ダーウィンは素晴らしい科学者である。「種の起源」は科学における古典中の古典と言ってもよい本で、世界中の若者に読んでもらいたいと思っている。進化論の述べていることはとてもシンプルで、その主張するところをかいつまんで言うと、「世界は自然法則に従って、あるべきようにある。」ということである。ある意味そっけない、とてもニヒルなものである。しかし、人はそのニヒルさに堪えることができない、ことこの進化論に対してはどうしても自分の主観を入れたくなるのである。
自民党の改憲の為の広報として、マンガ(【教えて!モヤウィン】第一話 進化論)でその主張を分かりやすく解説している。だが、その内容について、方々から「ダーウィンはそんなこと言っていない。」と批判されたにもかかわらず、そのマンガを訂正しないまま掲載し続けている。おそらく自民党には科学に疎い人が多くて、なにを批判されているかが分からないのだと思う。(皮肉じみた言い方になってしまったが、たぶんこれは皮肉ではなく事実だと思う。
マンガの中ではダーウィンの進化論の主張として次のように述べられている。
【 最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。唯一生き残ることができるのは、変化できるものである。】
しかし、ダーウィンの言説のどこを探しても、それに類する主張は見当たらない。そもそもダーウィンは「変化する」ということさえ言っていない。「変化する」主体というものがそもそもなくて、種は枝分かれするだけである。枝分かれしたものの内、環境に適合(この「適合」には運も含まれる)したものが生き残る、というだけのことなのである。
上の図を見ると、まるで猿が人間に変化しているように見える。しかし、そうではない。猿として生まれたものは、一生を猿として過ごし、そして猿として死ぬ。ただ、その猿から生まれる子供は全く親と同一ということはなく、いろんな変異が生じる。その変異が環境に適合しておれば、その子はまた子孫を残す。ただそれだけのことである。決して、変異する主体というものがあるわけではない。上の図は、無数に枝分かれしていった個体群の一部を恣意的に選び出してプロットしたものに過ぎない。「木を見て森を見ず。」という格言がある。木という細部ばかり見ていると、森という大局を見ることができないという意味である。しかし、大局ばかり見ていても、具体的な真実を見逃してしまうことがある。「木」という細部をきちんと見ないと科学とは言えないのである。
自民党の漫画における、「唯一生き残ることができるのは、変化できるものである。」という文言は、いろんな意味で間違えている。実際にゴキブリやシーラカンスのように、「種」として長い間変化していないものも存在するし、むしろ一般的に言って、変異が種族保存に有利に働くことは「極めて」まれである。「種」という視点から見れば、変化して生き残ったものはごくわずかであり、変化して滅んだものの方が圧倒的に多いということを忘れてはならないと思う。
この問題について、自民党の二階俊博幹事長は「(誤用と指摘した)発言者の真意は確認していないので分からないが、学識のあるところを披歴されたのではないか」とし「ダーウィンも喜んでいるでしょう」とトンチンカンなことを述べたらしい。ダーウィンはあきれ返っているだろう。