禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

スマイルアップの言い分は子どもの屁理屈

2024-04-27 17:23:14 | 雑感
 3月31日の記事で、BBC報道によるスマイルアップ社の東山社長の談話について非難したが、スマイルアップ側は「発言の一部のみを切り取って印象操作している」とBBCに抗議したらしい。

以下は YAHOOニュースから引用
≪東山氏は誹謗中傷する人たちに言うことはないかを問われ、「言論の自由もあると思う。僕は別に誹謗中傷を推奨しているわけでもなく、多分その人にとってはそれが正義の意見なんだと思うときもあります」と発言。 SMILEは取材後、この発言部分を省略すると誤解を招くことから、「発言の一部のみを切り取って放送されることがないよう」と伝えていたが、番組内容と取材時に録音した音声を比較検証した結果、「なるべくなら誹謗中傷はなくしていきたいと僕自身も思っています」との発言が省略されており、視聴者への印象操作だと指摘。放送後、東山氏に対して誹謗中傷を助長しているなどの誤った批判がなされていると訴えた。 ≫

なるほど、「なるべくなら誹謗中傷はなくしていきたいと僕自身も思っています」と付け加えているのだから、決して誹謗中傷を推奨しているわけではないという意味らしい。しかし、性被害者に対して真剣に向き合っているならそのような言い方はしないはずである。現に、性被害を受けた男性が自殺したその妻が、「旧ジャニーズ事務所が『虚偽のケースがある』と発表した後から誹謗中傷が増えた」とBBCの取材記者に訴えた。その事実を踏まえて記者は東山社長にその姿勢を問うた訳である。 なぜあえて『虚偽のケースがある』などとわざわざアナウンスしたのかが問われている。確かに虚偽のケースもあるだろう。そんなことは初めから分かり切っていたことである。なのにそのことをさらにここで言い募れば、純然たる被害者が心ない野次馬よる二次被害にさらされることに思い至らぬ鈍感さが問題である。被害者に寄り添うという態度が見られない。

 「『なるべくなら誹謗中傷はなくしていきたい』と俺言っているよね」という態度は、まるで子供の言い訳みたいで見苦しい。いまさら何を言っているのか、誹謗中傷があったら絶対アカンでしょう。もし旧ジャニーズ事務所が発信した情報がもとで誹謗中傷が増えた事実があるなら、まず猛省せねばならないのであって、そこで「言論の自由」とかいう言葉が出てくること自体がおかしい。確かに言論の自由に対する配慮は常に必要であると思うが、ここで問われているのはスマイルアップ社や東山社長自身の被害者に向き合う姿勢そのものなのだから。
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春の野草 その2 ウラシマソウ

2024-04-21 20:30:45 | 日記
 ウラシマソウという野草をご存じでしょうか? 約十年前ほど前だったと思います、逗子から三浦半島を横断して横須賀目指してハイキング中のことです。道端で5,6人の人が地面を眺めながらお話ししている場面に出くわしました。私が「どうかしましたか?」と声をかけると、その中の中心にいた人が「ウラシマソウですよ。」と答えてくれました。この花みたいなものから伸びているひげが釣り糸のように見えるので、浦島太郎になぞらえてウラシマソウと呼ばれているのだとも教えてくれました。 それから、黒紫色の花らしきものは仏炎苞と言ってミズバショウの白い部分に相当する、そしてその中に花びらがなくてオシベまたはめしべだけの小さな粒のような花が花軸の周りに沢山ついているのもミズバショウと同じである、とていねいに説明してくれたのです。  
 
 
 その時私はとても珍しいものを見せていただいてラッキーと思ったものです。ウラシマソウという名もなにかいわくありげだし、花としては不気味な色形の仏炎苞といい、その時以来ウラシマソウは神秘的な野草というふうに私の記憶に刻み込まれたのです。
それ以後の約十年ほどの間、ウラシマソウを見たのは二回だけです。上高地と矢倉岳でそれぞれ一度ずつ、それもその時はそれがウラシマソウだと気づきませんでした。それは秋になって葉っぱもなく実だけがむき出しになっていたからです。それがなんとも奇妙な実で鮮やかな赤と緑のトウモロコシのような少し不気味な形なのです。 


