禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

九条が泣いている

2017-06-29 14:44:18 | 政治・社会

憲法9条の3項に自衛隊を明記するという話が浮上しているらしい。正気だろうか?

第九  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これに第3項を追加すれば、第九条の中だけで内部矛盾をきたしてしまう。だって、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とはっきり規定しているのだから、論理的に整合するためには自衛隊は戦力ではないということになってしまう。
そのような憲法を戴く日本国民全体の知的レベルが疑われることになりかねない。こんなトンデモ案を思いつく安倍さんは、論理的な整合性に無頓着な人らしい。

今の若者からしてみれば信じがたいかもしれないが、私が小中学生であった昭和30年代においては、第9条の非戦の誓いは国是であった。第2次世界大戦の敗戦を通じて、日本国民のほとんどは、平和であることがいかなる戦争より勝ることを身をもって知らされたのである。「いかなる理由があっても戦争してはならない。」日本国民は自衛権をも放棄する覚悟をしたのである。尖閣や千島を取られてもいいのか? と言われても、戦争放棄とは、そういうところまで覚悟した上でのことであることはもちろんである。国土が狭く資源も食料も輸入に頼っている、日本は戦争をすることはできないと腹をくくることである。

ところがいつの間にか状況に流されて、軍事費ベースでみるならイギリスやフランスに肩を並べるほどの軍備を備えるようになってしまった。憲法には明確に交戦権の放棄をうたっているのに、「現実的脅威」の名のもとになし崩しに9条は凌辱されてしまった。

残念なのは、日本に9条の意義を理解する本当の政治家が育たなかったことだろう。「現実的脅威」を言いながら、憲法の範囲内でその「現実的脅威」に立ち向かおうとする政治家はいなかった。国民国家の枠組みを超えて、新たな市民社会を創造するという理念に従うならば、日本が軍備を持たないことの意義を近隣国家に認識させる必要があった。一定の国際理解が得られなければ9条の維持はできない。ロシア、中国、北朝鮮にはもちろん韓国にとっても、日本が軍備を持たないことはメリットになるはずだった。日本のような経済大国が軍備を持たないということは、世界の諸国にとってもいつか地球上から戦争がなくなる日が来る、という希望でもあったわけだ。しかし、そのような意義を他国に理解させようという努力は皆無だったのである。自ら進んでアメリカの走狗たろうという政治家に、そのような理念に対する理解などあろうはずもなかったからだ。

ともあれ、国是を変えるということならば、それなりに歴史への総括と新しい理念の提示をしなくてはならないはずだ。恋愛などにしても心変わりしたら、相手に2,3発頬を張られる覚悟でそのことを打ち明けなくてはなるまい。それが、ずるずるとつぎはぎだらけの解釈改憲重ねたあげくに、論理破たんの3項追加とは情けない。

「9条を守れ」と言うと、右寄りの連中から「現実離れした平和ボケ」と揶揄される。しかし、原発を稼働させながら、北のミサイルの脅威を口にする連中こそ平和ボケだと言いたい。

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安倍さんは嘘をついている

2017-06-24 10:52:18 | 政治・社会

いい加減、加計学園問題にはうんざりしてきた。文部科学省内では「総理のご意向」文書が出回っている。前次官もそれは認め内容も真実だと言っている。なのに官邸はなぜか真実の究明に消極的であるならば、もうそれは「総理のご意向」があったとみなすべき事態のはずだ。なのにジャーナリズムの論調は甘すぎる。 

官邸の言い分では、文部科学省内で誰かが「総理のご意向」を勝手にねつ造して、行政を恣意的にコントロールしたということになる。それこそ由々しき問題で、総理からすれば徹底的にその張本人を追及して懲罰せねばならないはずなのに、安倍さんは全然そのことについては全然関心がないようだ。面妖なことである。 

安倍さんは李下において冠を正してしまった。そして、その冠の中には何も入っていないと口で言うだけで、一向に冠を脱いで見せようとはしないのである。

「安倍首相はうそをついている。」 はっきりそのように断定すべき時期はとうに過ぎていたのではないだろうか。

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禅的時間論

2017-06-18 11:31:25 | 哲学

哲学者の永井均さんが著した「時間の非実在性」という本を図書館で借りてきて読んでいる。時間というものが実在するかどうかということは、昔から盛んに議論されてきた。その中でも英国の哲学者マクタガートによる時間論はもっとも有名な論文であり、この本はその解説書である。しかし、これがなかなか難しい。老化した脳細胞には錯綜した概念分析について行けない。 

