禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

実存と無常

2019-02-28 05:13:43 | 哲学

哲学で言う「実存」とは現実存在の略であるとされている。現実存在というのは本質存在の対義語である。西洋哲学では、存在(ある)という概念を、「いかにあるか」(本質)と「現実にあるか」(実存)というふたつの面からとらえようとする。そこから生まれた言葉である。

特に、実存主義における実存は自分自身の現実存在を意味すると考えるべきである。恐山の住職代理の南直哉さんも「実存」という言葉をよく使われるが、これも自分自身の現実存在の意味である。ここで言う「自分自身」というのは他人ではない、「ぼく」とか「私」と言っている自分のことである。

私達が世界について語るとき、実は二つの視点からものを見ている。ひとつは客観的視点、もう一つが実存的視点である。実存的視点というのは生身の自分自身が見つめる視点だが、客観的視点というのは自分自身を相対化して他者と同等の存在として見つめる視点である。つまり、客観的視点は自分や他人を見下ろすどこか高いところにある架空の視点である。

このように表現すると難しい話のように感じるが、我々は言葉を獲得すると同時にほぼ自動的に客観的視点を獲得する。コミュニケーションというのは自分をもう一人の他者として相対化しないとなりたたないからである。例えば、自分について他者と語り合うときにも、自分を内観しながら「あの時僕は‥‥と感じたんだ」と話しながら、「ほら、分かるでしょ」という言葉を暗黙裡に付け加えているのである。他者と言葉を交わす時はいつでも、相手と自分が同じ世界にいて同じものについて話している、ということを確信していることが前提となる。このため自分のことについて話す場合にも、一般化された(他者としての)自分について話すという形式をとらざるをえないのである。哲学の難しさというのはそういうところにあるのではないかと思う。

ごちゃごちゃ書いてしまったので、よけい分かりにくくなったかもしれないが、要は、言葉と知識がなくなればそこには実存しかないと言いたいのである。赤ちゃんがお母さんのおなかのにいる時、それは人生の中で人がもっとも幸せな時期だということを聞いたことがある。温かな羊水につつまれて、お母さんの心臓の鼓動の音のみを聞いている、平和かつなんの不安もない幸せな時間である。しかし、その様相は誕生とともに一変する。一瞬にして明るい光の中へ引っ張り出されて、雑然とした喧噪の世界に放り出される。今まで何の抵抗もなくふわふわした羊水に浮かんでいた体が、ごつごつした手でつかまれるわ引っ張られるわで、はなはだ落ち着かない。

「おギャーっ」と泣くのは、不安だからである。赤ちゃんにとってはなにがなんだか分からない。とても不安である、何の知識もない赤ちゃんには不安しかない。全身全霊が不安の塊、これが実存的不安である。

赤ちゃんはやがて時間とともにこの世界に慣れてくる。いろんな知識が身に付いてくると、「世の中ってこんなものだな」と了解できるようになる。順調にいけば、それなりに幸せな人生を全うできることもある。しかし、だれもが順風満帆という訳にはいかない。愛する人が亡くなったり、大病を患ったり、あるいはなにもなくとも、何かの拍子にこの世界の成り立ちというものに疑問が湧いてくる、そういう瞬間がある。今まで分かっていたつもりだったけれど、実はこの世界の根本についてはなにも分かっていない。この世界についての知識というのは、単に経験を重ねて慣れていただけだということにあらためて気づくのである。すべては偶然的であり無根拠である。必然的な保障というものはどこにもないのである。このとき、母親の体内から出てきた時の不安を思い出すのである。

この世界は偶然的でありなんの必然的な根拠を持たない。そのことを無常という。無常の世界はなにも私達に保証を与えない。そこに実存的不安があるのである。

幕山(湯河原梅林)本文とは関係ありません。

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それは一体「問題」なのだろうか?