それがウラシマソウの実であることを知ったのは大分後のことです。いずれにしろそのことを知って、ウラシマソウは私にとってますます神秘的なものに思えてきました。
 
 ところが一週間ほど前に、私はウラシマソウを久し振りに見つけたのです。それも私の散歩コースである円海山の中で。この半世紀近くの間になん百回も通った道でです。それも今まで一度も目に入らなかったのに‥‥。この珍しい植物が自分のすぐ近くにいたということに驚きました。しかし、驚いたのはそれだけではありません。翌日も同じ道をたどりますと、あるわあるは何と30分ほどの間に優に100株以上も見つけてしまいました。どうやらウラシマソウは珍しいどころか、生育条件さえそろえばいくらでも生えてくる、繁殖力の強い植物のようです。今まで私がそれを見つけることができなかったのは、見なかったからではなく特徴をはっきりと覚えていなかったので、それをウラシマソウとは認識できなかっただけのことだったと知りました。今回の最初の発見は、たまたま仏炎苞が歩いている場所から見えやすい角度で映えていたので見つけることができたのです。 
 
 
 ウラシマソウの実がなるのは珍しいことらしいですが、これだけたくさんのウラシマソウがあれば、この秋には実がなっているところを見つけることができるかもしれません。 
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春の野草

2024-04-20 10:20:10 | 日記
 ネフローゼ症候群については3カ月前に寛解と告げられた私だが、当分は慢性腎臓病患者を続けなければならないらしい。いまだに主治医からはランニングや筋トレの許可が出ない。なので毎日ウォーキングに精出しています。ただ平地を歩くだけでは負荷が少ないので、最近は近くの円海山へ日参しています。円海山は山と言っても海抜150メートルほどふもとからの標高差は100mもありません。リハビリには手ごろな山です。今はちょうど時候も良く、暖かな日差しを浴びながら豊かな緑の中を歩くのは非常に気持ちが良いものです。
 
 毎日同じ道を歩いていると、道端のひとつひとつの野草についてもなんとなく愛着を感じるようになってきました。しかし、日頃よく見かける草なのに私はそれらの名前を存じて無いのです。この歳になるまでそういうことに無頓着に生きてきた。まことに迂闊な性分であります。それで、早速インターネットで調べだすと、これがトリビアな知識に満ち溢れていて中々面白い。なんとなく牧野富太郎先生の気持ちが分かるような気がしてきました。 

 畑の側を通りかかると、白い花の群生に出会いました。

 
 これはハナニラと言うのだそうです。そういえば細い葉っぱが食べるニラによく似ています。アルゼンチン原産で元は園芸用として日本に移入されのですが、繁殖力がとても強くて野草化してしまったようです。残念ながら毒が゜あって食べられないそうです。それで、花ニラは食べられるがハナニラは食べられない。」と言われています。花ニラは八百屋さんでも売られている蕾や花の付いている食用ニラのことです。一般に植物の品種名はカタカナで表記しますね。花ニラはあくまでニラであってハナニラとは別品種だということてすね。
 
 
 
 
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「嘘」に見る東西道徳観の違い

2024-04-06 12:28:09 | 哲学

 「うそつき」という語感について、日本人と西洋人の語感はずいぶん違うらしい。若い日本人のカップルがデートしているとする。男性がなにか冗談を言ったとき、女性は笑いながら、「んもぅっ、哲のうそつき!」とか言って、男の上腕をたたく。こんな情景はいかにもありそうである。しかし、この男がもしアメリカ人だったら、「うそつき」と言われた瞬間顔が少しこわばるかもしれない。女性は「もうっ、ジョーったらジョークばっかり」とでも言った方がいいだろう。西洋人に対して「うそつき」と言うのはかなりの罵り言葉である。

 「うそをついてはいけない」というのは洋の東西を問わない普遍的な戒律である。不妄語戒はキリスト教の十戒にも仏教の五戒にもちゃんと含まれている。しかしその受け止め方はずいぶん違うように見受けられる。どう考えてみても西洋の方が厳格である印象が強い。やはりそれは、一神教の戒律は神から与えられた絶対的なものであるのに対し、仏教における戒律は人間の定めたものであるという事情があるのだろう。(お釈迦様も人間である。)日本では昔から「嘘も方便」と言う言葉がある。ちなみに「方便」も仏教用語として輸入された言葉である。キリスト教において戒律に背くことは絶対悪であるが、仏教においては一切皆空である、そもそも究極的な善悪というものはもともとない。すべては縁起の中で相依的に生じるものにすぎないとされる。だから、仏教においては状況次第で嘘をつくことが善行となる場合もあるのである。