禅仏教にも時間論はあるが、時間そのものを概念分析するなど、まどろっこしい説明などしたりしない。「ただ今、即今」、それだけである。西洋哲学はその点ちょっと面倒である。マクタガードは時間を概念分析した結果、「過去ー現在ー未来」(「A系列」と呼ぶ)という把握の仕方が本質的であるとする。そして、次にこのA系列が矛盾していることを証明して、時間が実在しないと主張するのである。 

しかし禅仏教では、このA系列はしょっぱなから直感的に否定される。虚心坦懐に反省すれば、過去や未来は現在(今)と対立するものとしては見られない。過去は単に記憶で未来は想像にすぎず、それも今想起されるべきものだからである。過去も未来も今の中にしかない。「過去―現在―未来」という系列が成立するためには、過去、現在、未来が同等の資格をもつ存在者でなくてはならないはずである。禅仏教から見ると初めからそのような図式は成り立たない。( これが禅あるいは仏教の公式見解であるかどうかは分かりません。ここで言う「禅仏教的視点」というのは、私がそう解釈しているだけのものであるかもしれないという但し書きをつけておきます。 ) 

現在を「存在者」と言ったが、すべてが「今」であるということになると実はそれが怪しくなる。すべてが「今」なら、「今」が何であるか識別できなくなるからである。究極の所与のものに対する言及の困難さが、禅仏教におけるもともとの中心課題でもある。 

永井さんの著書においても、「端的な今」とか「今の今」とかいう不可解な表現が頻繁に出現するが、「今」がなんであるか分からなければ、「端的な今」とか「今の今」もなにを指しているか分からないのである。もともと概念化できないものを概念化しているので、分かったような分からないような表現になってしまうのである。 

その結果、「端的な今」が時間軸座標の上を過去から未来へ移動していくという図式を無理やり描くことになる。これが、時間が動くとか流れるという表象につながるわけである。しかし、断じて「今」は動いたりしない。おそらく動いている「今」を見た人などいないはずだ。動くのは、人や車などの具体物である、「今」は動かない。流れるのは川の水であって、決して時間は流れない。「今」や時間というなんらかの抽象物は決して動いたり流れたりしないのである。 

時間軸というのは時計の針の先端の軌跡を直線状に写像したものであり、その直線状を動く「端的な今」というのは時計の針の先端であるにすぎない。人は「端的な今」を時計の針の先端に重ね合わせているのだ。 
それならば、『時間とは時計の針の動きである。』と定義してしまった方が、ものごとはより明確になるはずだ。それで我々の生活には何の不都合も生じないはずである。 

「端的な今」という所与のものについては、また改めて詳しく述べてみたいと思う。

( 参考記事==> 久響龍潭 )

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すべてを陽炎と見よ

2017-06-13 06:14:30 | 哲学

図書館で、永井均さんの「哲おじさんと学くん」という本を借りてきた。その中に、「第49話 そもそも存在しないものでも「絶対確実に」存在できる」という興味深い一節があったので引用する。(永井先生は日本を代表する哲学者の一人である。)

【 引用開始 】( 以下は哲おじさんと学くんの対話である。)

学 : でも、例えば小説の中の登場人物がデカルトのように考えて、「私は今確かに思っている、だから私は存在している!」と言ったら、どうなる?

哲 : そいつがそう思ったなら、そいつは間違いなく存在する。ただし、もちろんそいつにとっては、だが。

学 : 「そいつにとって」はだとしても、「そいつ」なんてそもそも存在していないのに?

哲 : いや、その小説の中では、そいつは存在する。ただし、そして、そいつがそう考えた以上、そいつはそいつ自身にとって疑う余地なく、絶対確実に存在する。

学 : でも、それは本当の存在の仕方じゃないよね?

哲 : それが本当の存在の仕方ではないと言うなら、小説の中ではなく、この現実世界において、誰かデカルトのように考えた場合だって同じことではないか。その人が、「私は今確かに思っている、だから、私は疑う余地なく存在している!」と言ったとしても、所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎないのだから、疑う余地なく存在するその存在の仕方は、疑う余地がないにもかかわらず、本当の存在の仕方ではない、ということになるだろう。

学 : そうなんじゃない?