2019-02-21 15:22:59 | 哲学

誰でも一度は、「私は一体、なぜ今ここにいるのだろう?」という考えに取りつかれたことがあるのではないだろうか? 「なぜ、私は私なのだろう?」とか「世界はなぜあるのだろう?」とか「なぜ世界はこのようになっているのだろう?」などなど、これらはすべて「哲学的問題」であるということになっている。

なぜそれが哲学の問題であるのかと言うと、それは物理学や数学とか地理学などという学問で扱う分野のどこにも属さないからだろう。特定の分野に属さないテーマについて考える学問は哲学しかないからである。だからそれは哲学の問題だというのは妥当だとしても、はたしてそれらは考えてわかる問題か?ということが問題である。哲学はもうとっくにそれらの問題に答えるのは不可能であると結論付けているように、私には思える。

ものごとについて『考える』とか『分かる』とかいうのは、「諸事実とそれらの関係性」がどういうふうになっているかについてのことでしかない。つまり、われらは現にあるものを受動的に観察し分析しているに過ぎないのである。そこから一歩踏み出して、「なぜそもそもそれらの諸事実があるのか?」と問うことはまた別のことであり、我々にはできないのである。

「テーブルの上になぜ大福があるのか?」という問いと「世界はなぜあるのか?」という問いは、文法的には大した違いはないかも知れないが、全然別物である。前者には「妻が私のためのおやつを用意してくれていた」というふうに、私や妻あるいはおやつという生活習慣という事実と関係性によって説明できるが、後者の方は世界があるというそもそもの究極的な原因を問うている為、それに先行する事実というものが存在しないので関係性も何もないのである。

「なぜ空は青いのか?」という問いに対して、私達は光の波長や視神経の仕組みという様々な事実と関係性について語ることができる。つまり、「波長がxxxxの光が視神経を刺激すると私達にはそれが青に見える」ということがわかる。しかし、「波長がxxxxの光が視神経を刺激すると、なぜ私達にはそれが青に見えるのか?」という究極の問いに答えることは決してできない。

おそらく、私達は考える順序を間違えているのである。世界があるということ、空が青く見えるということ、それらは所与である。原初的事実に先行する原因または理由というものはない。世界があるという事実、空が青く見えるという事実、それらの事実というものがあって関係性というものも見えてくるのであって、その逆ではない。私達が受動的に見出だした関係性に依って、原初的事実を説明しようという発想が実は転倒している。私たちが最初に「これらは哲学的問題である」としたものは実は問題として成立しているかどうかは疑わしいのである。

このことを史上最も早く見抜いたのがお釈迦さまである。釈尊は形而上の問題にとらわれることを善しとされなかった、それが「無記」ということである。我々はともすれば疑似問題にとらわれて実存的不安におびえることもある。あり得る筈のない理由や根拠を問い求め執着することを無明と言うのである。

( 関連記事 => 「 無記 」 、 「 意識のハードプロブレム」、「何でも理屈で説明できるというのは間違いであるということを、理屈で説明する。  」 )

曽我梅林にて ( 本文とは関係ありません )

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父になる

2019-02-19 15:57:36 | 雑感

女性は子供を産んだその時から母親としての自覚を持つらしいが、男の方はそうでもないと言うか、少なくとも私はそうではなかった。近頃は男性も女性とともに胎教に参加して、出産にも立ち会ったりするそうだけど、私が結婚したころはそういう方面の意識はあまり高くなかった。妻は長男を実家のある田舎の病院で出産したのであるが、私はそこに駆け付けもせず電話で連絡を受けただけであった。息子との初対面を果たしたのは一週間程過ぎた頃であったと記憶している。

赤ん坊はとても可愛かった。瞳をのぞき込むとニカッと微笑み返す、その表情には随分と癒されたものである。しかしそれは単に、「可愛いから可愛い」という域を出てはいなかった。まだまだ血の絆というようなものは感じていなかったような気がする。

