禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「進化する」と言うが、いったい何が進化しているのか?

2024-03-12 16:38:24 | 哲学
 ダーウィンの進化論は自然科学において、ニュートンの万有引力の法則と並んで最も重要な発見であるとされている。思想史的に見ても、私達の世界観にこれほど大きな衝撃を与えた学説は他にないと言ってもよいのではないかと思う。ところが、未だに「猿が人間に進化した」とか「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」式の説明が堂々とまかり通っている。
多分「進化」という言葉がいけないのだと思う。進化という言葉を使うのなら、進化する主体というものががなければならないはず。しかし、そんなものはないのである。下の図を見て欲しい。この絵を見ると、まるで猿が人間に変化していくように見える。
 しかし、そうではないのである。この図の中に変化などしているものはない。ここに描かれているものは一つひとつがそれぞれ別個の個体であり、猿として生まれたものは一生を猿として過ごしそして猿として死ぬ、ただそれだけである。ただ、その猿から生まれる子供は全く親と同一ということはなく、いろんな変異が生じる。その変異が環境に適合しておれば、その子はまた子孫を残す。ただそれだけのことである。決して、変異する主体というものがあるわけではない。上の図は、無数に枝分かれしていった個体群の一部を恣意的に選び出して(※注)プロットしたものに過ぎない。進化論というのはかいつまんで言うと「あるべきようにあり、なるべきようになった。」と、実に当たり前でニヒルなことを述べているに過ぎない。
 
 「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」と言うと、高い所に届くように首を長くしようという意志がどこかに存在したかのように響く。繰り返して何度も言うが、決してそのような意志というものはない。私たちは言葉で「進化する」と言ってしまえば、反射的に主体となる「何か」が進化すると錯覚してしまうのだ。そして「進化」という言葉には進歩とか前進のようになにか目標のある運動のようなニュアンスがある。それで、ついつい進化論を目的論的に解釈してしまいたくなるのである。自然科学の学説の内容は単なる事実であり、われわれの価値観とは本来別次元のものである。しかし、つい淘汰を免れて生存競争に打ち勝つことが価値あることのように錯覚してしまう。その結果として優生思想のような歪んだものの見方が生まれてくるのである。ヒトラーは美しくて健康なドイツ民族を作るために本気で優生学を採用した。その結果、戦争遂行上国家にとって役に立たない障害者や重度の病人を安楽死させるというT4作戦までやってのけたのである。(==> 「優生思想と向き合う」)

 私自身が、もし頭が良くて男前でスポーツ万能に生まれていたなら、私はそれを嬉しく思い、また価値あることだとも思うだろう。だからと言って、私はそのように生まれてくるべきであったなどとは考えない。すでに一個の人間として生まれてきた私の尊厳はそういうこととは無関係なのである。そこのところは絶対に勘違いしてはならない。
 
(※注) 「恣意的に選び出して」という表現は少し言い過ぎかもしれない。現在生存しているものからその親を遡って古い順から並べれば当該図のようになるからである。しかし、それはあくまで終点をあらかじめ固定しておいて時間を逆に遡っていけばの話である。あくまで時間に沿って順に追っていけば、無数に枝分かれした系統の中のたった一つの系統でしかないことがよく分かるはず、そういう意味であえて「恣意的」と記述した。
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