【 引用おわり 】

永井さんは、デカルトは歴史の中に存在し、「そいつ」は小説の中に存在する、と言っている。が、実は両者の存在の仕方は同じだと言っているのである。一見理不尽なことを述べているようだが、その通りなのである。

われわれは「ある」や「存在する」という言葉をそのように使っているのだ。哲おじさん(永井)も「所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎない」と言っているように、小説の中の人物が「絶対確実に」存在する、と言ってもそれは言語によって構成されたものに過ぎない。逆に言うなら、デカルトもそれにこの現実世界のだれであっても、「ぼくは考えてい、だから僕は存在する。」と言ったとしても、実はその存在は言語によって構成されたものに過ぎないと考えるべきなのではないだろうか。

龍樹の「すべてを陽炎と見よ」という言葉は、そのように考えると納得がいくのである。

高尾山 木の根道

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せこさが憎い‥

2017-06-05 10:18:11 | 哲学

人は、それは良いとか悪いとかよく言うが、良い悪いを哲学的に論じようとすると結構難しかったりする。何事も根源的に突き詰めていくと虚無(ニヒル)に突き当たってしまうからだ。
ことの良し悪しとか善悪の根拠は、我々の人性(human nature)に求めるしかあるまい。

子供の頃、こぶとり爺さんの話を聴いて、正直爺さんは報われて良かった、嘘つき爺さんはひどい目にあってざまあみろ、と思った。学生の頃、特攻隊員の遺書を読んで涙が出るほど感動した。このような経験は誰でも共通しているのではないだろうか。

正直や献身は美しい。嘘つきや抜駆けは醜い。私たちは心底からそう思うのである。それは私たちの人性に刻み込まれている、と私は考える。

だから私自身も正直で献身的な人間でありたいものだと思っている。ところがだ、自分自身を振り返ってみるとちっとも正直でも献身的でもない。悲しいことだがそれが現実である。

なぜだろう?

人間は虎やライオンのように強くはない。馬のように速く走れない。猿のように木の上で難を逃れて生活をすることもできない。個体としての能力は極めてひ弱で、野生で生きて行くことはとてもかなわないことだろう。人間は社会的動物として、協力し合うことによって生き延びてきたのである。お互いに騙し合うことはタブーであったからそれが可能であったと言える。

人間は部族間でも争う。命をかけて戦う気概の無い人間ばかりの部族は生き残れない。だから今生き残っている我々は、命をかけて戦い勝ち抜いてきた部族の末裔である。

ここでひとつ問題がある。グループとして生存するためには、その集団のために命を惜しまず戦う気概のある戦士が多いほどよい。しかし、当然のことながら、先頭切って命がけで戦う戦士は生存率は高くない。個体として生き残るためには勇猛すぎることはマイナスである。

集団の危機が差し迫れば差し迫るほど、勇敢さが称揚され抜駆けは許されなくなる。命を惜しむものが多ければ結局その集団は生き残れないのである。そして、当然命を惜しむものに対する牽制があった方が集団の生存のためには適している。

第2次世界大戦の末期には、特攻隊なるものが編成された。私の叔父も選抜されて予科練に入ったのだが特攻前に終戦隣命拾いしたのである。その叔父が言うには、「みな、われ先に志願した。命を惜しむものなど誰もいなかった。」ということである。

一朝ことあれば命を投げ出す、という性質は我々の人性に刻み込まれているのだと思う。しかし、私はこのことについて祖母が放った言葉を忘れることができない。彼女は「予科練に選ばれたのは皆貧乏人の子ぉばっかりやった。その時の教師の顔は死んでも忘れん。」と憎々しげに言ったのである。

彼女の言葉には、息子が予科練に選ばれたという名誉を喜ぶ気持ちはない、潔さが称揚される中で何とか自分の血脈の生き残りを模索する人々への牽制の憎しみがあるだけである。

私たちの人性には、献身と正直さを美しいとするものがある、それは確かなことである。そして少し複雑なメカニズムであるが、自己犠牲が必要とされる場合にはそれに従うが、意識的にしろ無意識的にしろ自分だけは何とか犠牲を免れたいという性向も持ち合わせている。それと同時にどうしても自己犠牲が免れ得ないものであるときは、他人の抜駆けへの強烈な牽制意識も持ち合わせている。

考えて見れば、私はアンビバレントな価値観を持ち合わせていると言わざるを得ない。正直さと献身を素晴らしいものと感じながら、決して自分はそうなりきることはできない。他人のせこさを憎み軽蔑するが、実はそれは自分がせこいからなのである。

進化論的観点から見ると、そうであったからこそ生き残ってこれたとも言える。何十万年もの間厳しい生存権をかけて私の先祖は駆け引きに勝ってきたとも言える。その結果、実は私が本当に美しいと思える人やはっきり醜いと言える人は淘汰され、ある意味不完全な価値観をもつ私たちが生き残ったわけである。

進化論をたてにして、自分を正当化しようとしているわけではない。進化論を目的論的に使用するのはダーウィンの精神に最も反するところである。悲しいことだが、単なる事実として不完全な私が生きているということである。

東京 三鷹市 山本有三記念館

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