禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

万法に証せらるるなり

2013-12-15 09:26:41 | 哲学

今回は道元禅師の「万法に証せらるるなり」という言葉について考えてみたい。正法眼蔵については多くの人々が研究しているので、いまさら私ごときが何をかいわんやというところだが、ここの部分はすごく哲学にもなじむような気がするので一言述べておきたいのである。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

習うべき「自己」というのは仏教で言う本当の自己であり、忘れるべき自己とは日常の言葉で言う自己のことである。

禅寺に行って雲水が庭掃除をしているのを見たことがおありだろうか?
一見すれば、彼らの掃除の様子が一般のそれとはずいぶん違うことに気付くはずである。

僧堂では、日常の仕事を作務(さむ)という。この作務が坐禅と同等の重要な修行として位置付けられているのである。だから、同僚とおしゃべりしながらやっているというようなことはありえない。とにかく早い。一心不乱に箒ではいている。彼らには、とにかく掃除に集中して、自分が箒または掃除そのものになりきることを課せられているのである。自分が掃除そのものになりきった状態を「自己を忘るる」というのである。

さらに道元禅師は「自己を忘れるということが、万法に証せられることである」と続けている。万法の「法」はここでは「現象」というような意味に解釈するのが妥当であろう。つまり、万法とは眼耳鼻舌身意に触れるものすべてのこと即ち経験である。「証」とは仏教では悟りを得ることを意味する。

これを現代語に翻訳しようとすると、「森羅万象が私に悟らせてくれる」というようなことになるだろうか。しかし、禅語は現代語に馴染まないことがある。万法を森羅万象と言ってしまうと自分と縁のないものまで含んでしまうようなニュアンスがある。インターネットで検索すると、「宇宙の真理がどうたら」というような解説もある。間違っているとは言わないが、禅語の解釈はできるだけ直接的であるのが望ましいように思う。

ここでいう万法はあくまで、自分の感官に触れるものすべてという意味である。つまり経験である。目の前にそびえる山、鳥のさえずり、ほおをなでる風、これらのことを万法と言っているのである。「自己を習ふ」という文脈からして、証されるのは(本当の)自己でなくてはならない。禅者が山を見れば「自分は山である」というのである。山が悟りに導いうような悠長なことではない、もっと直接的に、山がそのまま自分(の証)である、というのが「万法に証せらる」ということである。ここのところは「即」とか「そのまま」という視点がどうしても欲しい。そうすれば西田哲学の純粋経験論にそのままつながるのである。

本当の自分とは、脳の内側にあるものではなく、むしろ自分の外側にあると思っていたもろもろの現象(経験)の中にこそ顕現しているということである。

 


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1 コメント

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眼耳鼻舌身意 (青蓮華)
2019-03-15 10:21:12
「眼耳鼻舌身意」でこの身に引き付けられたことは、他では見られないとてもいい視点ですね。「本来の自己」というのは、身心脱落する前に建てたものなので、身心脱落した後には用がありません。末尾の2行がちょっと残念です。
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