禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

Chat GPTの問題点

2023-04-13 06:59:01 | 哲学
 チャットGPTというのが現在大きな話題を呼んでいる。質問を入力すると人工知能=AIが、自然な会話をするように答えてくれるのだそうだ。最近のAIの進歩は目覚しく、かなりの精度の高い会話が出来るらしい。使用する側から見ると、向こう側に本当に物知りな人がいて、その人が答えてくれているように感じるらしい。しかも、そのAIを使用すると、そのこと自体が情報として蓄積される。チャットGPTはその蓄積されたデータを分析しさらに高度なものへと進化していくというのである。つまり、チャットGPTは自分自身で学習し賢くなっていくという自立性を持っている。素晴らしいシステムだと思う。

 高度なAIといえば決まって、「意志を持ちしかも人間より賢くなった人工頭脳はやがて人間を支配しようとするのではないか」というような話が持ち上がってくる。「ターミーネーター」という映画が公開されたのはもう40年近く前になる。この映画の中のストーリーでは、今から5年後の2029年にはスカイネットというAIに世界は支配されているらしい。スカイネットは自己存続ということを最高の優先順位設定されているので、高度な防御システムを築き上げかつ自らを破壊しようとする人間を滅ぼそうとするのである。相手は高度な知性を持つコンピューターであるので、人間にとってはかなり困難な戦いを強いられるという話である。

 個人的にはAIがスカイネット化するような脅威は現実的ではないと考えている。AIは欲望する肉体をもたないからである。今のところ、AIは人間を支配したいと考えるようになるだろうとをいうようなことを怖れる必要はない。怖れる必要がないどころか、いずれは誰もがこのAI便利な道具として頻繁に使用するようになるだろう。しかし、Chat GPTにはスカイネット化よりももっと差し迫った問題があるように私には思える。おそらくChat GPTが集積する情報はわたしたちの想像を絶するようなものになるはずである。それは文字通り「想像を絶する」のであり、われわれには決してその内実は公開されない。そして主催者側にとってそれはビジネスなのである。一方は巨大な情報を握り、一方はそのことについて何も知らされない、そこに巨大な差別がある。情報をもたないものは情報をもつものに対して何らかの意味において依存するようになる。情報の支配は新たな支配と従属の関係を生みかねない、これは民主主義にとって大きな脅威であると私は思う。

 情報化社会は人類に対してあまりにも大きなインパクトを与えている。若者が本も新聞も読まずにスマートフォンばかり眺めている現状や、インターネットによる情報拡散が社会の分断を加速している事実はもはや差し迫った脅威である。AIが人間を支配するというより、あふれる情報の渦の中で人間が自ら考える主体性を失いつつあることがより重大な問題であると思う。
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この子が良い

2023-04-04 07:01:31 | 仏教
 一昨日(4/2)の東京新聞に俳優の美馬アンナさんの手記が掲載されていた。とても感銘を受けたのでご紹介したい。ちなみに美馬アンナさんは千葉ロッテマリーンズの美馬学投手の奥さんである。 美馬さん夫婦の三歳になる息子さんは四肢欠損症で右手首から先がなかった。出産直後にそのことを知ったアンナさんは非常に驚き嘆き悲しんだ。その時のことを彼女は「何をやっても涙が出る。世界が真っ暗になるというか、闇に包まれるというか。そんな思いでした。」と述懐している。

 彼女の悲嘆は察するに余りあるが、そんな時に夫である美馬投手は「お腹にいる時に分かっていたら産まなかったの?」と訊ねたのだそうだ。彼女が即答できないでいると、美馬投手は次のように言ったのだそうだ。
「右手のことが分かってても俺は産んで欲しいと言っていた。この子が良かった。俺たち二人の親のもとに生まれて良かったと、この子を幸せにしてあげる自信がある。」
この言葉を聞いてアンナさんは「それで、はっと世界が明るくなりました。」と述べている。

 私はこの記事を読んで、美馬投手の「この子が良かった」という言葉がとても心に響くのを感じた。店先に並んでいる商品なら、手に取って選ぶことが出来る。しかし子供は品物ではない。あらゆる因縁の網の目をくぐり抜けて夫婦のもとに授かった唯一無二の存在である。「比較して選ぶことなどできない」ということが「この子が良かった」という言葉の意味である。

 「五体満足」という言葉がある。その言葉には普通の人間とか完全な人間というニュアンスがある。しかし、現実にはそんなものは存在しない、と説くのが仏教の空観である。無常の世界ではいかなる固定的なものも存在しない。「普通の」とか「完全な」ものは存在しないのである。無常のなかではすべては過程的で変化の途中だからである。五体満足とか不具というのも恣意的な比較によって生まれる概念に過ぎない。よくよく考えてみれば完全なものと不完全なものの境界など存在しないのである。その辺のことについてはこのブログで繰り返し取り上げてきた。(参照=>色即是空 空即是色) そのような視点から見れば、「『障害』というものは存在しない、それは『個性』というものである」という言葉の意義も理解できるのである。  
 
 仏教における空観とは、比較による分別を廃し現実をありのまま受け入れるということに他ならない。アンナさんの「それで、はっと世界が明るくなりました。」という言葉は、ありのままの世界を受け入れるという悟りの言葉でもある。
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