 カントが著した「うそ論文」というものがある。正式には『人間愛から嘘をつくという,誤って権利だと思われるものについて』という題の論文である。内容は、どんな場合でも嘘をつくこと自体はよくないということを論じている。たとえば、悪者に命を狙われている友人を自分の家にかくまったとする。そこへ悪者が訪ねてきて、その友人が来ていないかと問われた時にでも嘘を言うのはよくないことだ、とカントは主張する。カントは決して悪者に友人を差し出せと言っているわけではない。この場合、当然友人を守ることが最優先であることは間違いないが、それでも嘘をつくことは良くないことだというのである。できれば友人を救うことと嘘をつかないとを両立させることが望ましいのだが、それが不可能な場合もありうる。この場合は結局嘘をつくことになるだろう。その場合でも、嘘をつくこと自体はあくまで悪なのである。どんなときにも「嘘をつく勿れ」という道徳律に対する敬意を忘れてはならないというのである。

 大抵の日本人ならカントの考えは余りにも硬直しているように感じるに違いない。このような場合にはむしろ積極的に嘘をつくべきであるとする人が多いのではないかと思う。しかし、カントは善悪を仏教におけるように相対的なものであるとは考えない。数学の定理は手順さえ間違わなければ誰もが同じように到達できる。それと同様に、カントは人間が理性的であればだれもが普遍的な道徳律に到達できると考えたのである。つまり、それは人間が恣意的に決めたのではない。数学の定理のように厳然と実在する道徳であり、だから我々はそれを恣意的に解釈することはできない。絶対的なものであるから、無条件にそれに敬意を払わねばならないというのである。

 カントは道徳の源泉をいわば神から理性に移したのであるが、私にはこれが名目上のものに思える。無条件に従わせるという絶対性はなにか超越的なものを措定(結局それを言葉にすれば「神」ということになるだろう)しないと導入できないことのように思えるからである。やはりカントも一神教の世界に育った人のように思える。

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大谷翔平と Shohei Ohtani は別人なのか?

2024-04-05 12:19:07 | 雑感
 昨日やっと大谷選手のホームランが出てほっとした人が多かったのではなかろうか。私もその一人である。それはそれで良いのだが、このホームランボールの帰属についてここでまた微妙な問題が持ち上がっているということをご存じだろうか。

この問題について日本側ではまず次のように報じられた。

≪ 試合後、ホームランボールは戻ってきたのか問われた大谷選手は「戻ってファンの人と話して、いただけるということだった。僕にとっては特別なボールなので、ありがたい」と説明し、ファンには代わりに「ボールとハット2個とバット1本ですね。サインを書きました」とプレゼントを手渡したことを明かしました。 (==>「特別なボール」大谷翔平 移籍第1号記念ボールはファンと交渉し本人の元へ 

ホームラン・ボールをキャッチしたのはローマンさんという女性で昔からのドジャーズ・ファンだという。この記事を読むと、ファンである彼女は大谷から直にプレゼントを渡され、大谷本人から感謝されてさぞやハッピーだったに違いない、と思うのではないだろうか。(私はそのように受け取った。)ところが、おなじYahooでもアメリカのヤフーニュースでは全然違うのだ。


上の記事では、ローマンさんはハッピーではなかったというニュアンスで記述されている。どうも10万ドルの価値があるというボールをそれより価値の劣るプレゼントと交換させられたことに納得していないらしい。それと見逃すことの出来ないのが、彼女は大谷と会っていないと主張していることである。 しかし、記事では大谷が次のように述べたと書かれているのである。

 “I was able to talk to the fan, and was able to get it back,” Ohtani said through interpreter Will Ireton. “Obviously it’s a very special ball, a lot of feelings toward it, I’m very grateful that it’s back.”

私の考えでは、たぶん大谷は通訳に言伝を頼んだのだと想像している。しかしこの文章だと明らかに大谷がそのファンにその場で話しかけたように受け取れる。この記事を書いた記者はそのように解しているはずだ。そして次のように語ってもいる。
Given that Ohtani's willingness to tell the truth is already a central part of one of the biggest stories of the season, his getting caught in an apparent lie over something as trivial as meeting a fan can't be ignored.
 こんな些細なことで大谷があからさまな嘘を言っていると述べている。アメリカ人が「嘘」という言葉を使う場合は軽く受け流すことは出来ない由々しき問題だと思って間違いないだろう。この記者は大谷という人物にかなりの疑いの目を向けているということである。

 私自身は大谷がこのようなことでつまらない嘘をつく人間であるとはみじんも思ってはいない。もし大谷が通訳を介する必要がないほど英語に通じていたならこのような齟齬は生まれなかっただろうと思っている。しかし、既に日本人が知っている大谷翔平とアメリカ人の知っているShohei Ohtani はかなり乖離しているのである。まわりのスタッフはそのことにもっと留意して早めに対処した方がよいと思う。とりあえず、この記事を書いた記者本人にきちんと説明してあげて欲しいと思っている。でないと、大谷はうそつきであるというレッテルを貼られてしまうことになるだろう。大谷ファンにとっては耐えがたいことである。
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