それは息子が三歳になる前頃のことだった。ある日私は仕事を終えて帰ってきた時のこと、集合住宅のエレベータを降りると、自宅前の通路で息子と隣の家の友達がしゃがみこんで遊んでいた。

「いったい何をしているのだろう?」と目を凝らしながら近づくと、私の足音に気がついて息子が顔を上げた。その視線が私を捉えたその瞬間、彼ははっと顔を輝かせて立ち上がり、おぼつかない足取りで私の方に駆け寄ってきた。「胸を衝かれる」というのはこのことである。私の胸の中に飛び込んできた小さな体を抱きしめながら、私は分不相応な宝物を得たことをはっきり認識したのである。それもなんの対価も払わずにである。その時から私は父親になったのだと思っている。

たぶん、私と同じ経験をした人は多いと思う。

横須賀 三笠公園入口 (記事本文とは関係ありません)

 

 

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ネットの記事には注意が必要

2019-02-16 10:12:50 | いちゃもん

池江璃花子選手に関する桜田五輪層の発言がやり玉に挙がっている。なるほど、インターネットで拡散されている記事を読むと、配慮に欠けるような印象を受けるが、実際の発言の一部始終を聞くと全然問題になるような発言ではないと思う。彼のコメントの中から、「がっかりした」「盛り上がりが下火にならないか」という文言だけをとりあげて批判する姿勢には、なんらかの悪意が感じられる。

コメント全体を通して聴くと、桜田氏は「まず治療に専念して、一日も早く元気な姿を見せて欲しい。」ということを強調している。確かに、「がっかりした」「盛り上がりが下火にならないか」という文言もあったが、それはだれもが感じること、全体としては彼女の回復を願っているという趣旨のコメントになっている。

こんな事で正義漢面して大声を張り上げて批判する野党議員のスタンドプレーにはがっかりした。こんなことが政治問題化していることを知ったら池江さん自身が嫌な思いをしているのではないかと想像する。もっと静かに彼女の回復を祈るのが正しいファンのあり方だと思う。

私自身は桜田氏が大臣にふさわしい人だとは考えていないが、この件に関してだけ言うならとても気の毒であると考えている。

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新実在論

2019-02-08 04:39:30 | 哲学

マルクス・ガブリエルは言う、「モラルは存在する」と。なぜなら、「子供を拷問にかけて良いか?という問いに対し、『良い』と答える人はいないはずだ。」と言うのだ。なるほど、力強くて説得力のある言葉である。彼にしてみれば、日本人が問題にしている「人を殺すのはなぜいけないのか?」という問いはあまりにもナイーブ(素朴)すぎるのだろう。

日本人のほとんどは「人を殺すことはいけない」と思いながら、その客観的な根拠を問いたがっている。それはいわば、「1+1=2」であるのと同じように「人を殺すのはいけない」ということを納得したいというのと同じである。その底には、絶対的な規範があればそれに従っていさえすれば責任は回避できるという判断が潜んでいる。しかしカントは、人間の行為にはすべて責任を伴う、道徳行為はすべからく自律的であるべきと説く。カントのドイツ観念論の流れをくむ彼の感性から見れば、日本人の心性はいささか他律的であるように見えているらしい。

どうやら、私は新実在論の「実在」という言葉を誤解していたようだ。マルクス・ガブリエルは「モラルは存在する」と言いながら、同時に「絶対的(客観的)な真実は存在しない」とも言っているのである。「人を殺すことはいけない」というモラルは存在する。現にあなたはそう感じている、なのにその根拠をも同時に求めている。それはない物ねだりであるというのだ、哲学的に表現するとカテゴリーミスマッチだろうか。「実在」というのも、彼の表現によれば「有る意味の場」においては確かに存在しているという意味であって、「絶対的な意味において」というようなものはどこにもないのである。だから、あらゆるものがそこに存在する共通の基盤としての「世界」というのも存在しないというのである。

このような光景も一つのパースペクティブとして確かに存在する。(江の島)

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