量を把握しているのだから、その言葉が使用される状況についての分析はAIにとってはお手のものである。コンピューターが並みの人間以上に適切な言葉使いができても不思議はないわけである。

 次に考えねばならないのは、「赤」という言葉が赤と赤以外を分節する機能しか持たないのだとしたら、その境界はどのようにして決まるのかということである。各人が自分自身の秘私的な感覚をもとに決めているのなら、それは各人が恣意的に決定していることになる。どこにも赤と赤以外を識別する客観的な基準はないということである。と言うとあなたはつぎのように反論したくなるかもしれない。「人間は一人一人見かけも体格も仔細に見れば双生児を含めて全く同じ人はいない。だのに私たちはそれらの人が皆人間だということが分かるのはなぜなのか?」と。プラトンなら「それは人間のイデアがあるからだ。」と言うだろう。どの個別の人間でもないが、すべての人間に関わる本質をすべて持つ、人間である限りの人間すなわち人間の範型それが人間のイデアである。それが形而上の領域に存在し、われらはみなその人間のイデアの記憶を持つ、だから見たこともない人間を初めて見たとしても、それが人間だと分かるというのである。人間だけではなく、真・善・美についてもそれぞれのイデアがあるとプラトンは言う。それが本当なら、絶対の真理や絶対の善も存在するということになる。

 ところが、大乗仏教の祖である龍樹はそのような見方を採らない。彼は「すべてを陽炎と看よ」と言うのである。陽炎そのものの実体というものはない。空気は温度によって屈折率が違う。周囲との空気の屈折率が違うことによって、そこに光の揺らぎができる。いわば空気の相対的な温度差という関係性が陽炎を現象させているのである。龍樹は、すべてはこの相対的な関係性から生じるのであって、そのものだけで独立して存在する実体というものは一切ないと主張する。当然絶対的な善なども存在しない。善があって悪があり、悪があって善があるのである。善と悪はあくまで相対的なものであって、それを決定する視点も所詮絶対的ではありえない。人を殺すことは絶対悪いと言われても、どうしても殺さなくてはならない場合もあるかも知れない。極端な例を挙げれば、ライオンが人を食い殺したとしてもそれを悪だとは言うことはできないように、どうしても人間が人間を殺さざるを得ない事情が生じることが無いとは言えない。すべては無数の相関関係の中から生じることであり、そしてそれを評価する視点も無数にあれば、善悪の判断も所詮は恣意的なものにならざるを得ないのである。

 確かに日常的な意味においては、私たちは人間と人間以外を混同することはあり得ないだろう。そういう意味において、誰もが人間の本質を理解していると言えるような気がするかも知れない。しかし、地球の歴史から見れば人間はごく最近出現したばかりである。もともと地球上にいたわけではない。ということは、過去に「最初の人間」がいたことになる。進化論の主張するところによれば、人間は猿の仲間から進化したものだと言われている。だとすると、最初の人間は人間以外の父と母から生まれたことになる。問題はその人間と人間以外の境界をどこに引くかということである。人間のイデアなるものが本当にあるのなら問題は生じない、境界はイデアに照らして自動的に決定するはずである。現実にはそうはいくまい。どこに境界線をもうけようと恣意的であることは避けられない、と言うのが龍樹の意見である。
(次回記事に続く)

「人間というのは妙な生き物よ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。」 ーー  by 長谷川平蔵

線路際のノアサガオが美しい。

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